【コラム】神社の源流を訪ねて(82)
伽耶83 人材の来日
◆行基、最澄…
仏教や儒教から受けた影響も計り知れない。仏教は中国の前秦から372年に高句麗に伝わり、百済には384年に東晋から伝わる。新羅はシャーマニズムの時代が長く、高句麗から5世紀に伝わるが公認は527年だ。日本は百済から538年とされる。
660年に百済が亡ぶと、王族や貴族など数千人が日本に亡命した。天智朝廷はすべてを受け入れ、しかるべきポストにつけた。百済と天智朝の尋常でない関係がうかがえるが、日本の仏教文化はここから大きく花開くことになる。
東大寺大仏殿の建設を見ると建物、仏像、金箔など、それぞれの重要な分野で渡来人の活躍が目覚ましい。東大寺のお経は鎮護国家を祈る華厳経だ。国家の安泰が第一だということで新羅から勧められたという。国民という観念はまだなかったのだろう。当時活躍した人を順に見ていこう。
知識人のトップ、日本の大僧正の第一号は行基だ。東大寺の大仏殿建立に活躍した。若い時には「僧は学ぶだけではなく、貧しい人を救うために積極的に社会事業に参加すべきだ」と説いて、各地に貯水池や橋を作り、布施屋と呼ばれる無料宿泊施設も数多く作った。社会事業の大家といわれる人物で、百済の王族の出身だ。行基の師匠、道昭も百済人で、宇治橋は道昭が架けたといわれる。
奈良、京都には見上げるような山門を持つ寺院が多い。大きな寺を建てる技術は、渡来の技術者によってもたらされた。世界一の木造建築の東大寺建設の総指揮者は国中連公麻呂で百済人。その子孫が令和の現在も大阪で、宮大工専門の建設会社を経営している。大仏は鋳造を終えたところで、渡金の黄金が不足した。新羅から協力もあったが、陸奥守だった百済王敬福(きょうふく)が、仙台の山地で砂金を発見し、749(天平21)年に、黄金900両を献上する。慶事に喜んだ朝廷は元号を「天平感宝」に改めた。献上者の敬福は百済最後の義慈王の流れの人物である。
時代は前後するが、708(慶雲4)年に、秩父山地で銅が発見される。発見者は新羅からの渡来人、金上元。朝廷はこの時も年号を「和同」に改めて祝った。
渡来集団でいえば、秦一族と天日槍の2集団の存在も大きい。九州の八幡は秦一族の船が八本の旗を立てて上陸したのが由来とされる。また平安遷都や京都の渡月橋や嵯峨野などを開発した。京都・太秦(うずまさ)は一族の拠点で、酒を祭る松尾神社、商売繁盛の伏見稲荷神社は秦一族の祖を祀っている。聖徳太子を物心両面でバックアップした秦河勝の氏寺、広隆寺の宝冠弥勒菩薩半跏思惟像は、国宝の第1号(1951年)で、新羅の赤松製とされる。
「新撰姓氏録」によると、太秦の、大酒神社の主祭神は、秦始皇帝・弓月君・秦酒公とされ、「日本書紀」によると、372(応神天皇14)年に百済を経由して弓月君が渡来、その翌々年に120県の人を率いて帰化したとある。人数は分らないが相当な数に上るだろう。秦氏は文、農耕、養蚕、機織、銅鉱山、医療、鍛冶など広い分野で最先端技術を数多く伝えた、京都の西陣など養蚕や絹織物の発展にも尽くす。天日槍については、出石神社の項で触れた。役所では日本語で語られていたが、自宅に帰ると百済、高句麗、新羅語が飛び交っていたのではないかとされる。
天台宗の大本山、比叡山延暦寺の開祖、最澄は新羅人である。空海とともに唐に渡ったが、空海は渡来人ではないとされる。日本の女性の僧侶の第一号は聖徳太子時代の僧で貞信尼。百済生まれで、熱心に仏教を学びたがったので、聖徳太子が留学を勧めたと言われる。万葉集で細やかな家庭的な詩を作った山上憶良は、新羅出身の人。同じ万葉歌人の柿本人麻呂は、晩年に山陰の益田の寺で亡くなった。半島と往来する港なので、帰国したかったのではないかといわれる。
これはいったいどういうことなのだろうか。倭国の形成期に、加耶をはじめ半島の人の技術や知識が大きくかかわっているということについては、既に多くの先学が指摘している。この視点は、これからの日本のありようを考えていくうえでも、欠かせないと思われる。以上
(2025.9.20)
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