【コラム】宗教・民族から見た同時代世界
世界遺産サグラダ・ファミリアが語ること
今年のカトリック界で世界の注目を集めたトピックの一つは、6月、スペイン北東部バルセロナの世界遺産、サグラダ・ファミリア教会の主塔「イエス・キリストの塔」が完成し、設計者アントニ・ガウディの死後100年を記念して、教皇レオ14世を迎えた盛大なミサが挙行されたことだろう。
増殖する有機体のような不思議な形態と、外面を埋め尽くす彫刻群、光と色彩の交響曲のような堂内は、「永遠の未完」の伝説とともに、人々の称賛を呼び、年間500万人の信徒と観光客が訪れる大聖堂である。が、その成立ちの背景に眼を配ると、また別な相貌も見えてくる。
◆「民衆教会」としての創設
サグラダ・ファミリア(聖家族)教会の建設がはじまったのは1882年であった。この教会は「贖罪教会」という成り立ちをもつ。カトリック大聖堂の殆どは、王侯貴族や大富豪の財源で建つが、贖罪教会とは、そのような大財源ではなく、信者や巡礼者、一般の人々からの喜捨によって建設、運営される教会である。
着工の年にご注目いただきたい。現教皇がその遺志を仰ぐ教皇レオ13世が、産業革命後の資本主義社会における労働者の悲惨な状況に目を向け、その尊厳や、公正な賃金、労働条件の改善など、社会問題への取り組みをカトリックで初めて指示した回勅「レールム・ノヴァールム」を発表したのは、その9年後の、1891年であった、
つまり、サグラダ・ファミリアは、そのような時代状況に向き合い、底辺を含む人々に癒しと救いをもたらす「民衆教会」として出発したのであった。
◆聖堂は設計者の人生を変えた
アントニ・ガウディが設計に就いたのは、着工翌年のことであった。貧しい銅細工職人の家に生まれながら、学んだ建築学校では「狂気か天才か」と評される個性を発揮し、独特な構造力学感覚と、物語性に満ちた細部の装飾で頭角を現していた。
サグラダ・ファミリアも、林立する18基の塔は森や動植物など自然の構造をヒントにデザインされ、東西のファサードには、受胎告知・誕生から磔刑・昇天までのキリストの生涯の有名な場面が、圧倒的な密度で彫刻されている。この彫刻群は、文字が読めない人たちに聖書の世界を伝えるためといわれる。
当初はさほど社会意識があったわけでも信仰深かったわけでもないガウディだが、サグラダ・ファミリアの建造に専念する中で変貌をとげる。
彼の故郷でありサグラダ・ファミリアがあるバルセロナが位置するカタルーニャ地方は、独自の歴史を持ち、たびたびスペイン王国に抗っていたが、19世紀末にカタルーニャ文化の復興運動(ラナシエンサ運動)が盛んになると、ガウディも熱烈なカタルーニャ主義者となり、国王にカタルーニャ語で対応して物議をかもしたり、警官の尋問にカタルーニャ語で返して拘留されたりの逸話を残している。また、信仰においても、熱心のあまり、禁欲主義から厳格な菜食主義者となって健康に影響を及ぼしたという。
1926年6月7日、日課のミサで教会へ向かう途中のガウディは路面電車に轢かれた。ひどく痩せていたうえ服装が粗末だったことで浮浪者と見做され、手当てが遅れたことから、3日後に病院で死去した。73歳であった。
その末期の姿も、サグラダ・ファミリアの成立ちに相応しい。
◆聖堂がスペイン内戦を経験
ガウディの存命中もサグラダ・ファミリアの建造は、財源難などから滞っていたが、死後、さらに遅れた。それは、スペイン内戦で、模型や設計図の殆どが失われたからであった。
スペイン内戦(1936~39年)とは、共和国となった政府に王政復古をもくろむフランコ将軍ら軍部が反乱を起こし、それをナチス・ドイツとファシスト政権のイタリアが飛行機はじめ兵器や兵員を送って支援し、片や共和国政府を守ろうと立ち上がった民衆の人民戦線にはソ連の顧問団と国際旅団(諸外国の市民の義勇兵)がついて戦われた内戦で、第二次世界大戦の前哨戦ともされている。ピカソの有名な絵画「ゲルニカ」は、このときの、フランコ軍による無差別爆撃への怒りを込めて描かれたものである。
共和派の拠点であったバルセロナではとりわけ熾烈な戦いが展開されたが、駆け付けた国際旅団の中に、義勇兵として参加した米国人作家ヘミングウェイや英国人ジャーナリスト、ジョージ・オーウェルがいた。そのときの経験を書いたのが、ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』でありオーウェルの『カタロニア讃歌』である。
カトリック保守派がフランコ軍を支援したため多くの聖堂が破壊されたが、サグラダ・ファミリアは残った。しかし、オーウェルのサグラダ・ファミリア評は芳しくない。カタルーニャの人たちへ限りない親愛とリスペクトを示しながらも、サグラダ・ファミリアについては、曰く、「ラインワインの瓶そっくりな、銃眼のある尖塔は、世界で最も醜い建物の一つである。爆破しなかったアナキストたちは悪趣味である」。
◆負の歴史をも包含して立つ
7万人を超える死者を数えてバルセロナは陥落した。フランコ軍の圧倒的な戦力と、人民戦線内の路線対立によってである。とりわけソ連系共産党の党派的行動が人民戦線にダメージを与えたとされている。
内戦終結後もフランコ軍事政権によって多くの市民が投獄、拷問されたり処刑されたりした。カタルーニャ語は禁止され、地名や通りの名が変えられ、伝統の音楽や祭りも禁じられた。
弾圧は1975年のフランコの死まで続いた。彼の死で、スペインは共和制に戻り、カタルーニャは自治権を回復したが、市民戦争とその後の弾圧を生き抜いた人びとはまだ大勢生存している。語り継がれ、若い世代も熟知している。ゆえに、カタルーニャ民族意識はいまだ息づいていて、サグラダ・ファミリアはしばしば、独立運動のデモ行進の目的地に設定される。また、「旅行者よ、覚えておいてくれ、カタルーニャはスペインではない」と書かれた横断幕がその尖塔に翻ることもある。
(2026.9.20)
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