【コラム】中国単信(143)
中国茶文化紀行 「茶禅一味」(80)
「死」
趙 慶春
娘はお寺が好きで、高校時代に一緒に寺巡りをしたことがあった。
「可能なら一度死を体験してみたいなぁ」と無邪気に言い出した。
親としてさすがにびっくりして「え?どういう意味?」と訊かずにいられなかった。
「だって、死ってどんなものか誰も知らないでしょう。もし体験できれば、面白いと思って」
「未知の世界」に「好奇心」もあれば「恐怖心」もあるのは人間の常だが、娘が「死」に対して「怖い」より「未知への好奇心」が勝るのはなぜだろう。少なくとも次の二点の理由が考えられる。
一つ、若いために「死」は「長い人生」ではまだ遠い話であり、「体験」という言葉が示すように、本当の恐怖心がまだ涌いていない。
一つ、「体験」という言葉からあくまで「生きている人間の立場」で話している。つまり、また人間社会に戻ってくるという前提がある。
しかし、「死」に近づいている高齢者ならどうだろう。
「死」は現実として、すでにそこに「見えている」。それだけに平常心で「死」と向き合える人はこの世でいったいどれだけいるのだろうか。「死」を望まないため死を直視しないし、考えようとしない、「死」の到来を遅らせたい、「死」から逃れたいと思う人が圧倒的に多いだろう。
中国では72歳と83歳(諸説あり)が高齢者の「厄年」とされている。その年には誕生日を祝わないか、前後の年齢(数)で誕生日を祝う慣習がある。たとえば、72歳の誕生日を前年の71歳、あるいは翌年の73歳で祝うことになる。この慣習は「縁起悪いものを避けよう」という死への恐怖から生まれたと思われる。
特に人生を楽しんでいる人たちや、人生の「成功者」たちは人生の「楽しさ」への未練が大きいだろうし、それだけ死を避けたいという思いも大きいだろう。中国の始皇帝が徐福を海上の仙山である蓬莱(結果として日本に至った)に不老長寿の薬を求めさせた話はよく知られているが、歴代の帝・王・将・相が「死」から逃れようと手を尽くしたことがそれを証明している。
魯迅の作品にも次のような「寓言」がある。
ある富豪に子が誕生し、祝いのパーティーを開くと多くの客が新生児を囲んで、その子の未来について「感想」を述べた。
「この子は将来きっと科挙試験に合格し、出世します」周りの人たちは大きく頷きながら笑顔が溢れていた。
「この子は将来きっと宮廷に入って国の支柱になります」周りの人たちは大きく頷きながら笑顔が溢れていた。
「この子は将来きっと莫大な財を成して大いに一族は繁栄します」周りの人たちは大きく頷きながら笑顔が溢れていた。
「この子は将来いずれ死にます」周りの人たちから今にも殺されそうな冷たい目が注がれた。
「絶対的真実」を正直に言っただけなのに皆に嫌われてしまうわけだが、人間が「死」を敬遠している「心理」を如実に示している。
「人生は苦」という「議論ありきの話」は後回しにして、「死から逃れる」ことはできないのは人間の宿命だと言える。つまり「死」は人間の「求不得苦」(求めても得られない苦しみ)の代表格である。人生の長短を別にしてその終点には必ず「迎えたくない」「死」が待っているわけで「死」は人生の「苦」の根源だとも言える。
世界の多くの宗教や哲学は「死」に対して「見解」を出している。
宗教や哲学にとって宇宙・人の起源、人生の意義・価値、人生の帰趨は最も重要な命題であり、その終焉の「死」に対して「答え」を出す義務があるとも言えるだろう。
人間の「死」に対する人類の英知を集めた主な見解を簡単に列挙してみよう。
「死んだら」:人間の終焉であり、すべてが終わる。この見解は基本的に唯物論者の主張であり、仏教では「断滅論」と呼ぶ。
「死んだら」:肉体は消滅するが、精神、あるいは霊として人間の見えないところ、あるいは別世界で存続する。
「死んだら」:天国にいくか、地獄にいくか、煉獄にいくか。
「死んだら」:神のもとに帰依する。
「死んだら」:人間世界と別の「あの世」に行く。
「死なないように」:中国の道教は心身修行を積み、不老・長寿・不死を目指す。
「死は生の始まり」:これは仏教が唱えている「輪廻」理念である。つまり、「死」は再生の始まりである。いや、次の「生」の始まりと言ったほうがよいかもしれない。また、生まれ変わるとも言える。「死」は終焉ではなく、冬に枯れた草が翌春にまた茂るように、生命の周回往復(輪廻転生)の一環、あるいは一段落に過ぎない。
こう列挙してみると、仏教の「輪廻」理念はやはり「特異」に見える。
「あの世」「天国」「地獄」「神のもと」などの表現は、人間の「死」が完全な「終わり」ではなく、「別の世界」に行くことを指しているようだ。ただ「別世界」は人間が知りえないわけで、「勝手に創造」しているだけではないだろうか。「死=終焉」ではない点は仏教の輪廻と同じである。ただ輪廻は「別世界」ではない。「死」によって我々が知るこの世の「人間世界」に戻るという。
だとすれば、仏教の「輪廻」は最も「大胆」なものとして映る。そして我々も「見える」「人間世界」に戻るとされており、我々が最も計り知れる理念だとも言える。
チベット仏教のダライ・ラマの「輪廻転生」は有名だが、それが人間(宗教組織あるいは政府)の認定手続を必要とし、一種の宗教儀式に過ぎないと思う人が少なくない。だが、仏教の理念に基づけば、ダライ・ラマだけではなく、一般人も死ねば同様に「輪廻」して生まれ変わって新しい人生を送ることになる。
「輪廻」は理解しにくい、「輪廻」は信じがたい、というのが今の社会の普遍的な考えではないか?
「幽霊」に関わる映画がどれほどの数になるか知らないが、これらは人間たちが「死」に対して考えた出した一種の「答え」だと言える。同時に「死」が「肉体と魂の分離を意味するという考えが普遍的に社会から支持されていることを反映しているのだろう。
「輪廻」も「肉体と魂の分離」という意味なのか?「輪廻」はどうやって実現されるか?「輪廻」を積み重ねた後の最終結果はどうなるのか?
蛇足だが、「輪廻はやはり信じられない」「神様はやはり信じられない」「死んだ後の魂の存在もやはり信じられない」などの考えが数多く、根強く存在している。ただ、忘れてならないのは「信じない」ことも一種の「信仰」であり、そして、誰にも「死」が待っていることである。
大学教員
(2025.9.20)
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