【コラム】神社の源流を訪ねて(82)
伽耶
◆大規模な渡来は4段階
朝鮮半島から日本列島への渡来の波は、4段階あったと上田正昭氏は分析する。
第1段階はBC200年頃の弥生前期、下関の土井ヶ浜遺跡から300体を超える人骨が発掘された。背が高く縄文人とは別の民族で、朝鮮半島の北部、中国東北部からの渡来とされる。
第2段階は5世紀前後の応神・仁徳天皇の時代。半島や中国との交流が盛んになり、大勢力の漢氏と秦氏の渡来は、この時代の少し前になるらしい。第3段階は5世紀後半から6世紀初頭で、技術者や仏教関係者が大勢渡来、列島の文化、技術が一気に向上したとされる。第4段階は7世紀後半。百済と高句麗が相次いで滅び、新羅が朝鮮半島を統一すると、またさまざまな人々が新天地を求めてやってきた。
「続日本紀」には、そのころ大和政権の首都、飛鳥の高市郡について、「漢人ばかり。それ以外は1~2割」とある。吉備郡史には「大和は事実上漢人の国、山城は事実上秦の国」とある。702年に作られた豊前国(福岡県・大分県の一部)の戸籍帳の一部が残っていてそれによると、住人の85%が秦氏とその係累だった。正倉院文書によれば、「賀夜郡」一帯の住民の大半は帰化人の子孫なりと、ある。
日本の戸籍制度は、6世紀半ばに始まったが、渡来人の把握が狙いとされた。ではどのくらいの人が渡って来たのか。国立民俗博物館の小山修二氏の人口を推計した結果によると、縄文晩期の人口は約7万6000人。弥生時代は60万人。古墳時代は540万人。その人口データを基に、国際高等研究所の埴原和郎氏が渡来人の数を推測した。
世界レベルの人口増加率は紀元元年から1600年頃にかけては0・04%程度だったとされ、そのデータに対し、縄文晩期から弥生時代の人口は約8倍増。弥生時代から古墳時代は約9倍増で、この間を1000年の時間差とすると年間の増加率は0・4%以上と試算され、稲作普及など食料増産による人口影響をまったく超える数値だという。
この異常に高い人口増加率を考えると、かなり多くの人が海外からやってきたと考えなければならない。朝鮮半島や大陸(あるいは東南アジア)からやって来た人々が長い年月をかけて列島に集まり、混じり合って、これだけの数の日本人になったと言えるのではないか―としている。
日本は資源、技術、知識などの分野で渡来した人々に依存した。特に農業関係では鍬や鎌、のこぎり、かんな、ハサミなど鉄製品は素材も加工技術も当初は、朝鮮半島からの移入だった。実際に農業の真似事をやってみたが、鍬や鎌、のこぎりやハサミ、スコップなどの鉄製品でもどれか一つでも欠けたら、何もできないことが分かった。
千字文や論語などとともに、道教、亀卜、仏教、暦、儒教などももたらされる。仏教もと百済、高句麗、新羅からそれぞれの仏教が伝えられた。なかでも大事の携えてきたのは生活用具とともに、先祖を祭る祭祀施設である「堂」であったと思われる。先祖を尊ぶことを大事にする半島の人々が先祖を祭る「堂」を故国に残してくるということは考えられないからだ。無事に上陸したら真っ先に報告したことであろう
◆◆◆以上
(2025.8.20)
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