【コラム】中国単信(130)
中国茶文化紀行(67)
茶の性格(上)
趙 慶春
言うまでもなく、茶は植物であり、物質であり、仏教用語で言えば「無情」であり、意識や感情を持っていない。つまり、茶には「性格」はないはずである。にもかかわらず「茶の性格」などと言うのは、人間の喫茶活動を通じて「茶」そのもの、あるいは喫茶に込めた「思い」が、一種の「精神論」として蓄積され、次第に具現化、系統化された思想として後世の人々に享受されていったのである。
「茶の性格」とは抽象的だが、「茶」あるいは「喫茶」に触れる際、当事者がしっかり意識する「概念」として確かに存在している。また、同じ現場にいても同じ現象を目にしても人々の「思い」はそれぞれ異なっている。したがって「茶の性格」を一つの「固定概念」で括るのはあまり意味がなく、本稿では各時代での「共通」の意識を、当時の言葉をキーワードとして整理してみることにする。
(1)倹約
『太平御覧』によれば、陸納が呉興の太守であった時、衛将軍の謝安が陸納を訪問したことがあった。納の兄の子・陸俶は陸納が何も用意していないことを怪しんでいたが、敢えて聞かずに、ひそかに数十人分の料理を用意させた。謝安に対して陸納が用意していたのは、茶と果物だけであった。俶はそこで用意した料理を並べた。山海の珍味がそろっていた。謝安が帰った後、陸納は俶を杖で四十回たたいていた。「お前は私の顔を立てないだけでなく、なぜ叔父である私の平素の品徳まで汚すのか」と言った。
(2)忘機
李洞の詩「寄淮海惠沢上人」
海涛痕満旧征衣、 海涛の痕が旧い戦衣を満たしている、
長憶初程宿翠微。 最初の遠征で翠微に宿ったのを遥かに追憶する。
竹里橋鳴知馬過、 竹林の奥の橋が鳴って馬が過ぎるのを知り、
塔中灯露見鴻飛。 塔の中の灯が透ってきて鳥が飛ぶのが見える。
眉毫別後応盈尺、 上人と別れた後、眉毛がおそらく一尺にも及んだであろう、
岩木居来定幾囲。 岩や木のところに定居してから一体何年経つであろうか。
他日愿師容一榻、 いつか師に一つ弟子の座席を置くことを許してほしいと願い、
煎茶掃地学忘機。 煎茶や地面掃除などをして世俗の気遣いを忘れることを学ぶ。
「忘機」は多様な意味合いが含まれていて、少々説明しにくい。「忘機」の真意を究明するために、「機」の諸意味から考えることで分かりやすくなるだろう。
(一)「枢機」には「物事を動かす中心、大切な所」という意味がある。この世の大切なものと言えば、一般的に「富、権力、地位、声名」などがあり、また「愛情、友情、忠孝、信義」など精神的な意味も浮かぶだろう。そこから「忘機」は「脱俗」につながる。
(二)「機敏」の「機」には処世的に「円滑、利口」という意味がある。そこから「忘機」は「人間関係」に関する忖度、気遣い、コネ重視、媚びなどの悩みや束縛から自己を解放する意味がある。つまり処世術、仏教用語での「所縁縁」などを断つことであり、儒家が美徳とする「隠者風格」につながる。
(三)「心機」の「機」には「心のはたらき、物事のはたらき」という意味がある。この意味からすれば「忘機」は「精神鍛錬」「修業」への執着心を忘れることになり、仏教での「人無我」「法無我」の状態であり、これこそ「茶禅一味」の奥義である。ただし唐代の「忘機」概念はまだ曖昧で「茶禅一味」までには至っていない。
(3)脱俗
皎然の詩「九日與陸処士羽飲茶」には
九日山僧院, 九日(九月九日重陽のこと)山僧の院、
東篱菊也黄。 東のまがきの辺の菊も黄色く咲いている。
俗人多泛酒, こんな祭日に俗人の多くは酒を飲むが、
