【コラム】槿と桜(98)

半地下住居

延 恩株

 韓国で半地下住居は、「반지하」(パンジハ)と言います。
 2020年の第92回アカデミー賞(作品賞・監督賞・脚本賞・長編国際映画賞の4冠)を受賞した『パラサイト 半地下の家族』で国外でも知られるようになった韓国の住居様式の一つです。
 このような半地下の部屋が作られたのは、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のゲリラ部隊が朴正煕(박정희 パク・チョンヒ)韓国大統領(当時)の暗殺を企て、1968年に大統領官邸を襲撃する事件が起き、さらに北朝鮮工作員が韓国に侵入する事件が相次いだからでした。
 韓国と北朝鮮は朝鮮戦争(1950年6月25日〜1953年7月27日)で休戦協定が成立しましたが、現在でも休戦中というだけで、戦争が完全に終結しているわけではありません。
 ですから、つい先日の2022年11月2日に北朝鮮が日本海(韓国では「동해 東海 トンヘ」と呼ぶ)に向けて弾道ミサイルを発射しました。その1発が南北境界線とされる北方限界線(NLL Northern Limit Line)を越え、慶尚北道(경상북도 キョンサンブッㇰト けいしょうほくどう)の鬱陵島(울릉도 ウㇽルンド うつりょうとう)の方向に飛んだため、鬱陵郡全域に空襲警報が発令され、住民たちが地下施設などに避難する事態になっても不思議ではないのです。

 こうした北朝鮮との政治的、軍事的緊張関係が現在よりもさらに厳しかったため、1970年の建築基準法改定で、家を新築する際には防空壕として地下室を作ることが義務づけられました。個人の住宅に防空壕を作らなければならなかったことが韓国と北朝鮮との緊張関係をよく示していました。いつ戦争状態になるかわからなかっただけに、他人に貸すことは禁じられていました。
 韓国でこうした形式の住居が法律を定めてまで作られたのは、首都防衛という目的のほかに、ソウルという都市が山や丘が多く、起伏に富んだ地形で、坂道が多い土地だからです。そのため住宅を建設する際に斜面に建てる場合もあって、家の一部が地面より下になってしまい、結果的に半地下住居が生まれがちになっていました。当時の政府がこうした特殊な住宅立地事情を利用したという一面もあると思います

 ところが、その1970年代に世界の冷戦構造に変化が生まれ、緊張緩和(デタント)が進みました。一方韓国では、当時の朴正煕韓国大統領によって「漢江の奇跡」と呼ばれるようになる1960年代後半からの経済的発展が始まりました。その結果、工業化が進み、産業構造の変化に伴って人びとの都市への集中現象が激しくなっていきました。
 特にソウルでは深刻な住宅不足に陥って、防空壕として作った半地下室を1980年代に住居として貸し出しても良いことになりました。

 この半地下住居は本来、防空壕ですから日常生活ではあまり利用されていない空間で、住居空間としては健康的で、住み心地が良いとは言えません。
 実際、多くの場合、窓は地面の高さと同じ位置に1カ所だけで、目の高さほどの所になります。そのため採光が悪く、薄暗いうえに、風通しも悪く、湿気でカビが発生しやすくなります。さらに大雨での浸水の危険性もあります。
 こうした理由から、賃貸物件としての部屋代も安く貸し出されるようになりました。

 住居環境が悪いにもかかわらず、それでも半地下住居の利用者が減らないのは、韓国での賃貸住居に関わる契約上の特殊事情と大いに関係しています。賃貸住居は「전세」(チョンセ 傅貰)、あるいは「월세」(ウオㇽセ 月貰)という入居形式があり、いずれも保証金が必要です。「チョンセ」の場合はソウル市内であれば安くても5000万円前後の保証金(月額賃料は支払う必要なく、退去時に戻る)が、「ウオㇽセ」は「チョンセ」に比べると、保証金はかなり安くなるのですが、月額賃料を支払う必要があります。このように一般的な賃貸物件に住もうとすると、かなりまとまった資金がなければならないため、低所得の人びとには借りたくても借りられない物件になっています。
 一方、半地下住居でも保証金を支払うケースが増えてきて(ない場合もあります)、最近では300万円前後(退去時に戻る)で、家賃は4万円程度です。この金額でも苦しい低所得者の人びとも少なくありませんが、一般の賃貸物件に比べるとずっと安くなります。

