【コラム】中国単信(139)

中国茶文化紀行(76)

「茶禅一味」・第七識「我執」
趙 慶春

 人間は自分の「人生の価値」を〝存在の意義〟から見たり、〝達成感〟や〝幸福感〟から追求する場合もあるだろう。
 ビルのガードマンとして40年間、ほぼ同じ時間帯に同じ場所で立ち続けて定年を迎え、部署内の送別会で「40年間やり遂げたので充実感がある」と言った人は、「生き抜いた」という達成感を持てたのだろう。
 中国国営企業の社長は退職する際「北京郊外に1500万元(2024年で約3億円)の家が持てた」と友人に自慢気に「報告」したというが、この人は一般人には不可能な「富」を得た自分に達成感を見たのだろう。
 ある作家は「生涯で三百以上の作品を発表した」と満ち足りた表情を浮かべて目を閉じた。大学の教師ならどれだけ学生を育てたか。アスリートならどれだけの記録を残したか。科学者ならどれだけ人類に貢献したかなど「業績」「成績」などによって達成感を味わうことになるのかもしれない。

 中国古代では、一定の社会的地位にあった人たちが、亡くなると、達筆の友人がその人物の「業績」を称える「墓誌銘」を書く慣習があった。この「墓誌銘」を墓碑に刻んだり、世間に公けにしたりして歴史的に残る名文も存在する。しかし、その「墓誌銘」の記述がその人物の偽りのない人生であるかは疑わしい。「人生」の美化、誇張が珍しくなかったからである。血縁者が莫大な謝礼金で、事実以上の優れた「墓誌銘」にする場合もよくあった。人間というものが自分の人生価値、達成感をいかに重視するかの例証と言える。
 「墓誌銘」の重視は中国古代の帝王も例外ではなかったが、特に元王朝の君主は生前にみずからの人生評価を書くようになり、強烈な自己評価への「執着心」があったことがわかる。

 前回すでに触れたが「眼、耳、鼻、舌、身、意」という「前の六識」の次は第七識として「我執」がある。「末那識」とも呼び、「俱生我執」とも呼ぶ。つまり「生まれながらの我への執着」である。人間は誕生すると、前六識が完全に揃う以前にすでに第七識が存在している。たとえば母親の胎内にいるときから栄養を吸収し、動き、蹴ったりして「我」の訴求を示しているのだ。第七識は「生」と不可分の人間の本能のようなものである。
 上述した〝達成感〟はこの我執によるもので、その代表格の一つと言える。
 「我」に執着するため、常に自分を優先させ、自分の利益第一となってゆき、次第に「自己中心」や「独占欲」といった言葉がついてきてしまうことになる。
 マイホームを持ちたいと望む人は少なくなく、ローンという名の借金をしてでもそれを願う。面白いのは平凡なサラリーマンも、社長も、世界的規模の企業オーナーも、マイホームの夢は一緒と言える。なぜなら「私のもの」だからである。
 町には綺麗な公園や、整備された緑地や庭園などもあり、これら共有、公共の施設で誰もが十分に楽しめる。ところが、いったん自分の家を持とうとすると、自分の「庭」も欲しくなる。やはり「私のもの」を「私」が持ちたくなるからである。
 スーパーで野菜や魚を選ぶ際、商品の山を全部ひっくり返すことになっても徹底的に良さそうな品を選ぶのは「我」が少しでも損をしたくないからである。

 中国には「五毒」あるいは「五害」という言葉がある。この「五毒」、つまり五つの悪事とは「喫」(食に対する過剰摂取あるいは過剰追求)、「喝」(酒に溺れる)、「嫖」(異性遊び)、「賭」(賭博)、「抽」(たばこからアヘン、覚醒剤等)である。この「五害」、実際には同列とは言えず、違法で「百害而無一利」(百害あって一利無し)のものもあれば、過剰でなければ問題がないものもある。だが、いずれも人間の欲望に溺れ過ぎれば「害」にはなるのは間違いない。

 ——「我」への執着は「欲」への執着に繋がっている。
 「五害」にはもう一つの説がある。「食」(美食への拘りだけではなく、過食など食への欲望が制御できない)、色(淫ともいい、性欲が制御できない、自慰も含む)、財(金への欲望)、権(権力、社会地位などへの欲望)、睡(睡眠に溺れる)である。これらは人間の最も身近にあって、溺れやすい欲望であり、どれも「我執」から生まれる。「我」がなければ、「食」「色」「財」「権」「睡」、いずれもなくなるからである。
  除夜の鐘を108回搗く習慣が日本にはある。これは見、思、惑などの98結使と10纏を合わせた人間の108煩悩を打ち破るためという説に由来する。「98結使と10纏」の詳細説明は省略するが、「108煩悩」を大別すれば、以下の五つになる。
 「貪」(貪欲、物欲、食欲、性欲、金銭欲など)
 「嗔」(怒り、憎しみ、敵意など)
 「痴」(妄想、混乱、執着)
 「慢」(傲慢など)
 「疑」(疑うなど、疑心)である。
 これらの煩悩もいずれも「我執」に由来する。

 一般的に言われる「毒」や「害」も、仏教の形而上で言われる「煩悩」をもたらす「悪」も、その根源はどちらも「我執」である。
 「除夜の鐘」には人間の願望が込められているが、「除夜の鐘」だけでは煩悩を打破できない。煩悩の根源——「我執」と真剣に向き合わなければならない。

 大学教員

(2025.5.20)
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