誰解助茶香? 茶の香りにより、菊の美しさが増すことを誰も知らない。
とある。
また劉長卿の詩「惠福寺與陳留諸官茶会」には
到此機事遣, ここ(茶会)に来ると、仕事などの用務が忘れられる、
自嫌塵網迷。 自ら俗世間の迷いや執着を嫌う。
因知万法幻, よって世間万物のすべては幻と悟り、
尽與浮雲斉。 すべて空の浮雲と同じ。
とある。
(4)閑(閑寂)
杜荀鹤の詩「題衡陽隐士山居」には
閑居不問世如何, 閑居して世のことがどうなっているか気にしない、
雲起山門日已斜。 山門に雲が起きる時、日はすでに斜めになる。
放鶴去尋三島客, 鶴を放ち、三島の客を尋ね、
任人来看四時花。 人が四季の花を見に来るのに任せる。
とある。
皎然の詩「白雲上人精舍尋杼山禅師兼示崔子向何山道上人」には
世事花上塵, 世間の事は花の上の埃の如き、
惠心空中境。 恵心は空中の境地である。
清閑誘我性, 清閑が我が性を誘い出し、
遂使煩慮屏。 ついに煩悩や思量を追い払う。
識妙聆細泉, 妙を知り細泉を聞木、
悟深涤清茗。 深く悟り清茗をいれる。
此心誰得失, この心は誰が得て誰が失うのだろう、
笑向西林永。 微笑んで西林に向くこと永し。
とある。
中国語に「閑適」という言葉がある。「適」は「適意」(これも中国語だが)のように心身とも安らぎ、満足して今を享受している意味である。つまり「閑適」の「適」は結果で、「閑」は前提条件である。競争心、執着心、煩悩、心配事等々の気がかりが少しでもあれば「閑」になれない。「閑」は茶の重要な性格の一つであり、隠者の重要な要素であり、また中国古代文人が追及している理想状態の一つでもある。
(5)清
「茶清・酒濁」と俗語にあるように、「清」も早くから茶の性格の一つになっている。
「清」に関しては三つの意味合いがある。
その一、眠りや酔いなどの「昏」の反対語として「すっきり」の意である。
杜荀鶴の詩「題德玄上人院」には
刳得心来忙処閑, 仏の心を掴んでくると忙しいところも閑寂であり、
閑中方寸闊于天。 閑寂の中の一寸は天よりひろい。
浮生自是無空性, 浮世には空性がなく、
長寿何曾有百年。 長寿でも百年は嘗てあっただろうか。
罷定磬敲松罅月, 禅定をやめ、松罅の月に磬を敲き、
解眠茶煮石根泉。 睡眠を解くのに石根の泉で茶を沸かす。
我虽未似師披衲, 私は師のように僧衣を着ることはないが、
此理同師悟了然。 この理について師と同じく悟っている。
とある。
その二、文学創作などのひらめきを指す。
秦稲玉の詩「采茶歌」には
耽書病酒両多情, 書に耽溺し、酒に浸り、いずれもにも情を注ぎ、
坐対閩瓯睡先足。 座して茶椀に向かうと眠気がなくなる。
洗我胸中幽思清, 茶は我が胸中を洗い、幽思は清らかに、
鬼神应愁歌欲成。 睡魔や酒神の鬼神はこの詩が出来あがるのを憂う。
とある。
その三、「濁」の風潮に逆らい俗人と交わらない。またみずからの節操を貫く意味があり、「酒濁」に対する「茶清」がそれである。
王敷「茶酒論」の「酒濁」の箇所には
茶為酒曰 酒は茶に向かって曰く、
酒能破家散宅, 酒は家を離散させ、家財を散逸させる。
広作邪淫。 広く邪淫のきっかけを作る。
打却三盞後, 三盞でも飲んだら、
令人只是罪深。 さらに人の罪を深くさせる。
とある。
以上が唐代以前と唐代の「茶の性格」ということになるだろう。
大学教員
(2024.8.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ/掲載号トップ/直前のページへ戻る/ページのトップ/バックナンバー/ 執筆者一覧