【コラム】
宗教・民族から見た同時代世界

一夜の夢に散ったタイ総選挙の王女首相候補擁立作戦

荒木 重雄

 3月24日、タイで8年ぶりの総選挙が行われる。結果の発表は投票から60日以内というから、まだ先の話だ。国王の戴冠式が5月上旬に挙行されるので、そのあとと予想されている。
 競っているのは、2014年5月にクーデターを主導し、以来、暫定首相として軍政を率いてきたプラユット元陸軍司令官を首相候補に担ぐ親軍政政党「国民国家の力党」と、これに対抗する、農村部や都市の貧困層に支持されるタクシン元首相派政党、および、民主党など双方に距離を置く勢力の、三つ巴の戦いである。

 読者の記憶にもまだ新しいことであろう。選挙戦の冒頭(2月8日)、タクシン派政党の一つ「タイ国家維持党」が、この三つ巴の混戦を一挙に抜け出す、前代未聞の奇策に打って出たことを。なんと、故プミポン前国王の長女でワチラロンコン現国王の姉のウボンラット王女を党の首相候補に届け出たのだ!

◆◇ 跳ねっかえり王女の気紛れか?

 タイで王室の権威と信望は、翳りが見えてきたとはいえ、いまだ国民の間で絶大だ。しかも、王室批判には不敬罪が適用される。したがって選挙戦で競り合う政党が同党を批判することも難しい。これで勝負はついたの感があった。

 ウボンラット王女のプロフィールの一端を紹介しておこう。少女時代には父王とともにヨットレースに出場したような快活な性格の才媛で、米国留学中に米国人と結婚して王族籍を離れ、米国の大学で教鞭を執ったが、離婚して帰国したのち、再び王族に準じる扱いを受けている。最近はAKB48のヒット曲「恋するフォーチュンクッキー」のタイ語版のカバーを歌い踊る動画がネットで公開され話題をよんだ。
 そんな王女が、こともあろうに、王族・軍・官僚など旧勢力や富裕層・都市中間層など既得権益層の利益を代表する親軍政政党ではなく、これに対抗する、農村や都市貧困層が基盤のタクシン派政党と結んだのだ。
 これは痛快としかいいようがない。

 だが事態は一夜にして覆った。届け出たその日の夜、ワチラロンコン国王が王女の政治関与を「不適切」と批判する声明を発表したのだ。これを受けて翌日、タイ国家維持党はなすすべもなく、王女擁立断念を発表した。
 国王はこの声明で、「王室の高位の者が政治の世界に入ることは、いかなる理由や方法であれ、非常に不適切だ」とし、王室は政治の上に位置し、政治的に中立であるべきと強調している。

 さてそれでは、タイで王室とはいかなる存在で、はたして政治的に中立であるのか、あったのか、振り返っておきたい。

◆◇ 菩薩である王は公正中立というが・・・

 タイにおける伝統的な王権思想は仏教を基盤とするものであった。「菩薩王(カルマ・ラージャ)」とか「正法王(ダルマ・ラージャ)」というが、王がなぜ王であり統治の正統性をもつかはすなわち、菩薩である王がこの地上に仏の理想(正法)を実現するがゆえにであるとする。そして、そのことを民衆に納得させる演出装置として夥しい数の壮麗な仏塔・伽藍を建立し、併せてサンガ(仏教教団)の庇護者を任じてきた。

 1932年の立憲革命で一旦衰えた影響力を57年のサリット将軍によるクーデター以降回復した王室が採用した理念も、また、「王は仏教の擁護者」の観念であった。すなわち、王は、民衆の生きる拠り所であり、社会正義の規範である仏教を護持・興隆するがゆえに国王であり、ゆえにまた、その仏教の擁護者として民族を代表する国王を守るのが政治指導者および国民の最大の責務であるとする論理である。こうして得た国民からの敬愛と支持を背景に、プミポン前国王はタイ政治の幾多の危機に「公正な」調停者として対処し、国民の信頼を一層高めたとされる。

 だが、そうだろうか。タイの現代政治を特徴づけるのはクーデターの多さである。プミポン前国王が威信を回復した57年から現在まででも12件を数える。クーデターは、企てられるたび「国王のため」が大義名分とされるが、その12件の内、成功は8件、失敗が4件である。クーデターが成功するか否かはひとえに、国王とその取り巻きがそのクーデターを認めるか否かにかかっている。その判断に彼らの利害や思惑がかかわることは言を俟たない。

 例を挙げてみよう。
 サリットの後を継いだのは腹心の部下の軍人タノム首相とプラパート副首相のコンビだったが、この政権はやがて、目にあまる独裁・強権ぶりと不正蓄財から学生・市民の大規模な反対運動に遭遇することになり、73年10月、学生・市民と軍・警察が衝突して多数の死傷者を出すに及んで、国王はタノム、プラパートらに国外脱出を指示して、文民の新首相を任命した。この決断は国民に国王への信望を高めたが、民主化のさらなる進展に危機感を抱いた王室は、3年後、軍服から僧衣に着替えたタノム、プラパートの帰国を認め、これを機に軍・警察と右派勢力による民主派攻撃が開始され、76年10月には「血の水曜日」事件として歴史にのこる残虐なしかたで民主派勢力は壊滅させられた。紆余曲折を経て、タイ政権は王党主義者プレム陸軍司令官に引き継がれた。

 上は王室の老獪さを示す逸話だが、もう一つ、記憶される読者も多いはずの名場面がある。92年5月、スチンダ陸軍司令官の軍事政権に反対する市民の集会に軍・警察が無差別発砲を加えて多数の死傷者を出した「流血の5月」事件が起こった。国王はスチンダと市民側リーダーのチャムロン前バンコク市長を王宮に呼びつけ、拝跪する両名に直ちに事態の収拾を図るよう指示した。このときのテレビ映像は世界を駆け巡り、国の内外にタイ国王の力の大きさを印象づけた。

 だが、その名調停者ぶりも、争いがバンコクやタイ南部の伝統的な政治エリート間の覇権争いであるあいだはよかった。しかし、2000年代に入り、北部農村に基盤を置く民衆的政治勢力がタクシン派として台頭し、旧勢力・都市既得権益層と激しい抗争を展開するようになると、軍・官僚とともに既得権益層の一翼を担う王室は、もはや「超越した公正な」調停者ではなく、明らかに対立の一方に与する当事者となった。タクシン政権を倒した2006年9月のソンティ陸軍司令官によるクーデターも、タクシンの妹のインラック政権を倒した14年5月のプラユット陸軍司令官によるクーデターも、ともに国王側近のプレム枢密院議長の指示や承認によって行われたと見做されている。

◆◇ 時代変化にゆらぐ王室の行方

 さて、今回の王女とタクシン派を巡る騒動について、タイ政界の事情通からは、「王女が国王の支援を得られると先走ったのではないか」とか「国王の承認なしにはできなかったはずだ」とか、「既得権益層など反タクシン派に予想以上の反発が広がったことから、慌てた国王が収拾に動いたのではないか」とかの憶測が出回ったが、その真相は謎のままだ。だが、先に述べた王室の立ち位置が事態の基底をなすことは確かだろう。一方、時代の推移の中でのタイ王室内部のゆらぎも感知されよう。
 王女の一人が、束の間とはいえ一旦は反体制側の民衆政党側についた! その騒動が選挙の結果として見えるのもまだ先の話だが、時代変化におけるタイ王室の軋みと変化をも今後に見ることになる、そのはじめの一歩だったのではないだろうか。

 (元桜美林大学教授・『オルタ』編集委員)

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