【コラム】中国単信(90)

中国茶文化紀行(27)宋代点茶文化のもう一つのキーワード――分茶

趙 慶春

 前回、五代十国から宋代にかけて、「点茶」の出現、沫勝負の「闘茶」の出現、そして神業の「茶百戯」を紹介したが、宋代点茶文化にはもう一つのキーワードがある。「分茶」である。ただし、「分茶」は上記三つよりかなり遅れて出現した。
 宋代茶詩に「分茶」が最初に登場するのは陸佃(1042年~1102年)の「依韻和趙令畤三首」詩である。

  海紅謾与陪尊酒,  ミカイドウを与え、強いて尊酒のお供に、
  淮白猶堪当分茶。  淮河白魚はなおすぐれて、分茶に当たるべく。

 作者陸佃の生没年から分かるように、「分茶」の出現は宋代となって百年ほど経過していて、点茶、闘茶、茶百戯のいずれよりも遅い。
 では、「分茶」とは?
 長い間、「分茶=茶百戯」、つまり茶湯表面の沫の上に作画あるいは文字を描く「喫茶創作行為」だと解釈されてきた。しかし、この説には一つ、大きな疑問点がある。前回紹介した「茶百戯」(「水丹青」、「湯戯」ともいう)を記録した資料は陶谷の『清異録』である。『清異録』は960年頃、つまり宋王朝成立時期の書物なので、「茶百戯」の流行はその前の五代十国時代だと推測できる。しかし、宋代のすべての茶詩五千五百余首を調べたところ、「茶百戯」及びその異名の「水丹青」や「湯戯」は一度も出現しない。そして、そのおよそ百年後の北宋(960~1127年)中後期に「分茶」作法が登場するのである。百年間ほど一度も記録されず、百年後に突如、名前を変えて登場するとは考えにくい。つまり、分茶は茶百戯ではないと考えたほうが妥当だと思われる。
 「分茶」の「分」は中国語にも日本語にも「分割」「分配」「分譲」「分与」「細分」などの言葉があり、「分ける、分けて与える」という意味がある。「分茶」もこの意味ではないかと思われる。
 そこで、宋代点茶にかかわる絵画2点について触れておく。
 劉松年の『撵茶図』は宋代点茶の茶席を描いたものである。画面の左に一人がテーブルの前に立って、左手に茶碗を、右手に湯瓶(湯を沸かし茶碗に注ぐ道具)を持ち、点茶しようとしている。注目すべきはその茶碗が特大サイズで、一般の茶碗の1.5倍ほどである。そして、正常サイズの茶碗も複数描かれている。
 南宋(1127~1279年)時代の遼国張世古の墓壁に描かれた『進茶図』も、赤い茶托の上に載せられている白い普通の茶碗のほかに、大きいサイズの茶碗が描かれている。しかもその大きい茶碗の中に点茶専門道具の茶匙(茶筅に相当する)が置かれている。
 この2枚の絵から「大きい茶碗で茶を点てて、普通サイズの茶碗に茶湯を分けて飲む」という作法が容易に想像できる。
 この点については、詩からも窺える。
 郭祥正の「携茶訪徐彦醇助敎」詩は次のように詠んでいる。

  满杯雪液聊分酌,  満杯の雪液(茶湯の白い沫)をたのしんで分けて酌す、
  别後音塵豈易通。  別れた後、音信が通じやすいはずがない。

 同じく郭祥正の「立夏日示陳安国宣義」詩は次のように詠んでいる。

  小団宮様茗,  宮廷仕様の小団茶、
  分酌莫辞深。  分けて酌すに深く汲むのを辞めず。

 類似の表現はほかにも複数あり、茶湯を分けて飲む作法の存在は明らかである。また、魏了翁の「鲁提幹以詩惠分茶碗用韻為謝」詩の詩題には「鲁提幹に詩を以て分茶碗をおくられ、韻を用いて謝意と為す」とあり、分茶用の大きな茶碗を「分茶碗」としているのである。

 また、宋代の徽宗皇帝の『大観茶論』の「杓」の条に「杓之大小,当以可受一盞茶為量。過一盞則必帰其余,不及則必取其不足。倾杓煩数,茶必冰矣」(茶杓の大きさは、ちょうど一碗の茶湯の量を受け持つサイズにすべし。大きくなると、余りを戻さなければならず、小さくなると足りない分を再度取らなければいけない。何回も煩わしく茶杓を運ぶと茶湯が冷たくなってしまう)とある。宋代点茶専門道具の一つである「杓」のサイズは分茶仕様になったことが分かる。「分茶」とは、大きい茶碗から茶湯を分けて小さい茶碗に入れる作法にほかならない。

 一般的に宋代の点茶文化が中国喫茶文化の隆盛期とされる。そして、この宋代喫茶文化には「点茶」「闘茶」「茶百戯」「分茶」の四つのキーワードとも言えるものがある。
 「点茶」は茶を点てる作法の総称だが、「茶碗で茶湯をかき混ぜる」という意味で「闘茶」「茶百戯」「分茶」の技術の基盤でもある。宋代全五千五百余首の茶詩で、「闘茶」を詠むのが65点、「分茶」を詠むのが67点である。ほぼ同数であり、いずれもが宋代茶人に愛されていたことが分かる。5,500強の茶詩総数から見れば、65点と67点はいずれも少ない。恐らく両方とも高度な技術を要する難しい作法に起因すると思われる。

 「点茶」「闘茶」「茶百戯」は、唐代末期から五代十国時代にすでに出現していたが、「分茶」だけは百年ほど遅れて出現し、「闘茶」とともに、宋の一時代に存在し続けた。また、宋の楊万里は「澹庵坐上観顕上人分茶」詩に「分茶何似煎茶好、煎茶不似分茶巧。(分茶は味の良さで煎茶に及ばず、煎茶は巧妙さで分茶に及ばない)」とあるように、勝負ではなく、平常心に基づく「分茶」こそ唐代陸羽の「煎茶」を凌ぐと、宋代茶人の自負になっていたようである。

 「茶百戯」は宋代に入ると消えてしまうのだが、その理由を探るため、「分茶」作法の流れを整理すると、
 (1)茶を粉末にし、湯瓶で湯を沸かす。
 (2)大きい分茶碗に茶の粉末を入れて、茶筅で点てる(かき混ぜる)。
   → 達人ならできた茶沫の上に絵を描いたり、文字を書いたりする。
 (3)茶の湯と沫を飲茶用の普通サイズの茶碗に分けて入れる。
 (4)飲茶用の茶碗で茶を飲む。

 この流れを見ると、「茶百戯」が消えたのではなく「分茶」に吸収されたと見るべきだろう。

 (大学教員)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