【コラム】中国単身(149)

中国茶文化紀行 「茶禅一味」(86)

輪廻いろいろ
 趙 慶春

 「あなたはどこから来たのか?」
 「あなたはどこへ行くのか?」
 「あなたは何をしようとしているのか?」

 新型コロナ感染猛襲初期、ロックダウンで閉鎖された中国団地の出入り口で、監視員たちが通行人に対して発した定番の三問だった。まもなくこれらの「質問」がウェブ上にアップされ、「人間の魂を直撃する質問」と名付けられた。
 これが「人生・生命の起源あるいは本質」についての質問なら、おそらく他者から聞かれたことも、真剣に考えたこともあまりないだろう。しかし、これらは「人間」にとって極めて重要な三問であり、真剣に考えなければならない。なぜなら、一問、二問目は「生死」に関わり、三問目は人生の価値に関する問いだからだ。
 「三世因果」(前世・今世・来世)に触れたことがあるが、その時には、分かりやすく説明するために「三世」に限定したが、「第八阿頼耶識」は前世だけではなく、それ以前の長い世代の積み重ねが一つの「因」となり、生まれ変わった人に「果(果報・応報)」として継承されていく。つまり、自分の意識や行為で生み出した「業」に依って、良い「果報」でも、悪い「果報」でもいずれ自分が受け入れなければならない。
 そのため頭脳明晰、成績優秀な者は前世(前の諸世)の努力に感謝すべきであるし、芸術、スポーツ、その他の能力面での「天才」も前世の修行結果がしっかり阿頼耶識に刻まれたからに違いない。

 一方、虚言癖、浪費癖、コントロール不能の感情の暴発、異常な色欲、金銭欲、権力欲……等々、いずれも第八阿頼耶識がもたらす前世の「業」の「果報」である。だからといって前世の阿頼耶識がそうさせるとして、自分は悪くないとひたすら欲望に身を任せ、無責任に「悪」に走れば、来世はより悪い世界に行くのみである。自分の「業」(思惟、行動など)を正し、阿頼耶識をより良い「果報」へ導くために今から良い「因」を作ることが正しい人生の過ごし方と言えるだろう。忘れてならないのは、人間は来世、人間というものに輪廻転生する保証がないことだ。

 すでに記したが、「人間道」は「六道」の中で「上三道」に属し、平均より「上」だ。もし、これまでの阿頼耶識がすでに「下ぶれ」になっているのに、それでも欲望に任せ、ひたすら「悪」にむかうと、畜生(動物)あるいはその「下」の「餓鬼」、「地獄」に転生する可能性が十分考えられる。ただし、動物に転生しても、地獄に落ちても、精進さえすればまた人間に戻れる可能性があり、成仏もできる。衆生はすべて「仏性」を持っていて、皆「因地の菩薩」である。すべてが「成仏」する本性と可能性を持ちながら、自分の「業」によって、その「果報」にならず、素晴らしい素質を持ちながら成就していないため「楽」を享受できていないのだ。だからたとえ犬、猫でも「成仏」の可能性がある。「殺生禁止」は仏教の最重要戒律の一つである。その理由がまさにここにある。殺生したら、その「生命」の成仏の道を断つことになり、さらに言えば「未来」の仏(になる可能性がある)を殺すことになる。

 輪廻に関して、いくつかの疑問を挙げてみる。
 疑問1:前世記憶を持つ、あるいは生まれつきの超能力のような天賦を持つ人がたびたび現れるのはなぜだろう?
 「陰陽」の概念で言えば、人間世界は「陽」の世界であり、「死」の世界は「陰」の世界である。「輪廻」とは、この陰陽世界の転換である。ちなみに、人間が死んだ「陰」の世界の状態を「中陰身」(これについては後述する)という。
 死んで「中陰身」になり、そして「中陰身」から転生する時、つまり「陰」から「陽」の世界への転生は完全に異なる世界への転換であり、前世の記憶がすべて失われる。つまり、前世の記憶や優れた才能などはすべて喪失するのだが、喪失しない者もいる。これは「隔陰不迷」(陰の世界を経ても迷わない)と言われるが、これには修行によって生まれた「定力」(禅定で得た精神力、あるいは精神コントロール力)が必要である。「隔陰不迷」は「一般人」には無理で、基本的に修行を積んで「定力」のレベルの高い者に限る話である。
 初めて行った町や通ったことのない道なのに、来たことがあるような感覚になったことがないだろうか。もし「ある」ならば、それは「前世」あるいは「前前世」の痕跡かもしれない。つまり前世の記憶という「輪廻」の産物の可能性がある。

 疑問2:「阿頼耶識」はDNAのようなものか?
 DNAはすでに人間の技術で証明され、応用されている。一方、「阿頼耶識」は俗説の「魂」のようなもので、「見える」「検証できる」ものではない。DNAは血で、肉体で繋がっている。ただし、DNAが繋がっていても、自分の子供には別の「魂」が入っていて、自分とは完全に別の個体である。一方、「阿頼耶識」は肉体や血の遺伝子の繋がりとは無関係にずっと「自分」のモノとして繋がっていく。「阿頼耶識」とDNAは「魂」と肉体の関係とも言えるかもしれない。
 中国で人間のこの「肉体」を「臭皮嚢」、くさい皮の袋と呼ぶことがある。魂という精神世界の浄化に努め、肉体への執着を戒める用語である。「輪廻」、あるいは「生・死」が繰り返される過程で、「肉体」は「生死」が起きるたびに「交代」する。つまり「肉体」は家屋のような「借りもの」に過ぎない、という考え方からの用語でもある。
 「肉体」への執着は悟りを妨げ、輪廻転生の時「下」に落ちるとされている。しかし、「肉体」は「使い捨て」ではない。「肉体」は仏教が最も重視している修行の基盤であり、何回も転生する「人生」で唯一引き継がれる「第八阿頼耶識」の運び手にもなる。わかりやすく言えば、肉体=パソコン保存メモリなどハードディスク、阿頼耶識=保存されているデータであり、相互依存関係にある。

 疑問3:もし悪事ばかり行い、「因果」によって人間になれず、畜生ないし地獄に転生するというのは本当か? 地獄は本当にあるのか?
 「地獄」を信じるかどうかは別にして、「人間地獄」という言葉があるように、疫病、戦争、虐殺、虐待、ヘイト、孤独、貧困等々、生きている社会に「地獄」のようなものは決して少なくない。また、「鬼畜行為」という言葉があるように、「信じられない」「あり得ない」行為をする人も少なくない。我々は「人でなし」という言葉を時には口にするが、「人でなし」の判定を下すことはできない。しかし、この世に「人未満」と思える「人」は数多くいるのではないだろうか。
 このように言うのは、悪趣から離れ、「上」を目指して精進するのは、いつからでも遅くなく、より良い人生を得るのに他人に頼るのではなく、自分が努力し、修行するしかないと言いたいからである。

 大学教員

(2026.3.20)
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