 統計庁の人口住宅総調査によりますと、2020年度の全国の地下・半地下住居は32万7千余世帯で、ソウルには半数を超える20万1千弱世帯が半地下住居で生活しているとのことです。同じく統計庁発表によりますが、2020年度のソウルの世帯数がおよそ395万ですから、約5.1%が半地下住居生活者になります。
 さらに、国土研究院がまとめた2021年度の「地下住居現状分析および住居支援政策課題」では、首都圏の地下・半地下住居に住む世帯の月額平均所得は182万ウォン(日本円で約19万円)となっていて、マンションなどの賃借世帯の月額平均所得351万ウォン(日本円で約36万円)のほぼ半額程度になっていました。一戸建ての自己住居を持つ人びとの所得がさらに高額であることは容易に想像できます。
 このように韓国では、半地下住居に住む人びと=低所得者という共通認識があると言っていいでしょう。

 ところで、2022年8月8日から翌日にかけてソウルを中心とした地域が、過去最大級とも言われる大雨に見舞われました。ソウルや京畿道(경기도 キョンギド けいきどう)、江原道(강원도 カンウォンド こうげんどう)で14人が死亡し、そのうちソウルの半地下住居に住んでいた障害者など4人が浸水した部屋から逃げられずに亡くなりました。
 こうした不幸な出来事は以前から予想されていて、2012年にすでに「常習浸水区域内の地下層は審議を経て建築不許可可能」とする法改正(建築法第11条)が行われていました。しかし、この法改正では「制限できる」で、「禁止」ではありませんでしたから、総数的には半地下住居は減少しながら、一方で新たな建築も許可されてきていました。
 今回の大雨での大きな被害から、ソウル市当局は8月10日に半地下住宅建設許可を中止し、既存の物件に対しても段階的に廃止する方針を打ち出しました。
 こうした方針が出されたのは当然でしょう。しかし、問題はここからです。半地下住居に住んでいる人をどこへ,どのように転居させるのかという行政側の政策が問われるからです。たとえば、行政側が公共賃貸住宅への移住を決めても、半地下住居で生活していた人びとが誰もが移れるとは限りません。行政側が移住に際してさまざまな支援をするとしても、それには限界があり、結局、移住する側が自己負担しなければならない資金が必要になってくるからです。
 行政側が巨額の支出を覚悟して、無料で半地下住居生活者のための公共住宅を用意し、移転させ、さらに賃貸料も低賃料としないかぎり、こうした人びとは結局、身動きできないのではないでしょうか。
 一方、韓国では富裕層による不動産投資が盛んに行なわれ、投機目的で不動産を購入する人が多く、そのため不動産価格が高騰しているのも大きな問題です。富める者はますます富み、貧しいものはますます貧しくなるという格差社会を生み出す要因の一つになっています。文在寅(문재인 ムン・ジェイン)大統領時代の不動産価格抑制政策の失敗という負の遺産の解消も総合的、抜本的な取り組みをしない限り、そう簡単に解決できそうにもありません。
 ソウル市内に新たな土地を求め、そこに転居用の集合公共住宅を建設するだけでも、これまで以上の高額の資金が必要になるはずです。
 
 しかし、自然災害はいつ起きるかわかりません。半地下住居での大雨による不幸なできごとを二度と起こさないためには、一刻も早く、有効な施策に着手しなければならいことは誰もがわかっているはずです。
 もはやソウル市だけに任せるのではなく、国が不動産価格の抑制に断固とした姿勢で臨み、半地下住居者の転居にも反対意見を押し切る施策を取らなければならない時に至っていると思います。尹(윤 ユン)大統領は半地下住居者が移住しやすいように、銀行が低利で転居資金を貸し出すように指示を出しました。一つの施策としてはあり得ますが、もっと強力な次の一手も出して欲しいところです。いずれにしましても、困窮生活者(弱者)の命軽視、弱者切り捨てと見られない施策を願うばかりです。
 しかし、すべてを政府に押しつければいいわけではありません。韓国人一人ひとりが自分の問題として捉えなければならないと思います。国家予算を特別に割いても半地下住居者を移転させる施策を社会全体で受け入れ、それを支持し、解決に向けて協力していかなければならないでしょう。

 韓国人には伝統的に困っている人を周囲の者が手を差し伸べたり、お互いに助け合って生きる互助の精神が根づいています。今、まさにこの互助の精神が求められているのだと思います。それは、半地下住居に住んでいる人びとだけでなく、貧しい生活を強いられている人びとすべてに対してであることは言うまでもありません。
 
大妻女子大学准教授

(2022.11.20)
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