■ 八つ場ダム代替案について 関 良基
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『週刊朝日』(10月16日号)で、八ッ場ダム建設予定地の長野原町長の高山欣
也氏は「建設に賛成の人はいない。でも中止に代替案がない」として、以下のよ
うに語っている。
「(前略)最初はみんな反対でした。それが、国の政策で軟化していく人も出
てきて、最終的には疲れ果ててしまった。(中略)私どもにも闘ってきたメンツ
があります。前原大臣が言うのは、ダム本体がなくなって、コレという具体的な
代替案もない。そこで「何らかの措置をとる」と言われても、信用できますか(
後略)」
1960年代初頭から半世紀にわたってダム問題に揺さぶられ続けてきた地元の人
々の苦悩を代表する発言である。60年代と70年代、ダムに水没する川原湯温泉街
など地元の人々はダム反対を掲げて勇敢に闘ってきた。当時、都市住民の多くは
冷淡であった。
地元の人々はそれでも二世代に渡って闘い続けた。しかし建設省側は地元住民
に対し巧妙な分断工作を仕掛け、ダムを受け入れなければ公共事業をしないとい
う形で兵糧攻めにされ、精神的にも傷つけられ、刀折れ矢は尽き果て、遂には建
設を受け入れざるを得なくなった。地元が移転に同意するという苦渋の決断をし
た後になってから、「水は余っている」とか「税金の無駄」といった都市住民側
の理屈でダムを中止されたら、地元に人々が怒るのは当たり前であろう。
こうした地元の反発を受けて前原誠司国土交通大臣も、八ッ場ダムに代わる代
替案を検討すると述べている。そこで治水と観光に関してダムへの代替案を何点
か提案してみたい。
■利水に関して
利水に関してはゼロ代替案でよいだろう。減少を続ける首都圏の水需要が、今
後反転して増加に転じるとは思えないからである。しかも八ッ場の水は致命的に
飲用には適さない。草津白根山から流れ出る吾妻川の水は強酸性で、上流で一日
53トンもの石灰を投入して中和している。また吾妻川の上流の浅間山麓には高原
野菜の産地として有名な嬬恋村がある。そのキャベツ畑に投じられた肥料も農薬
も、5000頭以上もいる牧場の牛たちの糞尿も八ッ場ダムに必然的に流れ込む。ダ
ムサイトの上流には人口の数十万の都市があるのに匹敵するというくらい大量の
栄養塩類がダム湖に流れこむのである。その豊富な栄養塩類によりダムが完成し
たらダム湖は藻類の大繁殖で青々と濁る。ただでさえ水が余っているのに、この
ような水を飲めというのは正気の沙汰とは思えない。
■治水代替案
国交省が建設の根拠にする1947年のカスリーン台風の大水害は、戦後直後に発
生したものである。戦時中は木材エネルギーへの依存度が高く、大都市に近い利
根川上流域はとくに乱伐が進み、森林の荒廃が著しかった。山林の治水機能が落
ちていた戦後直後に大型台風が襲ったので大水害に至った。戦後に植林が進み、
森林保水力は強化された。今日にカスリーン台風並みの大雨が降ってもあのよう
な水害には至らないことは明らかである。
しかしながら、治水に関する関心の高まりを契機にコンクリート・ダムではな
く、森林や水田の保水機能を高める「緑のダム」方式の治水を代替案として提示
すれば、治水のみならず日本経済の回復と社会の安定のために大いに有用であろ
う。雇用対策になり、さらに間伐材や米粉、飼料米、バイオエタノールなどの供
給力を高める。それらを用いたベンチャービジネスの勃興という供給サイドの「
創造的破壊(シュンペーター)」につながり、景気回復に寄与する。
国交省は、森林の保水機能は計量的に計算できないと主張して、森林を代替案
から退けようとする。実際には森林の保水機能も計量可能であるが、これに関し
ては論議を呼びそうなので、本稿では割愛する。森林による洪水ピーク流量の低
減を科学的に定量化する方法としては、今後の研究の進展に期待したい。もちろ
ん利根川流域の適正間伐と間伐材の有効活用という、「緑のダム整備+温暖化対
策」事業はどんどん進めていかねばならない。
森林以外に、確実に治水容量を計算できる「緑のダム」としては水田がある。
ここでは水田で八ッ場ダムを代替する方法を考えてみよう。耕作放棄された棚田
