【歴史的転換期としてのポスト・コロナを考える】

前途不透明の閉塞状態から抜け出す転機の芽は生まれているか

初岡 昌一郎

 年末にアメリカ人研究者の書いたゴルバチョフ伝記を読んでいると、そのシニカルな批判が今目撃している政治状況の将来を彷彿とさせるような小話に出会った。小論の口火としてそれをまず紹介したい。

 ブレジネフ政権とそれ以後、会議や公の場の演説・発言・インタビューで原稿を読み上げる指導者の姿に、ロシア人は慣れ切っていた。ところが改革派のゴルバチョフが颯爽と登場し、原稿なしで演説を始めたのを見た国民は「今度の大統領は字が読めないのだ」と呟いたという。現在、まさに「読み上げない指導者」が必要とされている状況下に我々もある。

 複雑な現在の状況ではいかなる指導者もあらゆる主要課題を詳細具体的に把握することはできないので、ブレーンや側近に依存する度合いが高まらざるをえない。しかし、政治の根幹にかかわる問題や基本的な政策を自分の言葉で語る能力なしに、民主主義国家の指導者が務まる国があるのは誠に不思議というほかない。現代政治の複雑かつ広範な課題に対応するには、助言者や官僚の補佐がいるのは当たり前。だが、どのようなブレーンやスピーチライターを選ぶかは指導者の見識次第だし、指導性とは専門的アドバイスを自家薬籠中の物にするその能力に宿るもので、助言を繰り返す拡声器的能力は指導者の資質の一つではない。

 それに関連して、もう一つの欧米小話を思い出す。
 ひとりの男が街灯の下で懸命に探し物をしていた。そこに通りかかった人が親切にも一緒に探し回ったが見つからない。そこで「ここで本当にカギを落としたのですか」と尋ねたところ、「どこで落としたかわからないが、ここだけが明るく探しやすいので」と答えた。

 官僚、ブレーン、側近は難問に対する回答を求められると、英知を集めて熟考する余裕がない場合、自分の知見の範囲内で、とりあえず回答を作成することになる。そのような促成の出来合い回答さえ見つけられない場合、繰り返されるのが「適切に対処する」という無意味な逃げ口上だ。それを切り札のように繰り返すような首相が続くようでは、将来が迷子となるのは当然だ。安倍長期政権によって質的に劣化した政治の延長上にある現政権は、コロナ危機下にある市民の将来への不安感を増幅させている。

 世界的な危機状況が深化し、地球環境や人類の将来が不透明となっているときに、目先のことだけにとらわれる指導者が世界的に増えていること自体が危機の深刻さを示している。危機の時代にそこから脱出して新しい地平を模索、提起するのは、これまで官僚や知識人の役割と見られていた。それを具体的に現実化するためにあらゆる力を動員するのが政治家の役割であった。そのいずれの役割もいまは混迷している。それだけに、先の闇が深いように映る。

 今日の導者はこれまでのように少数の側近的なブレーンや身近な助言者に依拠していては、複雑かつ大きく変化しつつある状況に効果的に対応し、創造的な道を切り開く叡智は結集できない。広い視野から国民の声に耳を傾け、時代の要請にこたえる形でそれを汲み上げる開かれたチャンネルを持ち、国会やそれを支える諸機関で議論を進めるべきだ。

 ほとんどの人は、現状から抜け出るための包括的な解決策は持っていないかもしれないが、生まれている変化を認知し、それらに対する対応策を考える力は持っている。コロナ禍の中で生じている諸変化の中から、現状をより好ましい方向に転換させる論議の契機となりうるものを、私なりの観点からいくつか拾い上げてみたい。もとより、自分の視野内にあるいくつかの主要な契機の例示にすぎず、課題のカタログ化を試みるものではない。    

