【コラム】神社の源流を訪ねる92
伊勢の神々② 伊勢神宮と韓神山
伊勢神宮の内宮の近く、伊勢市楠部町に韓神山がある。五十鈴川の澄んだ水が、韓神山に沿うように流れる。韓神山は伊勢神宮と切り離せない大事な役割を果たしているが、朝鮮半島とも大事な関係にあった。
韓国の歴史書、「三国史記」に着目すべき記事がある。新羅の赫居世(かくきょせい)の「始祖廟」は、西暦4年に創設され、487年2月には赫居世王の生誕地の奈乙(なおつ)に「神宮」を創設したとある。
「廟」も「神宮」もともに新羅の祭祀制とかかわりのあることを言っているが、誕生は日本よりも新羅の方が早かったようだ。
韓神山は、高さ30㍍ぐらいの山というより丘に近い。代々神宮の禰宜(内宮と外宮の神官)の墓地だったとされ、大正初めの五十鈴川の氾濫などで壊されたという。その後、元のように戻されたのかは不明だ。
伊勢神宮の祭祀制度が本格的に整備されたのは、7世紀後半(673年)に即位した天武天皇の時代とされる。朝鮮半島は既に新羅が統一しており、祭祀制度も新羅から、最新のものが入ってきていたと言われる。ただ天武朝は壬申の乱で政権を取ったので、祭祀制度をはじめ国内整備も強権的にスピード感をもって進めたようだ。
韓神山は不明なことが多い。神宮の創設の頃から続く禰宜の墓所が、なぜ韓神山と呼ばれるのかまず不思議だ。伊勢神宮の禰宜といえば、内宮は荒木田氏、外宮は度会氏が創設当初から務めている。これも不思議だ。
今は竹林になっている韓神山には小さな社が置かれている。荒木田氏の祖神とされる。さらに行くと、二つの神社の石柱が立っている。石柱の脊には国津御祖神社と大土御祖神社とそれぞれ彫られている。
名称から見るとここでは一番古いもののように思えるが、ともに伊勢神宮の摂社になっている。この二柱が共に御祖神社と呼ばれていることも何か深いいわれがありそうだ。御祖神社が二つあることについては、「祭祀制度を分化したものだ」と説明されているが、ただしそれ以前からあったともいわれ、岡谷公二氏も「原始の神社を求めて」のなかで、しきりに不思議だとしている。
さらに進むと、高麗広(こうらいびろ)と呼ばれる地域に出て、ところどころに民家が点在する。神宮で働いている人々の居住区域である。高麗とは朝鮮半島北部にあった高句麗のことだが、渡来した人々は神宮の山や樹木なども管理し、炭なども作っていたと思われる。この山の中に新羅とか百済など古代朝鮮半島で栄えていた国名がいくつも登場するのも謎だ。
高麗広はさらに五十鈴川沿いに広がっていて、地域の山林は5,500㌶で、うち1700㌶が原生林というから半端ではない。
伊勢神宮では衣食住すべて神宮内の自給自足である。野菜や魚なども専用の施設で朝と夕の二回準備する。神が食事をする茶碗や皿は土師器で作られ、毎日一度使うと壊され土に返される。20年に一度の遷宮は、125社のほぼすべてで行なわれる。多機能の大企業みたいなところがある。
注目されるのは祭祀制度のうち皇女の役割だが、前川明久氏は、「伊勢神宮で皇女は、主に『斎王』としての役割を担っており、 斎王は、天皇に代わって伊勢神宮に仕える未婚の内親王または女王であり、これは新羅と同じで西暦紀元6年に新羅の最初の王である赫居世の祖神廟ができた時、王女の阿老(あろう)がその役を務めている」としている。
伊勢神宮の祭祀制度が最終的に確立したのは天武朝が画期とされるが、「天武天朝は新羅人ではないかとうわさされるほど新羅から影響を受けた」といわれる。
古代に朝鮮半島から来た人を「今来る」と書き「今来」とされた。もっと前に来た人は「古来」「古木」「故木」である。半島南部に伽耶(加羅)国の連合体の一つに安羅(阿羅、安耶)という小国があり、新羅から来た人(新羅来)に「白木」「白城」などの字を当て、荒木姓は安羅から来た「安羅来」「荒木」「荒木田」になったとされる。
この日はさらに40キロ以上宮川の上流にある瀧原宮まで足を延ばした。伊勢市駅からJR紀勢本線の瀧原駅は無人駅である。ここは天照大神が伊勢神宮に入る前に一時、滞在したところという伝承を持っている。
駅から本殿まで続くおよそ200メートルの杉の古木の並木は、なかなか壮観だ。本殿は伊雑宮に似ていて簡素な造りで風格がにじみ出ている。参道のすぐわきを清冽な小川の流れが印象的だった。
(2026.7.20)
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