や減反した水田を必要量だけ復田すればよいのである。
畦の高さを30cmとすれば、豪雨の際に雨水を目いっぱい貯留すると1haで3000
立米の貯水容量が発生する。洪水対策の遊水池を兼ねる棚田ということであれば
、もう少し畦の高さを高くしてもよいだろう。
八ッ場ダムの洪水調整容量は6500万立米である。水田でこれを代替しようとす
ると、6500万/3000=21700(ha)となる。ざっと減反された水田や放棄された
棚田を2万1700haほど復田すれば八ッ場ダムを代替できる。利根川水系の流域面
積は168万haもあるので耕作放棄された棚田や減反地を集めれば2万haはすぐに集
まろう。
この洪水調整用水田(=遊水池)を、地方の建設業者に造成・管理してもらう
のはどうであろうか。畦を高くしながら復田し、それを洪水時の遊水池機能を果
たせるように維持管理する作業も立派な公共事業である。そこで生産されたコメ
は米粉、飼料米、エネルギー米などの用途で用いればよいだろう。地域資源を活
用した地場産業が育成され、食料自給率も向上し、治水のみならず、雇用対策、
景気対策、温暖化対策として大いに役に立つのである。
民主党政権はすべての農地に所得補償制度を導入するので、米粉や飼料米の市
場価格と生産コストの差額分は政府から補填されることになる。しかし条件不利
地である山間の棚田に関しては、洪水調整用の機能を鑑みて、個別の所得補償の
支払いに加え、国土保全費用として別枠の予算を追加で支払うべきであろう。治
水用のダムの維持管理費を支払うのと同じ理屈であるから、その支払いには何の
問題もない。そうすればダムという一過性の公共事業ではなく、建設業界により
永続的な公益的な業務を提供できよう。
もともと地方の建設業界は、兼業農家の働き先として発展してきたので、農業
・林業で再び食べられるようになれば「元のサヤに収まる」ことになる。そのた
めに建設業界が農・林業に参入できるような政策的後押しが必要であろう。
■ダム観光への代替案
さて水田治水の代替プロジェクトは、全利根川流域で実施されることになるの
で、八ッ場ダムの建設予定地に対する補償にはならない。長野原町や東吾妻町の
地元ではどのような事業が必要であろうか。
地元が、吾妻渓谷と温泉街の水没を伴ってでもダム建設を受け入れたのは、建
設省の提示した「ダム観光」の地域振興プランに、かすかな期待をかけたからで
あった。しかし「ダム観光の成功例はない」と言われているとおり、現実的には
期待薄であろう。しかもダム建設によって国指定名勝である吾妻渓谷の自然美の
半分を水没させて台無しにしてしまう。残った渓谷も、ダムの巨大な壁面の下に
細々と残るのみで、惨めな醜態をさらすことになってしまう。ダム湖は嬬恋村か
らの大量の栄養塩類の流入によって植物プランクトンが繁茂し、深緑色に濁る。
建設後の八ッ場ダムを訪れる人々にとって、この地は人間の愚かさを示す記念碑
としての意味を持つことになるであろう。
やはりダムを造らず、吾妻渓谷の自然美と、「美人の湯」としても名高い川原
湯温泉を残した観光策を立案するのが最善の策であろう。そしてプラスαの観光
資源を加えるとしたら、近年の歴史ブームによってますます人気が高まる真田幸
隆・昌幸・幸村の「真田三代」の歴史遺産を活用した「真田観光」であろう。こ
れで十二分に「ダム観光」の代替になるのではないだろうか。
あまり知られていないが、ダム建設予定地の長野原町や東吾妻町の一帯は、戦
国最強軍団として知られる真田一族が拠点とした地であった。ダム建設予定地の
すぐ下流の脇には岩櫃城跡がある。岩櫃城は、歴史ファンなら「知る人ぞ知る」
という天下の名城である。岩櫃城は、武田信玄の命を受けた真田幸隆が攻略し、
息子の真田昌幸に引き継がれた真田の居城であった。かの真田幸村(信繁)も、
この八ツ場ダム予定地周辺の岩櫃城下で青春時代をすごしたのだ。真田家が上田
城を築城して近世大名として自立する以前、戦国真田領の中核的な城が八ッ場ダ
ム予定地周辺の岩櫃城であった。
1582年の武田家滅亡の折には、城主真田昌幸が武田勝頼を岩櫃城に迎え入れ、
