【コラム】中国短信(155)
中国茶文化紀行「茶禅一味」(92)
「如来蔵」はどこにある?
趙 慶春
人生で一度ぐらいは飛行機の「ファーストクラス」に乗って、高級レストラン並みの料理と格上のワインを味わってみたいものだ。そこには「未知」の世界を覗いてみたいという気持ちも強くある。すでに五十路も半ば近くになる者の「望み」にしては、いささか情けないのだが、中国の田舎の貧しい家庭出身者としての生活が身に染みついているだけに「ファーストクラス」に手を伸ばそうとしないのは自然と言えば自然かもしれない。
そうは言っても、やはり人生一度は「ファーストクラス」で空を飛ぶためにANAのポイントをこつこつ貯めている。いつかそれで「アップグレード」(中国語は「升舱」という)して「ファーストクラス」でと思っているからである。
飛行機の座席には「エコノミー」「プレミアムエコノミー(コンフォート)」「ビジネスクラス」「ファーストクラス」といったランクがあるが、人生も同様と言える。最初は「下」からこつこつ努力して「上」へ這いあがっていく。かくしてトップクラスにならなくとも、円熟の域に達する。
ただし、飛行機の座席のグレードは当初はすべて現在の「ファーストクラス」だったのだ。もちろん値段も。その後、飛行機の利用者を多く獲得するために次第に下ランクの座席が生まれ、「正常態」のファーストクラスは高級、贅沢席になってしまった。
我々人間も実は順序が逆だったことを仏が教えている。
人間は最初、「如来蔵」という祥和の「永久常楽」の世界にいたのだが、ある「弾み」で煩悩、死がある輪廻の世界に落ちてしまったのである。「祥和」とは「涅槃」にほかならない。「涅槃」はよく「静寂」と説明されるが、誤解されやすい。しかし、ずばりの表現がない。また「ある弾み」については、別の機会に譲ることにする。
我々の最初の定位置は「下」ではない。そのため「上」を目指していくわけではない。我々は一旦落とされたところから元の定位置に戻るため修行する必要があるのだ。我々人間は誰でも「仏性」を持ち、「成仏」できると言われているが、成仏、如来蔵は我々の本来の位置にほかならない。
「定位置」と言うと誤解されるかもしれない。「如来蔵」は「場所」ではないからだ。
以前、紹介したが「西方極楽浄土」は「天人社会」ではあるが、まだ輪廻の中なので、「如来蔵」ではない。同様に「四禅八定」を習得した声聞仏、圓覚仏(後述)などは「仏」とされるが、まだ輪廻の中なので、「如来蔵」を得てはいない。
「如来蔵」は一つの「もの」ではない。「もの」という勘違いから、多くの修行者が必死に何かを掴み取ろうとしているのではないかと思われる。
「如来蔵」=「成仏」は文字通りで「仏に成る」という意味である。しかし、人びとの敬愛を集め、仏や菩薩のように「像」が作られ、祭られ、崇拝されるのが「成仏」だろうか。あるいは「仏」の数が限られているため、競争して上位者となると「成仏」するのか。
答えは否である。不適切を承知で言えば、「成仏」は資格試験のようなものである。ただし、「試験」に主催者もいなければ、資格授与期間もなく、試験日も試験会場もないのだが、「衆生」という我々全員が参加できる。資格試験の合否が受験者の能力次第であるように、「如来蔵」は我々の自分自身の中にある。
第七識「我執」と第八阿頼耶識を突破すれば、仏性=「如来蔵」に達するのだが、上述のように「如来蔵」は我々の「心」(意識)の問題である。「如来蔵」は煩悩を消す「役割」があるのだが、煩悩は我々の心(意識)から生まれる。「如来蔵」は「心」に存在し「心」以外の何のものでもない。
これは『首楞厳経』の「七処徴心」の巻でよく議論されるところで、以前紹介した「緯度説」や「如来蔵」は「西方極楽浄土」、あるいは仏像にあるという諸説はすべて典型的な「心外求法」(心の外に法を求める)の例である。「心外求法」はたとえ努力を重ねても「如来蔵」に達することができないため邪道と呼ばれている。
では「如来蔵」に達するために、つまり「如来蔵」探求の道のりに、資格試験や将棋、柔道等々の「段」「級」のような段階は存在するのだろうか。これは頓悟、漸悟、密教修行法などに関わるため、後述する。
さらに「合格」基準となると、明確な基準はない。少なくとも我々凡人には。ただし、我執の「我」、そして「空」の突破は最低限の基準だが、これについても後述する。
冒頭のファーストクラスの話に戻るが、一度だけこのクラスに乗るのならできるだろうが、常にファーストクラスに「乗れる」ためにはそれなりの「財力」が必要である。「如来蔵」に達して、その境地に永住するためにはそれなりの「力」が必要である。勿論、ファーストクラスのような「財力」ではなく、修行によって得る「智慧」と「定力」である。仏教が修行を重視するのはそのためである。
魯迅は次のような寓言を書いている。
二人の田舎者が西太后に憧れて、自分が西太后になった時の幸せについて語り合うなかで、一人が私なら絶対に「太監(宦官)、干し柿を一個持ってこいと命じる」と言った。この田舎者には「干し柿」は恐らく世界一のご馳走だったのだろうが、田舎者は所詮、田舎者で西太后の豪勢さなど想像さえできなかっただろうと。
これと同じく「如来蔵」をまだ悟っていない凡人の筆者には、脳みそをいくら絞ってもうまく説明できない。悟らないままでは決して「如来蔵」の理解はできないだろう。ただし、先人高僧大徳の智慧を借りて、「如来蔵」を習得する方法について「智慧」と「定力」の両面から説明することはできるだろう。
大学教員
(2026.9.20)
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