【コラム】中国単信(140)

中国茶文化紀行(77)

「茶禅一味」・我執の重み
趙 慶春
                             
 「雙葉」、「女子学院」、「お茶の水女子大学付属中学校」。この三つが並べば、日本の私立女子中学校受験について知る人なら「御三家」と呼ばれている女子中学校と思うかもしれない。実はこれは筆者の知人の娘の中学校受験時の志望校で、大変な難関校ばかりである。
 塾の教師も流石に「ワンランク下のどこか一校を「すべり止め」にしたほうがいい」と何回もアドバイスしたが、両親は耳を貸さなかった。結局、塾教師の危惧が現実となり、その子は受験に失敗し、勧められた学校より数ランク低い私立学校に進学した。幸い、その子は中学、高校で頑張り、志望大学に合格できた。結果良しではあったが、もし中学受験で無謀な志望校の絞り方をしなければ、中、高校6年間の「地獄」のような受験勉強は避けられ、数百万円の塾費も必要なかったかもしれない。

 「無独有偶」(唯一ではなく同じものがある。他にも同類がいる(ある))は、この世の常ともいえるが、別のある子は大学受験に際して、親の意見に従って「一橋大学」「慶応義塾大学」「早稲田大学」を志望校とした。しかもすべり止めなしで。この子も受験に失敗し、一浪してややランク下の大学に進んだ。
 上記二人の子どもの「親」は中国人だが、日本受験システムやすべり止めの意味を理解していなかったわけではない。ではなぜ塾教師のアドバイスを無視したのか。
 両者の理由は同じだった。彼らの知人や親戚に似たような年齢の子が複数いて、早稲田実業学校(早稲田への一貫校)や早稲田大学に合格するのを見て、〝うちの子だって〟と早実や早稲田大学と同等か、それ以上の学校しか目指さなかった強烈なライバル意識があったからである。
 このように人間同士の付き合いで、周囲と比較しながら生きているのは中国人だけではなく日本人も同様だろう。隣人がBMWなら、うちはベンツ。あの子がサッカーなら、うちの子は野球。一軒の家がしっかり庭の剪定を行ったら、周囲の家々も、といったように。
 これらはすべて「我執」によるものである。

 「我」があれば、「我」に執着するのは当然だが、そこには必ず「他」の概念が横たわっている。結果として「自他」、「立場」、「内外」、「友敵」などの概念が生まれる。
 「我執」は「分別」「分別心」を生じさせ、「我執」が強ければ強いほど「分別心」も強まり増幅する。そして、「分別心」によって「我」への執着心を強固にする。
 分別心から「他人」との比較が起き、達成感や幸福感が得られるし、「周囲の目線」、言い換えれば社会的評価から「我」への自信や存在感、幸福感を享受する。
 日本のある有名なプロ野球選手が人生はよりよい車に乗って、よりよい酒を飲んで、よりよい女と寝ることだ、といった類の発言をしたことがある。この物言いへの賛否は別にして、「他人よりよい」ことで達成感や幸福感を感じる好例と言える。

 しかし、適度の「他」との比較を超えて「我」をあまりに重視すると「我」を見失いがちにもなる。
 インターネット、スマートフォン、通信技術、アプリの進歩に伴い、ユーチューブ、ツイッター(現・X)、ブログ、ウィチャットなどで発信、書き込みをする人は増加する一方である。スマホを手から離さず、衣食住よりも大事とばかりにスマホに没頭する人が溢れている。もはや「スマホ中毒」と言ってよい人も多く、携帯電話の本来の通信機能だけを利用する人は少数派になっている。
 多くの人がスマホで自分なりの「我」の世界を作り上げている。LINEやメールなどの着信音が鳴るや、慌てて「チェック」する人、着信音が睡眠の邪魔になっても人間関係から設定変更を躊躇う人、ちょっとお洒落なカフェに行ったり、食事をすれば写真を取り、ウェブにアップする。綺麗な服も、街並みも、久しぶりに会った友人も何でもウェブにアップする。

 「我」のスマホ世界を楽しむためだが、「我」を重視するあまり、例えば、観光地では写真を撮りまくり、すぐにウェブにアップするのが現在の「旅行スタイル」になりつつある。スマホ世界で繋がっている「周囲の目線」を気にするからだろうが、本来の「観光」を楽しんだのかと疑問を持たずにいられない。「我執」から分別心が生まれ、自他概念、比較、周囲の目線、社会の評価などから「我」を失ってしまったのである。

 この「周囲と比べる」という意識は、日本と中国では異なる傾向がある。日本は「自分が周囲に合わせ、自分だけが外れないように」周囲と比べることが多いようだが、中国でこの意識を表す用語がある。「攀比」(パンビ)である。「攀」には「攀登」(パンドン)「攀爬」(パンパ)などの単語があるように、「這うように頑張って登る」という意味である。つまり、「攀比」は「無理しても相手より上に立つように競う」となり、相手を凌駕し、優越感を得る心理が強い。
 近年来、中国で「比」あるいは「攀比」は社会問題になりつつある。収入も、車も、家も、旅行の回数や行先も、彼女の綺麗さや彼氏のハンサム度など、何でも他人と比べて達成感や幸福感を得ようとする。「上」の人に敵わないなら「下」の人、つまり自分より劣る人を探す。それでも他人の上に立てないなら、「自分」以外に「活路」を見出そうとする。例えば、子供での比較である。同じ世代のほぼ同じ経歴・収入で、世間的にもほぼ同じレベルの主婦たちはまさに今「子供バトル」を展開している……

 この集団意識の差はそのまま日中文化の相違の一つと言える。しかし、ここで強調したいのは、「我執」と同じくこの「自他・比較」という心理・意識は誰もが持っているということである。「比較」や「攀比」の「核心」には「我」がある。つまり、人間は常に自分を中心に、自分を基準にして自分のために「比較」する。そして、「比較」により一層競争心が刺激されるか、達成感を享受するかして、さらに「我執」は強固になるのだ。

 「我執」は人間を動かす原動力である。しかも想像より強固であり、さらに自己増強能力をも持つ。

大学教員

(2025.6.20)
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