【コラム】中国単信(137)
中国茶文化紀行(74)
「茶禅一味」・苦
趙 慶春
我々の人生でも同様のことが起きる。人生の「苦」と「楽」は絶対評価、それとも相対評価なのだろうか。一所懸命努力し、自分なりに成功を収め、期待通りの財産、地位、名声を手にして「楽」と感じたとしても、ソフトバンクの孫社長と比べたらどうなるのだろう。
他人と比べなければよいのだろうが、そもそも人生の「苦」と「楽」の判断基準に絶対的なものは存在しない。小難しいことを言うつもりは毛頭ないが、自分のこれまでの人生は「苦」か「楽」か、迷わず断言できる人はそう多くはないだろう。
一方、仏教は「人生は苦なり」と断じている。それは間違いないことなのだろうか。
「信じられない」として、仏教に拒絶反応を示す人も少なくないかもしれない。
仏陀には悟りを開いた後に三度の説法をおこなったとする「三転法輪」がある。
最初の「一転法輪」では、仏教の基本概念の「四諦」、つまり「苦・集・滅・道」についてであった。「人生は苦であり、その苦を取り除くために悟り、仏への道しかない」という。「人生は苦だから仏教に帰依すべきだ」と言うのである。
しかし、人生を楽しんでいる人もそれなりに存在するだろう。日常生活で悩み、憂い、悔い、怒りもあり、病気もするが長い人生は楽しいと思う人もいて、それだけに「人生は苦」とする仏教は信じられないとなってもおかしくない。
成功者は人生を謳歌し、宗教(ここでは仏教)とは無縁であり、「苦」も「楽」も自分だけの感覚世界であって「他者」(仏陀でも)が判断することではないと思うかもしれない。
それにしても人生は「苦」と「楽」ではいずれが長いのか。あるいは、どちらでもない時が長い?——結局、「苦」か「楽」の境界線はあまりにも曖昧で、いずれなのかわからない時が最も長いのかもしれない。
仏教の「苦」とはどういう意味で、その判断基準は何か。それは日常生活の中で自分が事あるごとに感じる苦楽の「苦」なのか。このようなことを考えると、中学校時代に一人の教師の「共産主義」の話を思い出す。
「きみたちは遊んでばかりいないで、しっかり勉強しなさいよ。君たちこそ共産主義の国の後継者なんだから」説教するたびに教師がよく言うセリフだった。
「先生、共産主義が実現したらどうなりますか?」ある学生が聞いた。
「それは幸せに満ちた生活になるでしょう。レストランに行けば、タダで何でも食べ放題、デパートに行けば、好きな服が選べる。もちろんタダでね。その服を着終わったらどうするって? デパートに戻せばいい。ほかの人がまた着るかもしれない」
「共産主義」に基づいた「共産社会」がどういう社会なのか、筆者には詳しく分からないが、この教師の話には大きな誤解があったことだけは確かである。「共産主義」は個人の欲望を満たすためだけの「主義」であるはずがないからである。
無知による誤解、そして、うわべの「現象」だけで事理の本質を理解したと思うのは人の常で——「人生は苦」という仏教の理念も同様に誤解が多い。
仏教の所謂「苦」の概念は個人の感触・感覚・感情を超越し、人生哲学・真理のレベルの話である。仏教の「苦」には「四苦・八苦」がある。
「四苦」とは「生」「老」「病」「死」である。「老・病・死」が「苦」であることは分かるが、「生(生まれる)」も苦なのは、結果から考える論理に基づいている。つまり、人間は「生まれた」時点からすでに「老」、「病」、そして「死」に向かって踏み出す宿命にあるからである。「生」自体も苦を生み出す源と捉えるのである。
確かに、悔んでも悔み切れない泥沼の離婚トラブルが最終の結果だと分かれば、その恋愛の「第一歩」が幸せだと言えないかもしれない。とはいえ「最終的に苦しい離婚になっても、やはり恋愛はしたい。たとえいっときでも恋愛の幸せを楽しみたい。一度の人生なのだから」と思う人も多いかもしれない。
人生に「一時的な」幸せが多くあることを仏教は決して否定しているわけではない。仏教はただ人生で「必ず」やってくる「苦悩」を事前に理解し、その回避方法を身につけるよう教えているのだ。
たとえば「死」への恐怖という「苦」からの脱却のために、仏教は「無生」を説く(「無生」のような難しい専門用語については今後、分かりやすく触れていく)。
「四苦」に続く仏教の「八苦」とは、「四苦」に下記の「四苦」を加えたものである。
愛別離苦:愛するものと別れなければならない苦
怨憎会苦:怨み憎むものと出会わなければならない苦
求不得苦:求めても得られない苦
五蘊盛苦:いっさいは苦に満ちている苦。つまり、五感を以て世界から受けた感受による心身の苦。執着苦と言えば分かりやすいかもしれない。
このように「四苦八苦」を見ると、「自分」を中心とした(自己中)「欲望」から発しているところが大きいのではないか。その代表例は「求不得苦」で、「病の苦」は健康への欲望であり、「死の苦」は現在の生活の継続願望、あるいは不老長寿への欲望である。
「求不得」は求めてもなかなか得られないことから生じる「苦」である。成功者、特に大成功者なら、その欲望はすでに満たされており、「人生は苦」という認識はないように思うのだが。
しかし、人間はそうはならないらしい。一つの欲望が満たされると、さらに新たな欲望が湧き起こり、さらなる「苦」に取りつかれ、更に欲望を満たそうとしていく。つまり、「欲望」が満たされたところに、また新しい「欲望」が生み出されていくのである。
ならば、無欲の人間であれば「苦」とは無縁なのではないだろうか。
ちなみに「無欲」は仏教の教えの一つである。
しかし、「無欲」でいられる人間がどれだけ存在するのだろうか。
人間は「死」から逃れられない。そして、「死」を前にして、なお生への「欲望」をまったく持たず、平常心で「死」を直視できる人間は修行者を含めてもかなり少数だろう。
「人生は苦」と説く仏教は人間の弱さ、惨めを見せつけ、人間を憂鬱状況に閉じ込めるためではなく、人間に「人生は苦」の根源を気づかせ、「苦」世界から救い出そうとしている。
以上を理解した上で、下記のことを考えてみたい。
「自分」「欲望」は「苦」の根源だが、「自分」「欲望」の根源は何だろうか?
「死」への「恐怖」を含めて、「苦」を取り除く「道」(方法)があるのか?
そして、何よりも「苦」のない世界は存在しているか? それはどのようなものなのか?
何より、人生の最大の「苦」でもある「死」が避けられないことなのか。
次回から人間の「煩悩」、そして「死」について考えていくことにする。
大学教員
(2025.3.20)
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