【コラム】中国単信(134)
中国茶文化紀行(71)
「座禅を始めた」と告げると予想外の反応
趙 慶春
「最近、座禅を始めた」と、久しぶりに会った友人に近況報告を兼ねてこう話すと、 「え?」と、かなり驚いた声が返ってきた。
「何があったの?夫婦関係は大丈夫?」なかなかストレートに言わない日本人には珍しい直球的質問だったが、何でも言い合えて年齢差の大きい間柄だったからの質問だったのだろう。
自分としては仕事も家庭も問題なく、大きな悩みも抱えていなかったので、友人の反応は少々意外だった。「いや、研究の一環として茶禅一味の本質を見極めたいと思って」と言うと、「へえ〜」と、急に興味を失った様子だった。座禅というものにあまり知識がなかったためか、「夫婦間に亀裂でも生じなければ、坐禅などに取り組むはずがない」と勘違いしたようだ。
このような勘違いは中国でもよく起きる。
中国仏教では、僧侶の妻帯が認められず、恋愛や女性との交際などについては厳しく禁止されている。つまり僧侶になるとは、結婚せず子孫を残さないことであり、家系継承から外れることを意味している。「出家」と言われるのは、そのためである。そのため、突然の「出家」や仏教に興味を持つことは「恋愛、婚姻」についての苦悩ありと信じ込んでしまう人が少なくない。さらに「家」(忠・孝)を重視する儒教から見ると、「出家」は社会の正統システムから外れたことを意味する。そのため、僧侶の「出家」の受け皿である寺が弱者、負け犬の逃げ場という認識は古くからあり続けている。人生の挫折、恋愛・婚姻の失敗、身体や精神の障害、人間不信、信仰危機、貧困、病気等々「訳アリの人」ばかりが「仏」にすがる、と考えている人は多い。しかし、「訳あって出家する」人が一定数存在するのは否定しないが、「仏」(お寺)=「心に病ありの人たちの収容所・避難所」ではない。
一方、中国では近年来、社会的に「大成功」した後、急に仏教に接近する人が増えてきている。見失った人生目標の再構築、人生の価値の再認識、「未来」への祈願等々その理由はさまざまだが、人生競走の激戦を勝ち抜いた後の心の「安らぎ」を求めるのであろう。
しかし、寺(仏教)は精神診療所ではないし、休憩所や療養所でもない。「負け組」「勝ち組」に関係なく、特定の人間にだけに「効く」ものでもない。確かに仏教は「傷ついた心を癒し」、「心に安らぎを与える」役割もあるが、これらが仏教の全てではない。
そもそも仏教の教えの根幹は「智慧」と「慈悲」(利他)にほかならない。「知識より智慧」、「自分より他人」という見識や精神を持たずには、仏教の教えを実践する「資格」さえ与えられないのである、決して「弱者」や「負け犬」の逃げ場などではないのだ。にもかかわらず「禅」や仏教に対する「誤解」は存在し続けている。
そこで「禅」なるものが、「恋愛」や「憂悶」などの悩みの解決レベルを、いかに超越したものを追求しているのかを簡単に見ておくことにする。
中国唐代の禅宗六祖慧能和上の『壇経』に次の公案が記載されている。
“時有風吹幡動。一僧曰風動、一僧曰幡動。議論不已。惠能進曰:非風動、非幡動、仁者心動。”(ある時風で旗が揺れていた。一人の僧が「風が動いている」と言うと、別の僧が「旗が動いている」と言った。両者の議論は決着がつかず、惠能はこう言った。「風が動いているのでも旗が動いているのでもない。二人の心が動いているのだ」)と。
この公案に倣って「茶禅一味」とは、「茶は禅と一味(同じ)か」、それとも「禅は茶と一味か」と聞けば、これほどの愚問もないだろう。茶の「心」も禅の「心」も「不動心」であり、「禅の智慧」だからである。
だが「不動心」とは? これを手に入れる手段は?
唐代の詩人柳宗元の詩「江雪」をみてみよう。
千山鳥飛絶, 山々から鳥は飛び立ち、姿が消え、
万径人踪滅。 道々から人間の跡が消えた。
孤舟蓑笠翁, たった一隻の小船の上で蓑笠をかぶった老人が、
独釣寒江雪。 たった一人で寒江の雪を釣っている。
静謐な墨絵とも、枯山水とも言える詩であり、世間の煩悩と無縁の美しい絵画が浮き出てくるようである。この詩は禅詩であり、まさに「禅」の境地とよく言われ、長く人々に愛されてきている。しかし、これがなぜ「禅」の境地なのか。「禅」の境地とは?
ところで、この詩から思い浮かぶ情景を、この詩を目にする者は「情景」を「見ている」人なのか、それとも寒江の雪を釣っている「蓑笠翁」なのか?いったいどこに「立って」見ているのだろうか。そもそも、この「禅」の境地にこの詩を目にする者は存在しているか?
この詩を目にする者がもし「鳥でさえ姿を消し、人の痕跡がまったく消えた大雪の中に」いるなら、この情景、この「禅」の境地なるものを心底から楽しめるのだろうか。どのようにして、どこへ帰ろうかなどと気にならないだろうか。誰かが待っていることを期待しないだろうか。
このように考えると、我々は世間の固有概念に捉えられており、我々は社会という既存概念を超越しないかぎり、到達できないところに「禅」の境地があるのだ。
個人や社会が抱えた悩みを解消するだけが「禅」ではない。「禅」はこの俗世間を超越するところにもある。「茶禅一味」の本質を究明するためには「禅」と「茶」を研究するだけでは十分ではない。「禅」や「茶」にまとわりついている、あらゆる「誤解」を取り除くだけでも不十分である。「脱俗の禅」と「世間の茶」の結びつきや、「茶」を通じて「禅」に辿り着く「道」を見つけ出す必要がある。
大学教員
(2024.12.20)
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