【コラム】中国単信(146)

中国茶文化紀行 「茶禅一味」(83)

因果の本質 
趙 慶春

 「人生は努力次第」という信条を持ち、宿命ないし運命(因果の一部)を信じない人は多い。「努力」は美徳として捉えられていることが大きいだろう。一方、人との出会いなどでは「運命の糸」などと捉える人も少なくない。
 「因果」について、人間はかなりご都合主義である。自分に都合のいいように解釈し、それを信じようとすることが多々ある。
 知り合いの在日中国人女性社長の話を紹介しよう。
 彼女は来日して数年後に夫が優秀なエンジニアだったことから、IT関連会社を起業した。当初、社員はほとんど中国人エンジニアで、厚生年金未加入だったり、派遣先が未定なため、正社員なのに待機身分として給料未払いとするなど不正行為が多かった。その後、会社の受注を伸ばそうと、発注元の上層部の人間が女遊び好きだと分かるや、自社の若い女子社員とその上層部の人だけの慰安旅行を企画し、しかも「相手が満足すれば、あなたたちはこれからずっと楽になる」と事前に吹きこんでいた。幹部社員の顰蹙を買いながら女社長は意に介さなかった。また仕事のストレスで精神不安定になった社員は即中国へ送還したり、情報の操作や社員の結婚・離婚への干渉、法律に抵触する自分の重大ミスを社員に転嫁して退社させるなどを繰り返してきていた。その「お蔭」か、会社はある程度成功した。
 さてこの女社長、「因果」を信じているかわからないが、「悪因悪果」を信じるなら、上述したような行為を少しは控えたかもしれない。だが、それは怪しい。人間は自分に都合がいいように解釈しがちだからだ。この女社長、実は仏や神の庇護を深く信じているらしく、次のようなことがあったという。
 この会社は正月に親戚、友人、社員を連れての寺社詣が恒例だった。日本の習慣を知らない中国人が賽銭を用意していなかったりすると、社長は積極的にお金を渡して参拝させた。しかし、その後で「私のお金で参拝したのだから、ご加護も福も私のところに来るんじゃない?」と言ったとか。まさに自分の都合の良いように解釈していたわけだ。
 
 「現実」の社会では、悪事を働いても罰を受けず、善良な人間よりも多く「実益」を得るということはいくらでもある。それならば、「善因善果、悪因悪果」という「因果」は本当なのだろうか。

疑問1:なぜ悪人に報いがないのか。
 「善有善報、悪有悪報」には、続けて次の「不是不報、時候未到」(善行あるいは悪業の結果は現れないわけではなく、まだ現れる時期になっていないだけである)という二句がある。つまり、自分が行った「善行・悪業」の「応報」(影響、結果、波及等々)は、いずれいつか、何かの形として現れるはずだ、とされている。

疑問2:因果、つまり「善因の善果」、あるいは「悪因の悪果」は「いつ」現れるのか?
 因果の「果」(果報、結果)は4種類ある、と仏教は指摘している。
(1)現報(中国語で「現世報」ともいう)。つまり今の人生にすぐその結果が現れてくること。日本の「痛快TV スカッとジャパン」類の番組や「復讐」あるいは「恩返し」の映画が表現しているのはまさにこの「現報」のことだ。これらの番組や映画の人気は、人間がこの「現報」を望んでいて、自分の目で見てみたい気持ちをよく表している。
(2)生報。来世にその結果が現れてくること。例えば、父母を殺した「悪業」を犯した人は来世に地獄に落ちる、という。
(3)後報。来世に限らず、再来世、あるいは何回か生まれ変わった後の世に、次第にその結果が現れてくること。人間の「業」に対する「果報」はこのタイプが一番多い、と言われている。
(4)無報。不善不悪の「業」に対して、「果報」がない、こと。
 こう見ると、どの種類の果報も我々の「目」で確かめるのはなかなか難しいようだ。言い換えると、因果、ないし輪廻はやはり目に見えないので分かりづらい。でも、次のように教えてくれる高徳の僧もいる。
 来世にだけ「因果」が働くとは限らず、「(原)因」をあれば、その「(結)果(果報)」がすぐ現れるケースも我々の周りに多くある。自分の人生をおよそ「20年ごと」に区切ってみれば、「因果」ははっきり見えてくる、という。
 考えてみれば、大学や学部・専攻選び、部活、バイト、交友などは仕事や収入に反映するかもしれない。社会人前期の仕事ぶり、転職、結婚などは社会人後期の立場、子育てなどに影響を与え、さらに老後のライフデザインに影響を与えるかもしれない。そして、人生前半のすべてが人生後半の生活レベル、価値観、さらに「死」に対する態度等々に響くかもしれない。経験してないが、想像だけでも十分納得できる。これは「因果」だろうか。
 前述した件の女性社長の会社は設立から二十年ほどの間、業績をそこそこ伸ばしたが、退職率が激しく、社員全員が一回り、いや二回りも入れ替わった。取締役も4人が前後にして辞めた。これも「因果」だろうか。

