【コラム】中国単信(145)
中国茶文化紀行 「茶禅一味」(82)
因果関係はデータ化ができたら
趙 慶春
「果報」(あるいは「因果応報」)という言葉を生活の中で使ったことのある人は何人いるだろうか。中国語に同じ意味の言葉があり、「報応」(あるいは因果報応)と書く。この「報応」という言葉を一度も使ったことのない人は皆無ではないだろうか。
しかし、皆無だからと言って中国人が「因果」を信じているという証明にはならない。なぜなら、「因果」は仏教の専門用語だが、「原因と結果」という意味では、日常生活でもよく使う「意外に」身近な言葉だからだ。我々は「から」「ため」「ので」「だから」「故に」「従って」などの原因と結果を表す言葉を頻繁に使っていて、「因果」は我々の生活に密着している。
恐らく多くの人が意識していないが、仏教最重要概念の一つである「因果」は、すでに我々の「社会常識」になっている。我々の生活は「因果」の連続であり、「因果」によって構成されていると言っても過言ではない。「因→果」がいかに身近であるか少し例示してみる。
一日中ご飯を食べていないので、お腹が減った。
夫婦はどちらも譲らず夫婦喧嘩になった。
スマホを忘れて家を出てしまい、すごく不便だった。
低気圧が停滞して、連日雨になっている。
これらは前半の原因があって、後半の結果になったということである。
また、直接の原因・結果が見えなくても因果は存在している。例えば、ブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスのハリケーンを起こすという「バタフライ効果」などは、すでに現代科学により証明され、周知の常識になっている。また「種を蒔けば、苗が出て、実り、収穫できる」のように、科学によって証明されなくても、我々は「因果」を受け入れている。
「食べない→お腹が減る」、「種→実る」のような社会常識として「誰でも」分かる因果があれば、「長時間日に当たると皮膚がダメージを受ける」や「バタフライ効果」のような、科学的な証明によって確認された因果もある。一方で、今の科学でまだ証明できない「目に見えない」「直感できない」因果もある。我々人間の「人生」はその一つである。
人生の「因果」を簡単に言えば、「善因善果、悪因悪果」(「善事をすればよい報いがあり、悪事を働けば悪い報いがある」)となる。つまり、善いことをすれば、相手がその恩恵を受けるだけではなく、自分もいずれその報いとして福がある。逆に悪事を働くと、他人に傷つけるだけではなく、自分もいずれその代償を払わなければいけないということだ。
「輪廻」は自分の一生の作為によって、来世では「天、阿修羅、人間、畜生、餓鬼、地獄」という六道のいずれかに生まれ変わるというもので、「父母を殺す」はこれ一つで地獄行きになるが、基本的に一生の善行悪事の総合判断によって決定される、と言われている。
「作業」という言葉がある。現代中国語では、この言葉は「宿題」という意味になる。実はこの「作業(業を作る)」は「輪廻」「因果」と深く関連している言葉である。
「業」は意味の多い難しい用語で「生命のある者」(人間と限らない)の作為の起因、行為、結果、影響の総称であり、その関連性を示している。主に(起)因があれば、いずれ必ずそれなりの(結)果になることを表している。例えば、食べ物を食べないとお腹が減るは、「自然」というより「業」の働きで、「業力」とも言う。さらに遡ると「食べ物を食べない」という行為はまた別の何等かの原因(例えば意図的なダイエット)によるものになる。
つまり、「輪廻」を一つの大車輪に例えるならば、それを回す「動力」は「業力」にほかならず、その起因、過程、結果を総じて「因果」と呼ぶ。
「業」には「善業」「悪業」「不善不悪業」の三種類がある。上述したが「善業」をすれば、「上三道」へ生まれ変わり、「悪業」をすれば「下三道」へ落ちていく。したがって日本で「善因善果、悪因悪果」があるように、中国にも同じ意味の「善有善報、悪有悪報」があり、我々を戒めている。この「応報」は「業報」ともいう。
現在は「作業」という言葉は、主に仕事関係で使われるが、元々は人間の衣・食・住など、生きていく過程のすべての作為を指している。すべての「作業」は慎重に行われなければならない。少しでも間違えれば、来世は畜生や餓鬼になる恐れがあるからだ。こう考えれば、中国語の「作業」が今は「宿題」という意味になるのは少しも不可解ではない。なぜなら、これから「どんな行為をするか」「どんな営みを行うか」「どう生きていくか」はすべて我々の大きく、真剣な「宿題」だからだ。
「善行」をしなければいけない。
『三国誌』によれば、劉備が亡くなる直前に後継者の劉禅に「勿以恶小而為之、勿以善小而不為」(どんなに小さな悪事でもしてはならず、どんなに小さな善事でもしようと心懸けよ)と戒めた。これは一国の君主だけではなく、すべての人間に当てはまる。
格闘ゲームや銃撃戦ゲームの場合、「人」がやられた時、そのダメージ度(あるいは命残量)はパーセントで現れ、非常に可視化されている。仮に人間の善悪の「業力」がゲームのように可視化されると、きっと善人が増え、悪事は減少してこの世は良くなるのではないだろうか。業の結果を恐れて、良い目標に向かおうと 自省が働くからである。
繰り返すが「善因善果、悪因悪果」(「人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」)ということは「誰」でも知っているし、「誰」でもよく言う。しかし、一旦、何かをやり始めると、いつもの通り「自分」を中心に利益損得勘定を行い、結局、「因果」を忘れて自分の都合のいいように解釈し、自分を納得させ、善を放棄して自分の欲望に負けてしまう。これが我々人間の「常」である。
「因」があれば、必ずそれなりの「果」がある。ただ、その因果の必然性をどうしても忘れがちになってしまう。
大学教員
(2025.11.20)
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