【コラム】中国単信(144)

中国茶文化紀行 「茶禅一味」(81)

輪廻
趙 慶春

 義母が日本に来た時、箱根の大涌谷へ案内した。そこでは名物の「黒たまご」を皆で食べた。そして、次の目的地へ車で向かう時、あの「伝説」を思い出して、義母へ「さっきの黒たまごね、一個食べると寿命が七年間伸びる、と言われている」と伝えた。
 「えっ?そうなの?早く言ってくれれば、三個も四個も食べたのに」との返事には、長生きしたいという気持ちが十分伝わってきた。
 一方、20代前半の息子と娘に「ずっと生きられるなら、生きていきたいか」と訊くと、「嫌だよ」、これが最初の反応だった。率直で、素直の反応だろう。
 「死なないのが、なんで嫌なんだ?」
 「これからどんどん年を取って死ねないなら、逆に怖いよ。今の年齢のままで、身体もこのままなら考えるかもしれない」
 「自分だけ生き続けて、知合いが皆死んで、社会がどんどん変わって、自分一人だけ傍観者のような存在になるのも怖い。嫌よ」と娘が言った。
 考えてみれば、人間の長寿願望には多様な条件が付くようだ。

 「輪廻」はどうだろうか?
 「輪廻っていいね」、「輪廻、やばくない?」と思われ、正直言って、人の心を鷲掴みにするだろうと思った。なぜなら、死んでも生まれ変われる。死んだら次の人生が始められる。つまり、永遠の生命を手に入れたも同然だからで、まるでゲームのように何度でも「命」をリセットできるとなれば、ゲーム以上かもしれない。なぜならゲームは「数字的な」記録を追求するだけだが、ライフデザインも自分が決められるからである。
 「輪廻」は魅力的なので、喜んで受け入れられる?――結果はそうではないかもしれない。

 箱根大涌谷のご長寿温泉卵を何個でも食べたがった義母を連れての旅行中、彼女はお寺巡りにあまり興味がないというか、できるだけ避けたいらしかった。仏教の民間への幅広い浸透がある中国だけに「輪廻」など転生の概念を知らないはずはないのだが、長寿を望みながら義母のように輪廻にも仏教にも興味がなく、知りたくもないようだ。
 ある中国の超富裕者が来日した時のこと、彼は胸の当たりに下着に隠されていたが数百万円もする大きな翡翠の観音像をぶら下げていた。健康と長寿の願いが込められていたようだが、「輪廻」は信じていなかった。
 楽しい人生を長く享受したい人にとって、何回も生まれ変われる「輪廻」は、まさに「永遠」の生命が与えられたことにならないだろうか。しかし、意外にも「輪廻」を信じていないのだ。なぜか。
 死を経験した人は「この世」にいないため死後の世界を知ることはできない。輪廻、あの世、霊魂などを繰り返し教えられても証明できないし、「見えない」のだから信じられないのだろう。「自分の目で確認できないもの」「自分の知らないもの」にまず不信感を抱くのは人間の常だからだ。
 しかし、「輪廻」が人々に真剣に受け止められないのは、「輪廻」の本質がそこにあるからだ。「輪廻」あるいは「輪廻転生」は「人間」が間違いなく生まれ変わる保証はどこにもない。

 「輪廻」はまた「六道輪廻」とも言い、「六道」とは「天道(てんどう)」、「人間道(にんげんどう)」、「修羅道(しゅらどう)」、「畜生道(ちくしょうどう)」、「餓鬼道(がきどう)」、「地獄道(じごくどう)」の六つの「世界」のことである。
 「天道」は天人、つまり神様(神様のような)の世界である。言うまでもなく人間世界より上だ。中国の国学大師・南懐瑾の説によると、「天道」は一番下の「四天王天(世界)」から一番上の「非想非非想天」まで二十八のランク(世界)に分けられていて、「天人」は基本的に「神通」(人間から見れば物理世界の制限を超越する超能力のこと)を持ち、人間より欲が少なく、「幸せ」に暮らしている。多くの信者が憧れている「西方極楽浄土」はこの「天道」世界の一つである。
 「修羅道」は「天人」と同じく「神通」を持ち、男性は強いパワーを持ち、女性はすべて美しく、中国では「六道」の中で「人間道」より上位にある。ただ「修羅道」は強い欲や執着心を持つので、修行を積み重ねないと「畜生道」、「餓鬼道」を経ずに一気に一番下の「地獄道」に落ちてしまうので、日本では「人間道」より下に置かれていると思われる。
 「地獄道」は一番下だが、その中が十八層(ランク)に分けられていて、いずれも苦と恐怖に満ちている。中国には「十八層地獄に追い落としてやる」という罵り言葉があり、とにかく恐ろしい世界である。そして地蔵菩薩は捨て身で地獄に赴き、地獄が空になるまで地獄に留まり救い続けることになっている。
 こう見ると、「修羅道」を「人間道」の上に置いても「人間道」はやはり上位にある。一般的に「天道」「修羅道」「人間道」を「上三道」、「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」を「下三道」としていて、「悪趣」とも呼ばれている。
 「輪廻」はこの「六道」の間で転生することになる。幸せの「天人」にも、「畜生」にも、あるいは「餓鬼」、さらには「地獄」に落ちるかもしれない。たとえ「人間」に生まれ変わっても、環境に、才能に、強運に恵まれるかについては保証がない。

 ここで、長生きをしたい、若さを保ちたいので、「人生」をやり直せるならやり直すか、とみずからに問いかけたらどうなるだろうか? 
 これまでの厳しい受験勉強、貧しい下積み時代、激しい競争を思い出すとためらう人も少なくないかもしれない。人生の「楽」をより享受したいが、人生の「苦」もついて回る。仏教の「人生は苦なり」だからである。健康で、明るい未来を幸せに享受したいところだが、実際にはその保証はない。誰もが思うままに、自分の願い通りに転生し、何回でもやり直せるほど「輪廻」は甘くない。
 「亀と兎」のように、人生の勝負は一回だけではない。ただし、努力しなければやはり負け続けるだろう。言い換えれば、努力すれば自分の人生を変えられるのである。これこそ仏教の「輪廻」の教えである。
 でも、何を、どう努力すれば良いのか。「六道輪廻」で「上」に行くか、「下」に落ちるかの「決め手」(判断基準)は何か? それを決めるのは「仏」なのか? クジ引きのような「運任せ」でないことは言うまでもない。
 ここで仏教のもう一つの概念――「因果」に触れなければならない。

 大学教員

(2025.10.20)
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