1.「可処分(自由)時間の増加」 我々が現役であった20世紀後半期に比較すると、世界の趨勢に押されて一人当たりの年間総労働時間はすでにかなり減っているが、コロナ禍はこれに拍車をかけている。その中には失業者増や労働者の意に反した労働時間削減も含まれて入るので、手放しで歓迎しているのではない。その上に、一般的な給与生活者の所得は停滞し、少なくとも配分上では後退を重ねており、将来において所得が全般的に向上する見通しは暗い。そうなると、生活の維持・向上はモノやサービスを購買する可能性に頼る度合いが減り、自分自身の生活上の能力・工夫にもっと頼ることになる。

 すでに家庭での調理、修理やリユースとリサイクル、シェアリングなどが広がっている。使い捨て用品よりも持続性耐久性のある商品が重用される。この傾向は現行の計算法によるGDPの増加には寄与しない。商品市場を通さない自力での調達や解決はGDPには加算されないのだから。しかし、生活の質は自助努力で改善されうる。商品の購入による消費拡大はスローダウンし、これまでの経済指標による経済成長主義は挫折せざるを得ないので、脱GDP拡大主義に代わる「自力更生」傾向がすすむ。

2.「時間の余裕による人生活性化の可能性」 今のところは、行動の自由が制限されている巣ごもり期間では、ゲームなど家庭内エンターテインメントに費消される時間の増加に回る傾向が顕著だが、本来、時間的な余裕は新しい生活様式と能力作りに向けられうる。ポストコロナの時代には、自由な時間が自分の能力開発とともに地域活動、ボランティア活動、市民運動などの活性化に役立つ。ポストコロナ時代の社会動向はこの可処分時間の行方によって大きく左右されるだろう。

 懸念される点は、コロナ禍の長期化によって、自由時間が個人的に巣ごもり状態の中で費消され、仲間との議論や共同作業、協力の作風が薄れることだ。これは民主主義の成熟に資するものではなく、批判精神を後退させることになりかねないのは心配だ。

3.「大都市への人口集中と地方の衰退」の弊害が浮き彫りにされてきた。コロナのような伝染病だけではなく、地震などの自然災害に最も弱いのが人口密集の大都市である。このような潜在的な危険を避け、より良い環境や広い居住スペースを求めて、地方に移住する機運が高まってきた。昨年は東京などいくつかの大都市で初めて人口流出が流入を上回った。

 これが本格化するには、上からの掛け声による意識改革や個人レベルのイニシャティブに頼るだけでは不十分で、政策の転換による分散定住を促進推進する社会経済政策が必要だ。地方暮らしの公共サービス入手上の不便と不利を解消することが決め手の一つだろう。地方暮らしの魅力は次第に大きくなっているので、通信、交通、流通などのインフラを地方誘導型に整備することが、生活スタイルの均質化と地方生活の魅力を高める。中央省庁行政の地方分権促進と産業の都市集中抑制と地方分散化も不可欠だ。

4.「自然環境との共生」 都市への人口集中は「治山治水」の原理に逆行し、国土の荒廃と歴史的景観破壊を進行させてきた。都市への人口集中解消は環境政策上も不可欠である。温暖化阻止という全世界的な趨勢に後押しされ、日本政府も化石燃料依存から再生可能な自然エネルギーに転換する方向に舵を切り替えようとしている。
 自然エネルギー利用拡大は地方的にエネルギー源を分散させ、供給の安定化に貢献する。この方向性は歓迎できるが、炭酸ガスを排出しないクリーンエネルギーの中に原子力発電を依然として含めようと現政府が企てていることを看過できない。原子力発電維持に固執することはエネルギー上の利点(これは完全に失われた)からではなく、核兵器の開発という隠された軍事上の動機に根差している。

 さらに歴代政権の悪政は、頻発した河川崩壊による洪水防止のために、国土強靭化という名分によってコンクリート化に重点置いた土木政策を主柱としてきた。不要だけではなく、国土破壊を進めてきた公共事業には、ゼネコンと政治家の癒着が背後にある。治山治水の基本は山林の保護育成と国土の緑化にあり、それは大気汚染と温暖化阻止の重要な柱でもある。

