【コラム】中国単信(154)

中国茶文化紀行「茶禅一味」(91)

仏陀と豚
趙 慶春                                   

 「仏陀」と「豚」を並べるのはあまりにも不釣り合いだが、仏陀の教えを語るために豚を持ち出した次第である。
 豚は脳の容量が割と多く、意外と「聡明」なのだが、なぜか中国ではすっかり「愚か」の代名詞になっていて、中国語で「豚頭」と言えば、「アホ、バカ」の意味である。また、中国仏教界では、座禅中に寝てしまうと(頭が混沌状態となる、専門用語では「昏沈」「掉挙」という)、「輪廻転生」の時、来世では「豚」に生まれ変わると言われている。
 さて、ここからは「豚」に関する寓言で、仏教用語では「方便品」と呼ばれるものである。

 豚の群れがあった。彼らは平和で元気だったが、唯一の「不満」はやや餌不足で、常に争奪戦となり、餌取りに失敗すると腹ペコになることだった。彼らも「競争社会」に置かれていて勝者は優越感を持ち、羨ましがられ豚社会では「ふくよか」が美とされていた。
 餌は昼の十二時で、必ずベルが鳴る。何代にも渡って彼らはベルの音を聞くと群がり、至福の時を過ごす。ベルがまるで「神」の召喚で、幸せをもたらす合図となっていた。
 何世代かの時を経て、一匹の「聡明」な豚が現れた。彼らの「餌」は実はベルとは無関係で、時間と関係していることに気づいた。そのため聡明な豚はベルが鳴る少し前に餌入れの場所に赴き、誰にも邪魔されず、思う存分食べて、至福の時間を満喫した。
 ただの推測で終わらせず、自分の行動で「世紀の大発見」をした聡明豚は高揚感と達成感から、友豚にその事実を話した。友と共に成果を楽しむのも悪くはないと思ったからだった。
 ところが、その友豚はすぐ「餌タイム」情報を有料販売し、金儲けをした。こうして豚社会で「聡明」や「富」は、次第に新しい価値観になり、富豚は手に入れた富を使って、部下に餌入れを独占させ、次第に群れを支配する豚王になっていった。
 聡明豚は友豚の「裏切り」など意に介せず、「大発見」こそが豚社会の進歩に寄与すると信じ、次の追究、研究に取り掛かっていた。しかしある時、聡明豚も富豚もすべての豚が一斉に出荷され、「食肉」という最期を迎えた。
 
 この寓言、我が人間社会にも当てはまるのではないだろうか。
 「好色」の人。「色相」(外見)に執着する人。「色相」で稼いでいる人、「色相」で結婚相手を決める人。「色相」を自慢する人。美食、美酒、名車、豪邸、ブランドに溺れる人。金、社会的地位、声名を求める人。優越感、自己顕示欲に走る人。達成感、人生の価値を追求する人。知識を自慢し、科学の進歩は人類の救世主と信じる人。「富可敵国」(国家に匹敵するほどの財を有する)の人。「傾城傾国」(国を傾け、城を傾く)の佳麗(美人)。「学富五車」(学識は車5台分の書物ほど豊である)の人。「巧下如簧」(言葉の巧みさはまるで楽器のリードのような)の人。「牛耳天下」(世界を支配する)の人。
 困ったことに人間は、ある領域で優れていると思うと、自分は別格、レベルが違う、次元が違うとなりがちである。例えば、異性の「外見美」を求め続ける人を「美貌」の無意味さを悟った人間が見る目つきは、聡明豚のそれと同じではないだろうか。
 次元が違っているのだ。これは「世界の本質」を究明する際の「維度」説を連想させる。

 「維度」とは地球の「経度・緯度」ではない。「維度」を説明しよう。
 知床の絶景、天竜寺の紅葉、東尋坊の岩壁、延々たる万里の長城、迫力満点のナイアガラの滝、神秘満点のアマゾンの密林等々、テレビで見れば息が止まるほど魅了される。恐らく実際に現地で見るよりその迫力や美しさは増すと思われる。なぜなら、テレビカメラは様々な位置から撮影し、全体感、一体感など魅力的な要素の組み合わせで見られるからである。実際の現地観光では自然条件に阻まれる可能性が十分にある。人間の行動範囲にも限界がある。カメラを使って「上」に行けば、人間には見えないものも見えてくるし、全体的に見ることができる。より本質的見えくる、という論理だ。――まさに豚世界の規律を発見した聡明豚がより高い次元に達したと同じである。でも、聡明豚が「発見」した規律は結局「本質」なのか?
 「緯度」は「上」の世界、「上」の次元という意味である。「3D」の「D」、つまり「dimensional・次元」という意味である。平面の2D、立体的な3Dよりも上の4D、5Dの世界に「如来蔵」がある、という説まである。
 しかし、この論理は納得させやすく、一理があるように聞こえるが、やはり間違っている。なぜなら、4Dにしても、5Dにしてもこの世のどこかにあるという話である。つまり、まだ輪廻世界の中にある。

 誰も「死」という「最終出荷」から逃れられない。しかも、「出荷」周期は決して長くはない。「貴方が豚ならどうする?」。いや、「私が豚ならどうする?」
 やはり「一斉出荷を待つしかない?」
 短い人生だから、できるだけ楽しもう、短く太く生きようという考えもあれば、「死」を免れないから、何かを残そうという考えもある。子孫に財産を残そう、歴史に名を刻もう、人類の未来と発展に寄与できる有形無形のものを残そう、様々である。さらに「死」を免れないなら、死に方に拘るという考えもある。
 しかし、どれもまだ「輪廻」の中にあり、「死を超越する」と言えない。
 「富豚」が追及した金銭や地位や名声、「聡明豚」の達成感や自己顕示欲、存在意義などはすべて一過性で、人生をかけて追求し続ける価値はない。「輪廻」は「何回でも名声が与えられた」「永遠に生きられる」ように見えるが、実は「一過性」で、その「一過性」の繰り返しに過ぎない。しかも、「我執」による欲望への執着、その執着による煩悩なども無限に繰り返される。
 「輪廻」は超越ではない。「輪廻」は「一斉出荷」の繰り返しである。「輪廻」は〝解脱〟になっていない。そして、「如来蔵」は「低」から「高」のレベルへのものではない、3D・4Dという次元の「D」ではないのだ。

 大学教員

(2026.8.20)
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