【コラム】中国単信(141)
中国茶文化紀行(78)
「茶禅一味」・我執の多面性
趙 慶春
二十数年前、私が留学生時代の話である。
当時、私はある中国系中国語新聞社でアルバイトをしていた。規模が小さく、資金力もないため独自取材能力はほとんどなく、日本のメディアの記事を中国語に翻訳して掲載するのがほとんどだった。日本語が不自由か、より中国の情報を求める在日中国人を読者層としていたので転載・翻訳が主となるのは当然とも言えた。
その頃、私は経済面も担当していて、株価の分析や為替レートの予測などに関する文章を毎回書いていた。勿論、金融経済音痴の私が自分で書けるはずもなく、専門家の意見をまとめたものばかりだった。
ある時、中国人の集まりに出席すると、「最近、私、結構ドルを買ったの。今、円高なので買い時期だって」一人の四十歳代のパート主婦の声が聞こえてきた。
「えっ? なんで急に外貨に手を出すの?」
「だって日本で出ている中国語の新聞が円高がほぼ頂点に来ていると分析していたわよ」
「あぁ、あれね」私のことをよく知っている知人が顎で私のほうを指して、「その文章は彼が書いたのよ」
「えっ? あなたは確か文学博士よね」そのパート主婦が目を剥いて聞いてきた。「金融・経済にも明るいの?」
「知っているはずがないでしょう。どうせどこかの文章の翻訳よ」知人が容赦なく言った。
「あら、いやだ。すっかり信じてしまったわ」パート主婦が嘆いた。
「あんな中国語新聞の記事を信じちゃダメよ」周囲の人たちも頷いていた。
「文学博士だからって資料を文章にして、翻訳した能力を舐めんなよ」と、私は心の中で悪態を吐いた。
彼らの心理は日本語の金融経済誌に掲載され、それが中国語に翻訳されたからといって信頼できない、というのではない。身近な人間の文章だから、たとえそれが翻訳でも信頼できないというのである。いや信頼したくない、と言ったほうが的確かもしれない。
「身近」となると「我」の要素がうごめき始め、「我執」による差別心が涌いて、「自己有利」になるように動いていくと考えられる。つまり、「身近」な相手の話を信じて従うことは自分が風下に立たされると判断するのである。これは「金銭」「地位」など目に見える「比較対象」と同様に我執は「身近」になればなるほど強くなる。
服飾品、車、レストランなどの高級度、子供が通う学校のランクどころかティッシュ、ラップなど日常消耗品の銘柄までも比較して、自己満足に浸る人は決して珍しくない。しかし、その比較対象者は隣人、同僚、同級生、友人、親戚など「身近」な人間に限られる。ソフトバンク孫正義社長や中国ビジネス界の馬雲(ジャック・マー)とは比較しないはずだし、アフリカの難民とも比較しないだろう。
——「我執」はやはり「我」の及ぶ範囲で起きると見ていいだろう。
以前、会社の同僚の結婚式に出席したことがあったが、社内結婚のためか同僚の出席者も多く、祝辞も会社の人間が多かった。社内では新郎と親しいふっくらとした体型の事務系トップの女性もスピーチに立った。彼女は新郎のモテぶりを紹介し、飲み会などでは多くの女性を魅了し、彼女たちとの親密ぶりを事細かに話していた。彼女は自分と新郎の仲を強調したかったのだろうが、新郎新婦の親戚を含め、式場にいる全員を辟易させていた。
中国語に「損人不利己」ということわざがある。「人に損害を加えるは、己を利せず」とは、〝他人を傷つけることは、かえって自分が損をすることになる〟という意味である。
この女性のスピーチは誰からも顰蹙を買うことになり、他人からはなかなか理解できない行為だったはずである。しかし、この女性にとっては「自分の利益を計るため」であったため人に損害を与えても意に介さなかったのである。
「利己」は我執が現れているので理解しやすい。しかし、我執→分別心、差別心→自他概念の流れで見れば、意識しなくても「他」への「敵意」「攻撃心」が「自然に」現れてしまう。上述の結婚式で全員を唖然とさせたスピーチのように。
——「我執」は「利己」と「排他」の両面性を持つ。
我々人間は日々、仕事をし、趣味を楽しみ、休憩や睡眠を取り、喜怒哀楽などさまざまな感情を抱きながら生きている。「自分」が生きているから「我に執着」し、「利己」に走るのであり、それは自然の成り行きとも言える。
一方、「我執」という概念は「私」だけとは限らない。例えば、家では「私」は「我」、妻や子は「他」である;しかし、いったん自分の家を離れて隣人の家に行けば、妻も子も「我」であり、隣人こそ「他」になる。さらに「グループ」「会社」「国」「民族」「人種」まで広げれば、「自陣営」と「他陣営」となるだろう。国家主義、民族主義、愛国主義などもすべて「我執」の拡大版と言える。
国会の答弁や党首討論を見るたびによく思うのだが、自党の政策の主張より他党への「攻撃」に腐心しているし、「国民のため」「国家の未来のため」の類の発言を政治家たちはよくするが、あくまでも自党の方向性に反しない限りにおいてだろう
コロナ襲来時、「自粛するか、しないか」、「ワクチン接種するか、接種しないか」は基本的に個人の判断事項だった。個人それぞれの「我」の立場で判断していた。しかし、次第に個人からグループへというように陣営が拡大していき、「自粛派」と「反自粛派」、「ワクチン接種派」と「接種反対派」を形成していった。本来は「我」の判断による行動が「我のグループの共通意識」の判断で意見を述べ、共同行動をとって行くようになった。この「我のグループの共通意識」を仏教では「共業」という。
世界中の民族紛争、国家間の戦争も一個人だけではなく、「集団意識」によるものである。同じく、世界の交流、融合、共生共存などの声が上がるのもまた「集団意識」によるものである。
ただし、「集団意識」は結局は個人・個体の「我執」の集合体、あるいは融合調整体である。こう考えると「我執」がこの世を動かしていることになる。
大学教員
(2025.7.20)
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