5.「最先端技術より適正技術の活用」 コロナ禍の初期にドラマティックに露呈したのは高度先進医療技術の不在ではなく、感染拡大阻止策に基礎的に必要なマスクの不足であり、そのローテク製品を迅速に供給する技術を生産に生かす能力の決定的な不在であった。医療の高度先進技術化には膨大な資源が投入されてきたはずだが、最上かつ有効なコロナ対策として、マスクの着用のほかは、外出自粛と人との接触回避という、感染病対策上の歴史的経験に主として頼らざるを得なかった。

 現在、最大限の資源が投入されつつある先進的技術分野は情報化や高度人工知能開発であるが、このような最新技術が果たして期待通りの明るい未来を人類にもたらすのかとの疑問も湧く。これら技術開発が一部企業やエリート層に膨大な所得をもたらすことは間違いないが、多数の人に雇用機会や生活の向上と幸福をもたらすか疑問だ。むしろ、所得や教育機会の格差拡大による社会的分断を深めることを懸念せざるを得ない。

 高度成長期に推進された石油依存の先進科学技術によるコンビナートや量産技術が大規模自然破壊と公害を生み、夢の先進技術とされた原子力開発が悪夢を生んだ歴史を教訓とすべきである。鳴り物入りで開発された新薬が激しい否定的な副作用を伴う危険も大きなように、劇的な効果を期待されている新技術も、往々にして社会的に許容できない副作用を伴いがちである。正体が良くわからない先進技術をナイーブかつ拙速に受容し、のちに救済できない被害に苦しむような事態を回避しなければならない。

 専門家だけの技術的な判断を社会的にチェックできないままに盲信してはならない。最も肝心なことは人々がその内容を理解でき、その安全性に納得でき、市民が制御しうる適正技術の採用・普及を図ることではないだろうか。先進技術に対する過度の期待と依存は、技術のブラックホール化と専門家への過度の依存、さらには専門家による脱民主的管理とそれを通じた支配を招きかねない。

6.「人間重視の資源配分」 医療崩壊危機で最も深刻な兆候は、看護労働に対する過度のしわ寄せと看護師の不足から生まれている。コロナ罹病という身の危険と過重な負担から生活を守ろうとする看護師が、集団的に離職する動きは軽々に見逃せない。幼児や幼稚園児の保育、それに看護や高齢者介護などの、人間の生育時と終末期において社会的に不可欠な仕事が、報酬の低い長時間労働とキャリアの展望が低い雇用形態によって担われてよいものではない。

 そして、人々の基礎的な生活に必要な財やサービス(ベーシック・ヒューマン・ニーズ)を提供している人よりも、IT産業やエンターテインメントとスポーツなどの業界で働く人が、所得面や社会的にはるかに優遇されるのはノーマルで公正な社会だろうか。企業幹部や一部専門職の収入が低成長下でも不均等な増加を続けていることは、すでに顕著な所得格差と社会的な分断を広げて、不平等を最早許容できないレベルにまで拡大している。これは社会的経済的に不公正であるだけでなく、長期的にみて社会的政治的な不安定を生まずにはおかない。

7.「市民社会と民主主義」 コロナ下で会議や会合が制約されていることが代議制度の力と役割をさらに低下させ、行政機関が事実上単独の意思決定機関と化しつつある。そのような意思決定は衆議を経たものではなく、一部の専門家と政権担当者の判断によって根本的に左右されている。これは、スピーディな決定や「科学的知見」の必要性によってある程度は正当化される。しかし、仮に事後的であったとしても、そのような便宜的な決定はすべて民主的な監査とチェックを受けなければならない。行政や専門家に基本的な決定権を無限定に委任することは民主主義の否定となる。

 あらゆる集会や会議が制限され、物事を熟議する機会がなくなり、人々の社会生活と精神の孤立が進行すると、社会的政治的な自発的活動が衰微し、人々の連帯感とそれに基づくボランティア活動やNGO/NPOなどの自主的な組織の運営と活動が阻害される。つまり、市民社会の弱体化を招く。

