中国茶文化紀行 「茶禅一味」(88)

共業
趙 慶春                                    

 「炎上」。本来の意味は「火が激しく燃え上がる」ことである。しかし最近では、インターネット上のコメント欄やSNS投稿で執筆者の考え方に多数の人間がコメントを集中させ、それを「炎上」と呼ぶことが多い。たいてい反対意見や反感を持つ人々の「否定的な意見」が集中した場合で、「肯定的な意見」では「炎上」と呼ばない。
仏教では、一人の作為や、その影響はその人個体の「業」であるが、集団共有や共通意識によって起きた作為、影響は「共業」と呼ぶ。
 社会に生きる人がルールに従って税金を払い、その税金で福祉を享受する構造も「共業」の産物である。国家体制が国王制、立憲制、連邦制、独裁制など異なっていても、それは国民の「共業」の結果である。民族の文化もその民族が長年「共業」で作り上げてきたものである。
 さまざまなハラスメントに対する意識が次第に高まり、LGBTやe-スポーツへの理解、さらにはNHKへの反感拡大などさまざまな現象が起きているが、どれもすべて「共業」による変化だと言える。
以前、記したことがあるが、「輪廻」を動かす力は人間の「業力」、つまり「業」の力である。この「業」は基本的に「個別」(「個人」、「個体」)である。一方、社会による「共業」は社会の多数派共通意識や価値観の集約と言える。この「共業」は社会発展の方向性を左右する場合が多く、継承性もある。つまり、国粋や民族伝統など歴代の祖先から継承して、そして子孫に伝えていくのである。したがって民族精神、伝統文化、文化遺産などといったものに通じるところも多い。
しかし、「共業」は個別の「業」の単なる集合体ではない。あくまで多数派の主流意識である。多数決の結果は全員の思惑が一致しているわけではない。つまり「共業」は個別の「業」を代表しているわけではないし、個別の「業」と矛盾、衝突することも十分考えられる。
大雪の後、自宅から駅まで歩くのに難儀したことはないだろうか。自宅玄関前の道路の除雪をしっかりやっている家や店舗もあれば、まったくされていない所もある。結局、除雪されていない箇所には雪が残り、滑りやすく歩きにくくなるからだ。
 北海道の一部の自治体では大雪シーズンに道端に融雪剤が置かれ、自由に使えるようになっている。住民には大いに役立っているのだが、もし公費で用意された融雪剤が持ち帰られ、個人的に使用されたり、転売されたりしたら、公費によるサービスは頓挫するだろう。
数十年前にも似たような話があった。携帯電話が普及する少し前の話だ。ある地域で本格的に公衆電話を設置し始めると、その電話機本体が頻繁に盗まれるようになった。住民の一部が家に持ち帰ってしまったからだが、そのため公衆電話の設置が数年、遅れてしまった。その後、携帯電話が普及し始め、設置が完了した公衆電話はほとんど使われなくなってしまった。
 誤解を恐れずに言えば、私たち人間社会はいつもレベルの低い人間グループに合わせてバランスを取っているのではないだろうか。つまり「共業」は人間社会の集約、堆積、結晶であるが、残念ながら人間の至高の判断に基づいた知恵の代表ではない。
やや唐突感を免れないが、「仏法・修行」について触れる。修行は人間の最高知恵の追求であり、「相対的な人間関係ないし集団関係で互いに支え合う、引っ張り合うという現実社会環境」からの脱出を目指している。これこそ仏教が目指している目標である。分かりやすく言えば、修行は「共業」であってはいけないし、社会常識に従ってもいけない側面がある。常に「共業」や他人の目を意識すると修行がうまくできないからだ。そのため真の修行者は「出家」、つまり俗世から脱け出して精進の道を進む人が多い。
 コロナ感染拡大中、私権制限に反対する声が多かったことから、マスク着用の義務化はされなかった。そこで「マスクを不着用は自分の権限」と主張し、飛行機内でマスク着用を求められ、大揉めした事例は日本でもあった。しかし、マスク不着用は確かに個人の権限だが、他人にリスクを及ぼしてまで個人の権限を主張する権利はあるのかと問いただすことはできるが、しかし、果たしてこちらにそれを問いただす権限があるのだろうか。
銀行員から白い目を向けられ、すべての預金を引き出したという仕返しに溜飲を下げる人は多いだろう。このような「仕返し」ができるのは莫大な金を持たなければできないのだが、一般人はこの「夢」のような「仕返し」に共感するにちがいない。これも「共業」、つまり「集団意識」から強く影響を受けた結果である。
 悔しくても何もできずに我慢して黙る。——「負け犬」と見做される。
「集団意識」を意識して、相手を後悔させるため(「周りの目」を意識している)「犬に噛まれたら、やはり犬に噛み返す」——これは世の勝者の心理であり、多少とも自慢できる「勝ち犬」になった気分だろう。
「共業」を操作して、ライバルを「皆」の敵に仕立てる——この世の英雄になれるだろう。多くの政治家が実践している手法にほかならない。
犬に噛まれても、一笑に付して、周りの目も我、関せず——智者である。「智者無我」だからで、修行はこのような智者になる「道」である。
 「保育園落ちた日本死ね」というインターネットへの書き込みがあったことを記憶している人も多いだろう。生活のために仕事をしなければいけないのに、子供の保育園が確保できない親の絶望的な叫びだった。
当時、ネット上だけでなくテレビ、新聞など数多くのメディアに取り上げられ、大いに関心を集め、社会的な問題にもなった。この日本の保育園入園難が表面化すると、ある市が市有地を確保して保育園を建設しようとしたが、一握りの住民から「子供がうるさいから」と反対され、この計画は頓挫してしまった。
 現代社会ではある物事に対して「賛否両論」が必ず起きる。そして、「共業」の結果はどうしても低いレベルに落ち着く場合が多い。民主主義を否定するつもりも、揶揄するつもりもないが、現実として「レベルの低い共業」に付き合わなければならない場合も少なくない。また、上記の保育園の事例のように、一つの「共業」を守るために別の「共業」を潰さなければならなくなる。
 「共業」の背後には一つの仲間の集団が存在する。しかし、「仲間の集団」があれば、「仲間でない集団」もある。「共業」は相対的な世界でしかない。「共業」はやはり各々の「我執」から生まれたものである。「我執」は世界の平和にとって邪魔な存在にほかならない。

大学教員

(2026.5.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