【コラム】神社の源流を訪ねて(83)

伽耶84 文化の受容

栗原 猛

◆漢字、音楽、暦、地名… 

 漢字や千字文、暦、音楽、陰陽道なども半島から渡来した。埼玉県南部の木材の産地の飯能市は高麗神社のある日高市に近い。東洋比較言語学の中島利一郎は奈良県の「ナラ」は「大きな国」とか「安心して住めるところの意」とされる。奈良県が発行する資料を見ると「ナラ」は朝鮮語の「ミヤコ」とあった。多くの人材が渡来しているので、地名などにも似たものがあるのは当然かもしれない。                      
 実は武蔵の国の名前はその昔、人々の胸をさすような葦が一面に「ムネをサス」ほど茂っていたので「ムサシ」になったと教わった。ところが、ハングル語の辞書をめくっていたら「ムサヒ」について、「安心して住める場所」というのがあった。「ハンナラ」のケースから類推すると武蔵に最初に入った人々は、とっさに安心して住めそうだと感じて「ムサヒ」と叫び、「ムサシ」(武蔵)に転化したのではないかと勝手に想像してみた。
 渡来文化では天文学、干支、陰陽道などがあるが、画期的といわれるのは漢字の伝来だろう。どの文明でも文字は、文化の創造、伝搬など重要な役割を果たしている。王仁(わに)は、第15代応神天皇の時代に百済から、漢字を覚える手本の千字文と論語を伝えた。   
 王仁氏は漢氏の出身とされるが、日本書紀は王仁、古事記は和邇吉師(わにきし)と記している。王仁については中国から百済に渡来した中国人の一族との見方もある。またこの時代に百済から渡来した多くの学者の実績を一人に象徴させる存在だったのではないかとの見方もあるようだ。ただしともかく漢字は日本文化の基本になり、日本で初めての飛鳥文化を花開かせたことから、王仁の生誕地の朝鮮半島南部の慶尚南道霊岩郡と、王仁のお墓のある大阪枚方市では、日韓古代文化交流の恩人として毎年、記念行事が行なわれている。               
 同じころ活躍した渡来人には、弓月君(ゆづきのきみ)、阿知使主(あちのおみ)がいる。弓月君は後に有力な渡来豪族になった秦一族の始祖になったとされる。この秦一族は養蚕や機織り技術をもたらしたばかりでなく、鉄の発掘や生産にも当たっている。各地で開墾事業に取り組み、京都や琵琶湖周辺の干拓事業や産業の基盤整備も進めた。          
 また秦氏の存在をうかがわせる秦野、大秦野、波多野、波田野、畑、羽田野、八田という地名や名字が全国に広がっていることから大きな集団でであったことが知られる。              
 王仁は西文(かわちのふみ)氏の祖となり、後に西文は朝廷の官僚制度の中で重きをおかれた。一方阿知使主を祖とする東漢氏は、手工業や農機具、武器などの生産に携わっている。         
 個人名とかかわりなく、鉄製の農具の渡来の重要さも見逃せない。鉄の農機具が広がるとコメの生産が上がり、食料生産が増え人口も増加している。須恵器は堅く丈夫になり、陶芸や焼き物文化も進んだ。「養蚕」「織物」「建物」なども、渡来人の技術でさらに丈夫で大きなものが作られるようになった。                    
 一方、音楽や舞踊の分野では雅楽という宮廷音楽も、渡来人とは切れない関係にある。伊勢神宮で雅楽を聞かせてもらったことがある。5つのうち4つが朝鮮半島やシルクロードを経て来たもので、日本製は1つだということだった。雅楽にも中国や朝鮮半島の音楽の影響があり、例えば笛、琴、琵琶などは渡来人がもたらしたといわれる。また、舞楽は日本の能や歌舞伎の原型にもなっており、日本文化と東アジア文化の広いつながりをうかがわせる。

◆以上

(2025.10.20)
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