 情報伝達のスピード化は意思決定の迅速化に貢献するように見えるが、半面で迅速化は熟議の機会を失わせ、拙速な決定を促す危険と、民主的プロセスを無視するリスクを伴う。SNS等による情報のデジタル伝達に過度に頼ることは、その手段が編集機能と事実検証責任を伴っていないだけに、フェイクニュースの拡散や偏見と差別を助長し、無用な社会的対立と混乱の危険を生むことになり、民主的プロセスを疎外しかねない。

8.「望ましい未来のビジョン」
 A.使い捨て大量消費を推進するGDP拡大志向型経済は行き詰まり、資源と環境を尊重する経済の長期低成長がニューノーマルとなる。多くの場合、巨額の財政支出の目的と手段が間違っていることがすでに批判を浴びている。ピントの狂った経済予測(期待)に依存した放漫財政と巨額債務負担を将来世代に転嫁する無責任政治から決別し、環境重視・省資源型の経済生活と人間の多面的な能力を生かした生活の質的向上を目指す。創造的な人材育成を怠っている、入試対策偏重の競争型詰め込み教育を抜本的に改革し、人間性と多面的な能力伸長を重視しする教育に重点を移す。

 B.社会的経済的な分断と格差を解消するために、税制と財政、社会保障、教育を改革・再編成する。また、積極的な労働市場政策と分権的自治の拡大を進める。最低所得ライン以下の層をなくするために社会的セーフティネットを確立し、貧困の根絶を優先的課題とする。

 C.衣食住と医療などの基礎的なニーズを安定的継続的に確保するために、産業政策、農業政策、社会政策をみなおし、資源配分上で環境と農林業を傾斜的に重視する。教育と訓練、行政組織と人財配置などを、将来的に予想されうる危機を想定して、点検再編の上、拡充する。現代における安全保障の柱は、領土と国家を守る軍事的安全保障ではなく、社会的経済的政治的な人間安全保障に他ならない。

 D.経済的技術的開発力、生産性、GDP等の経済指標で明白となっているように、著しい経済地盤沈下と人口減(地球的な人口抑制の必要から見ると悲しむべきことではない)による国力低下が進行してきたことから見て、日本が“疑似”大国の座からさえも滑り落ちている現状を認識すべきだ。大国的日本主義的虚栄・虚飾を捨て、すべての国、特に近隣諸国との平和的善隣関係の構築を目的とする外交に転換し、それによって世界の安定と調和、さらには地球的共生と環境保全に貢献する。軍備と国益重視的対外援助を縮小し、草の根的人間安全保障型国際協力を推進する。

 E.政治的民主主義を擁護・発展させるためにも、社会的民主主義(人権の確立、教育と雇用の機会平等と格差解消、社会保障)と経済的民主主義(労働者の権利と参加、民主的な経済管理と経営監督、公正な分配と再分配、経済的セーフティネット)の充実を図る。

<結びに代えて>
 いかなる変化や改革も無から有を生むことはできない。未来は現在の中にすでに芽としてその姿を現している。どのような未来を選択するかは、価値観と選択の意思決定に左右されるので、「客観的に予測可能な未来」などは存在しない。人々の価値観と意思が好ましい未来の芽を見つけ、いかに育てるかを決める。

 現状の社会と世界の延長線上から楽観的な未来を展望することはできない。しかしながら、平和的で環境重視の協調的世界、格差と分断を最小化する社会、安定的な雇用・仕事の確保と労働時間の短縮による生活の質向上という、好ましい将来のビジョンから能動的意欲的に見れば、世界と日本の将来を必ずしも悲観視するにおよばない。むしろ、高レベルの経済的技術発展を国家主義的な覇権の追及や軍備の拡大に利用せず、世界的な視点から人間生活の向上に役立てることによって、希望の持ちうる未来の展望を拓くことができると確信している。ドイツの哲学者ワルター・ベンヤミンが指摘しているように「正しい答えを得る唯一の方法は、事前に視点を定めることである」

 (姫路独協大学名誉教授、元国際郵便電信電話労連東京事務所長)

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