疑問3:「善因善果、悪因悪果」と言われるが、人間の「業」は「善」、それとも「悪」かを「誰」が判断するのか。あるいは「誰」が判定するのだろう。
 実は「誰」かが判断、判定することではないのだ。いや、「誰」も判断、判定できない、たとえ仏陀でも神様でもだ。
 ここでもう一度輪廻、因果の話に戻ることにする。まず以下の仏教の教えを短い詩の形式で表した仏偈(ぶつげ)を見てみよう。

 欲知前世因、 前世の「因」を知りたければ、
 今生受者是。 今の人生で受けている境遇がそれである。
 欲知来世果、 来世の結果を知りたければ、
 今生作者是。 今の人生の振る舞いがそれである。

 これは「三世因果」といい、つまり、転生した「前の人生」(前世)の振る舞いが「原因」となり、「今、生きている人生」(今世)はその結果である。そして、「今の人生」の振る舞いは、いずれ「原因」となり、「これから転生して行く来世」の結果を決める。もっと言えば、今「あなた」の人生はあなたの選択、努力だけではなく、一部分は「運命」として、生まれた時点ですでに決まっている。しかも、決めたのは「あなた」自身、つまり「あなた」の前世の振る舞いであるというのだ。
 いささか「宿命」的だと感じる人がいるかもしれない。なぜなら、自分の人生は自分の力で決まるのではなく、すべて「前世」の振る舞いの結果で、しかも、その「前世」はすでに終了し、その結果はすでに決定済みだからである。そして、もう一つ悩ましいのは、その「結果」が自分には見えないことだ。つまり、自分の運命はすでに決まっているのに、自分はそれを知らないまま待ち、受け入れるしかない。いつやってくるかわからない、しかし、必ずやってくる「死」を待つように。
 しかし、仏の教えはこれではない。よりよい来世、よりよく転生できるように「今の人生」で善行、修行を積み重ねていこう。六道輪廻の過程で次第に「上」へ登って行こう、そしてそのさらなる上の「悟り」を目指していこう、と教えているからだ。
 人生は「亀と兎の競争」のような一度切りの勝負ではない。失敗したら、また「転生」していくらでもチャンスがある。成功の楽しい人生なら、転落しないよう、さらに「上」を目指すべきである、と。
 仏教は宿命論ではなく、究極的に「積極的な人生」を促している。なぜなら、すべて「あなた自身が決める」のだから。たとえば「人間は死ぬと神の元に帰る」という説と、「死ぬと輪廻転生する」という説では、前者は明らかに神などへの他力本願である。一方、後者の輪廻転生はすべて「自分」の振る舞い(業)によって決まる自力本願である。しかし、神様に頼る方がわかりやすく、帰依しやすい。頼れる「命綱」があるからだが、その意味では、仏教はより厳しい自律、自省、自己責任を課しているのだ。
 上記の疑問を解いてくる中で、因果の本質も次第に見えてくる。

 因果の本質1:「因果」はいつ働くか、我々俗人には「見えない」が、必ず働く。「因」があれば、必ずそれに見合った「果」が出る。人間が「業」を為せば、必ずその「良い」あるいは「悪い」報いが「自分の身」に及ぶのだ。
 因果の本質2:より良い未来を望むなら、仏や神に頼らず、「善因」、つまり善行を行うしかない。「自分の運命は自分で決める」「自業自得」などは、実は全部「因果」の話である。

 大学教員

(2025.12.20)
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