【コラム】中国単信(153)

中国茶文化紀行 「茶禅一味」(90)

人生はゲーム?
趙 慶春                                   

 「人生如戯」(人生は舞台劇の如きである)。「人生如夢」(人生は夢の如きである)。

 いずれも中国の俗語にあり、日本でも同じように言う。
 「一切有為法、如夢幻泡影、如露亦如電」(この世のすべては転変するもので、すべてが夢まぼろしであり、水泡や影のようなものである)とは『金剛般若経』が説く言葉である。要するに、人生は「虚像」であり、真実ではないことを言っている。
 しかし、多くの人は「私の人生、生活は少なくとも真実だ。仕事、家庭があり、苦も楽もいっぱいある。真実だからこそ頑張っている」と言うに違いない。

 では、広く親しまれている「ゲーム」にある「人生ゲーム」での「人生」はどうなっているだろうか。このゲームでは、参加者が職業を選び、多様なチャンスを利用して稼ぎ、稼いだら株や不動産に投資して、さらなる飛躍を目指す。これは我々の人生そのものではないだろうか。「点数」を稼いで、上を目指す。「点数」がすべてだ。ステージを踏んで、稼ぎの手段が増えるとライバルの「敵」も強力になる。ある程度「上」に行くと歴史に名を刻むかのように記録レコードに名を残す。しかし、大きく勝利し、「点数」や「金銭」を多く得ても、いずれ「ゲームオーバー」となる。人生が「死」を迎えるように。「死ぬ」と再度、チャレンジすることになる。繰り返しチャレンジできるのがゲームだが、我々の人生も「死んだら」輪廻転生するのと同様である。
 この世に生まれた人間は「体」「心・意識」「諸縁」の三つの「要素」によって構成される。「輪廻」についてはすでに数回、紹介したが、転生する際に受継ぐという点から見ると、およそ下記の三点である:

 一、「心・意識」の「根(本)」である第八阿頼耶識は継承される、次の「生」の運命を決める要素である。ゲームでは例えにくいが、強いて言えば「行動パターンの癖」「飼育系など成長ゲームの好み」「連係プレーの調和性」と言ったものだろうか。

 二、「体」はゲームの「ライフ」と同じく、古いものが死んだら、新しいものを使う。仏教では「体」に執着しないため「身体」は「借家」によく例えられ、「借りる」ものだと教えている。たとえ「借家」でも「人生」を支えるためには健康維持も大事で、健康なくして修行の座禅も順調にできない。ゲームで「主人公が怪我すれば戦力ダウン」となるのと同じである。
 特に、一部のゲームでは自分が動かす「キャラクター」が選べる。これは輪廻の時に転生先が選べるのとほぼ同様である。(これについては「中陰身」で再度、紹介する)

 三、各種の「所縁」だけは継承されない。
 「諸縁」は周りの環境、父母からの遺伝、教育、出会い、チャンス、世間における業績と世間の評価などを指す。ゲームではゲームの種類にもよるが、ライバルのレベルや「武器」などの巡り合わせなどが「諸縁」に相当するだろう。だが、「諸縁」は継承されない。
 「ゲーム」で高い点数を稼ぎ、様々な技、武器、地域、金、名声を得ても、リセットされた新しいゲームに持ち越せない。人間社会もまったく同じだろう。我々の達成感、虚栄心を満足させるすべての「宝物」、例えば愛情も来世に持ち越せない。「ゲーム」は人間の輪廻の残酷性を教えている。

 「色即是空、空即是色」(色(物質世界のすべて)は即ち空なり、空は即ち色なり)。『心経』の大事な教えである。
 理解が難しい言葉だ。太陽も月も自然もすべて実感でき、家も車も物体はすべて実在し、権力や名声、そして人間すべての所作も実在している。なのになぜ「空」なのか。
 ここで言う「空」は「無」(「有」の対義語として)という意味ではない。恒久、永遠ではなく、いずれ消滅するという意味である。
 人間は「我執」という本性から金銭、地位、名声、権力、美食、美酒、音楽、芸術、知識、社会貢献、評価等々の「所縁」を追い続けていて、これが生活、人生だと思っている。しかし、「諸縁」には永遠性はなく、いずれ消えていき「空」となるのだ。

 ☆仏教が目指しているのは「成仏」。我執、第八阿頼耶識を突破し、輪廻を打破して生死を超越する「仏性」の世界。煩悩が無く、同時に永久不変の世界である。「死」後、リセットされ、以前と同様に煩悩のある世界に入ってしまうと意味がない。そのため「生死を超越する」という。
 金銭、地位、名声、記録等々に執着するのは愚か。これは仏の教えである。銅像を作ったり、歴史に名を残そうとするのも人間が自分で作った「虚像」で、無意味な追求にほかならない。

 ☆「永久不変」は人間社会に存在しない。人間が追求している金銭、地位、名声、記録、さらに「快楽」等々はすべて夢のように「醒めたら」消える。これが「人生如夢」「人生如露又如電」の真意である。人間が「真実」として掴み取っている人生のあらゆる成果はいずれ「水泡」のように消えるため「人生は不真実」だという。
 仏教の基本教理を紹介してきたが最も重要な結論は次の通りである。                                                    

 我々の人生と異なる「煩悩のない」「永久的な」「生死の範疇枠や束縛を脱却する」世界(境地)がある。この境地を「仏性」と言う。「死」によって消滅する人間世界の金銭、地位、名声等々の価値観に拘泥せず、「常楽」の仏性境地をひたすら追求する。その境地に達すれば、仏と同じく「成仏」となるという。これが仏教の「価値観」だ。
 しかし、仏性の境地、あるいは成仏の世界はどんな「もの」「様子」なのか?
 ここまで「無煩悩」「永久」「生死を超越する」など、ほぼ「同じ」意味の言葉で説明してきたが、やはりその実態は掴めない。誰もがうまく説明できないのだ。仏性はまた「如来蔵」といい、また「本体」「本性」「心」「如如」「真如」「不二法」「宝」「摩尼珠」「涅槃」「無漏」などともいう。これらの表現は歴代の大徳が仏性の境地を説明するために作った言葉である。
 この「如来蔵」を理解すると「悟り」と言い、さらに自分自身で「如来蔵」を証明すると「成仏」になると言う。つまり、「如来蔵」は世界(人間世界だけではなく、より広い意味の全世界)の「本質」である。換言すれば「真理」「法」「道」などとも呼ぶべき「もの」だけに、やはり説明は難しい。
 これからいくつかの誤認識から「如来蔵」を説明していくことにする。

 大学教員 

(2026.7.20)
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