【コラム】神社の源流を訪ねて(44)

伊奈久比神社(いなくい)

栗原 猛

◆稲作の伝来地、「稲を食う」が「イナクヒ」に   

 上県の西海岸に飛び出した岬は伊奈崎と呼ばれる。伊奈久比神社のある伊奈はこの地方の中心地で、近隣の越高,志多留には縄文時代の貝塚、弥生時代の遺跡などがあり、この一帯には古くから人々が生活していた。 伊奈のすぐ隣の志多留の榎田には、縄文後期の遺跡から石包丁が出土している。これは、中国や朝鮮で半月形石刀と呼ばれる稲の穂を摘むために使われた農具で、中国の揚子江下流域から山東半島、さらに南朝鮮を経て畿内まで分布していることが確認されている。
 対馬は面積の89%が山地なので、わずかな田で稲作が行われていたのである。ただ対馬では穀物神のお稲荷さんは見かけなかった。お稲荷さんの神獣のキツネもいないそうだ。
 伊奈久比神社の歴史を感じさせる緩やかな石組みの階段を上りきると、本殿にアルミサッシのガラス戸がはめてあるので一瞬、戸惑ったが、神とともに生きた人々の生活感実感がこもっているように感じられた。祭神は穀神の大歳神(おおどし)で、朝鮮半島から最初の稲の伝来地とされる。                    

 社伝には「上古、八幡尊神を伊豆山に祭る時、大空に奇しき声あり。白鶴稲穂を銜(くわ)え来り、これを沢の邊に落し、たちまち大歳神となる。その霊を祭りて稲作神となし、田を開きて落穂を植え、神饌を得てこれを祭る。これ本州(対洲・対馬)稲作の始めにして、伊奈の地名は稲に由来す。古は大伊奈といふ。其の稲を落せし所を穂流川といひ、古跡今に存す」とある。「式内社調査報告」もほぼ同じ記述である。
 この故事によっても稲作の伝来地であることがうかがえるが、白鳥の古名は「鵠(くぐい)と呼ばれる。したがって稲鵠(いねくぐい)が、伊奈久比だとすると、稲を運んだのは白鶴ではなく白鳥ということになる。 古代史家の永留久恵氏は、伊奈久比について、定まった解釈はないが、伊奈は稲で、クヒは収穫した稲穂を献じてそれを食する「喰い」のこととされる。当然、新嘗の儀式まども行われていただろう。稲作や弥生文化の源を考える重要な手掛かりになるのではないか。この弥生遺跡に近い大将軍山古墳からは、中国後漢時代の鏡や朝鮮の土器も発見されている。すでに大陸との交流があったことがうかがえる。少し先の坂を越えると志多留でこの地名は、「(水が)したたる」から来ていると言われ、近くには「鶴鳴橋」「穂流川」「垂穂橋」など稲作とかかわりのある名前も集中している。 近くに志多留能理刀神社、伊奈久比神社に奉納する赤米を作る斎田もあり、伊奈よりも志多留の方が稲作の伝来地ではないかともわれた。               

◆以上

(2022.7.20)
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