織田信長の大軍を相手に籠城戦を試みようとした。しかし勝頼は、真田の岩櫃城
ではなく小山田の岩殿城に向かい、最後には滅亡に至ったのである。池波正太郎
の小説『真田太平記』は、この岩櫃籠城の段から書き始められる。池波は、岩櫃
の城を実地で見聞し、ここに武田勝頼と真田昌幸が籠城すれば、さすがの織田軍
もこれを攻め落とすことはできなかっただろう、したがって武田家は存続したで
あろう、とまで言い切っている。実際、岩櫃城を訪れた人々は池波正太郎の説に
納得するであろう。岩櫃山の大絶壁に守られたその城の威容は圧巻であり、まさ
に難攻不落と呼ぶにふさわしい。
ダム建設サイトには、岩櫃城の支城である丸岩城が存在する。この城は北条、
上杉、武田の三大勢力の狭間で、数奇な歴史に翻弄され、最後は真田の城となっ
た。丸岩城も断崖上に築かれた天然の要害で、岩櫃城に勝るとも劣らぬ威容を誇
る。しかも美しい。いかにも真田の城という威風堂々とした姿で、渓谷からそび
え立っている。この城と渓谷の周辺で真田の忍びは修行したのかと思うと、「そ
りゃ強いわけだ」と納得できる。この丸岩城の山麓はダム湖に沈み、丸岩城はダ
ム湖から突き出たような景観となろう。渓谷からそびえ立った威風堂々とした城
郭の景観と、真田忍者の歴史ロマンはその姿を消すのである。
長野原町には、この丸岩城の他にも、長野原城、羽根尾城といったいずれも真
田関係の史跡がある。そして隣の東吾妻町には天下無双の名城である岩櫃城の大
城郭が存在する。
これらの城郭に可能な範囲で櫓や塀などを復元し、山城の近くには戦国時代の
村の様子を再現した民家群もつくり、時代劇の合戦シーンのロケ地としても使え
る「戦国村」として整備することを提案したい。もちろん旧来の山城の遺構を傷
つけないように細心の注意を払っての上で。八ッ場ダムなどよりもよほど人を呼
べる観光資源になるであろう。
時代劇のロケが可能な山城というのは全国にほとんどない。中世の山城の建物
は現存していないからである。多くのテレビドラマや映画では、戦国時代の合戦
シーンを近世の城郭で撮影しているが、あれは時代考証的には誤りである。戦国
時代の山岳城郭には漆喰の白壁の高層櫓など存在しないからである。
戦国屈指の名城として知られる難攻不落の岩櫃城の地において、中世風の塀と
櫓や兵舎を再健し、戦国村として整備すれば、首都圏から近いという地理的メリ
ットもあり、多くの映画やテレビドラマのロケ地となることであろう。
今後、真田幸隆・昌幸・幸村の真田三代のいずれかを主人公とするドラマや映
画が作られることもあるであろう。その時、幸隆・昌幸が実際に活躍した岩櫃や
吾妻渓谷の地で、450年の時を超えて当時の城郭を再現した上でロケを行うので
ある。臨場感あふれ、感涙もののドラマに仕上がることは確実である。そうなれ
ば、その映像を観て感動した人々が自然と観光客として訪れることになる。
もちろん吾妻の地に「戦国村」が整備されれば、「真田モノ」以外にも、あら
ゆる戦国モノのロケ地として使えます。東京から近いという地理的メリットもあ
り、映画のロケ地として、観光地として、長野原町や東吾妻町は大いに潤うこと
であろう。
上田から鳥居峠を越え、嬬恋村から吾妻街道を通って、沼田へ抜ける道は戦国
・真田領を横断する「真田街道」といえる。菅平高原、四阿山、浅間山、草津白
根山、榛名山、尾瀬ヶ原・・・・戦国真田領は、利根川と信濃川という日本で一
位と二位の大河川の上流域に位置し、数々の名峰と温泉に囲まれている。真田領
を横断する街道は歴史と自然と情緒にあふれ、ドイツのロマンティック街道に匹
敵する美しい自然景観を持っているということで、現在「日本ロマンチック街道
」と命名されて整備されている。そのロマンチック街道の中核に位置するのが吾
妻の地である。この風光明媚な地に、治水上も利水上も無用な醜悪なダムを建設
してはならない。
ロマンチック街道を利用した真田史跡ツアーを組めば、川原湯温泉で一泊とい
うことになるであろう。その意味でも、この地に「戦国村」を整備する効果は大
きいであろう。
(筆者は拓殖大学政経学部助教)
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