【コラム】神社の源流を訪ねて(80)
伽耶大の天孫降臨の地
◆加耶、伽耶、加羅、嫁洛、加悦、榧…
九州の古社を訪ねていると神社名もそうだが、地名にも「カヤ」「アラ」など似た呼び名が目立つのが気になった。朝鮮半島ではよく紛争が起きた。争いがあるたびに半島の南端から、多くの人が唐津や北九州に避難し移り住んだ。
そればかりでなく製鉄や灌漑、農業技術、医療などの先進国技術がもたらされた。実は自宅で農業の真似事をやってみて、鍬や鎌、はさみ、カンナ、ノコギリ、トンカチなど、どれか一つないと何もできないことが分かった。須恵器などの焼き物、祭祀技術や、亀卜、薬草、お灸などの医療関係の先端技術も伝えられている。
伽耶の人々はまず九州の糸島半島や唐津などに上陸したようだ。佐賀県の唐津は古い資料を見ると韓津とある。韓に向かう津だった。唐津市栢崎の栢はカヤで、栢と榧はともにカヤとされる。
奇岩で知られる大門の芥屋(けや)は、カヤに通じる。唐津湾に面した糸島半島の西部にある可也山は、400㍍ほどだが秀麗な山である。伽耶には伽耶山がある。伽耶から来た人々は、同じ名前の加也山を拝んで故郷を偲んだのではないか。
平安時代の辞書である「和名類聚抄」は、福岡県志摩郡の韓良郷(からのごう)の地域について、糸島半島の先端としている。万葉集にある停泊地「韓亭(からとまり)」は、このあたりだと言われる。大宰府の近くにある観世音寺の資財帳には、加夜郷が出ている。
加夜は加耶、加羅でもある。遣新羅使、遣隋使、遣唐使などは、現在の福岡市西区宮浦唐泊から出港した。万葉集に出てくる歌に韓亭がある。京都府与謝郡与謝野町加悦(かや)字天神山にある吾野神社の祭神は、我野廼姫命はカヤノヒメノミコトである。
続日本紀にはこんな記録が残っている。福岡県にあった席田(むしろだ)郡の大領子人が、祖先が「加羅国」から渡来したことに由来する姓を申請したところ「加羅造」の氏姓が与えられたとある。新撰姓氏録には、同じ「カラ」でも百済系は「加羅」、新羅系は「貨良」と分けて書くこともあったらしい。
出雲国風土記には、加夜の杜が今は出雲市稗原町の市森神社に合祀されている。祭神の父神は大国主命、母神は隣町の朝山神社の祭神、玉邑比売命だ。夏祭りと秋祭りには市森神社の神楽が奉納される。いずれも出雲市の無形文化財である。岡山県の加夜は後の備中国賀陽(かや)のこととされ、現在の総社市を含めた地域となる。古くは賀夜、加夜、賀陽、賀屋…とも書いた。兵庫県豊岡市に加陽(かや)と呼ばれる字名がある。近くに出石神社があり、祭神、天日矛(あめのひぼこ)は新羅の皇子だ。奈良県北葛城郡広陵町萱野もカヤで、明日香村栢森には、加夜奈留美命神社が祭られている。古事記の開化記に蚊野之別があり、近江国愛知郡蚊野郷、三重県度会郡玉城町蚊野などもある。
奈良、島根両県の後ろを振り向く鹿の埴輪を見て、表情が豊かなのには驚いたが、実は加耶時代の慶尚南道咸南郡の古墳からも同じような姿の鹿の角杯形土器が出土している。「日本書紀」には加羅と書かれ、続日本紀では賀羅とも綴る。中国の「梁書」は、「伽羅」で、「隋書」は「迦羅」が多いとされる。
佐賀県神崎町志波屋(しわや)の王仁博士顕彰公園の裏手に古社の「鰐神社」がある。ここに「王仁天満宮」と書かれた石詞が置かれている。王仁は応神天皇の招きで百済から千字文、論語を日本に伝えたと言われるから、この石詞は王仁博士を祀ったものだろう。
近年、半島南部で倭国独自の前方後円墳の発掘が相次ぎ、倭人勢力説が注目されている。国立民俗博物館教授の仁藤敦史氏は、最近出版した「加耶/任那―古代朝鮮に倭の拠点はあったか」で、古代東アジア史の大きな争点である同地域の実証研究を踏まえて、日本側の支配対象としてではなく、朝鮮古代史の流れの中で加耶を位置づける「百済三書」の史料的価値を評価し、「広開土王碑」は、広開土王の功績を讃えるために倭を強大な敵と描いている。任那の「日本府」はヤマト王権の出先機関ではなく、百済による加耶諸国への侵略に抵抗する勢力の総称ではなかったかと説いている。
◆以上
(2025.7.20)
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