≪連載≫落穂拾記(37)

和紙・紙漉きの時代

羽原 清雅


 いまでこそ和紙作りは、趣味的な利用などに限定されている。しかし、西洋紙が一般的になる前には、和紙製造は大切な産業のひとつであったし、楮(こうぞ)や三椏(みつまた)の栽培に始まって、紙漉きを経て完成に至る作業はかなり厳しい仕事だった。

 筆者の知る島根県津和野町には今も、ひとつの工場がささやかに稼働しているが、かつての江戸時代から大正期までは「石見半紙」「石州半紙」などと呼ばれて、コメよりも大切なほどの収入源だった。そんなことを調べるうちに、たまたま岐阜県の和紙製造について書かれた、印象的な本にぶつかった。岐阜県もまた、平地が少なく、山村部では「美濃紙」など和紙作りがさかんな地であった。

 その本は終戦直後の1946(昭和26)年10月に刊行された「岐阜県手漉紙沿革史」。
 著者は岐阜県出身の森義一(1890‐1970)。岐阜県史の編纂などに関わった郷土史家で、広範で大量の古文書類を収集、後世に残していることがわかった。戦前、新聞記者から農民運動に入り、岐阜市議を経るなかで、本格的に郷土史の道に進んだようだ。データをよく集め、現場の実態を踏まえた貴重な資料、と言えるだろう。

 今日と比較しても、あまり意味もなさそうなので、<へぇー>と思ったあたりを紹介したい。

●「養女奴隷」

 岐阜県牧谷(現美濃市)は、抄紙の産地として有名だったが、昔から養女名義の奴隷制度があった。しかも、明治大正を経て、戦前の昭和まで続いていた、という。この地方には「揺籃児(いづみご)が絶へると紙漉きが絶へる」という諺があったという。
 もともと紙漉きの主力は女性で、男の子は家の相続人で、紙漉きには役に立たない。養女が相続のためなら、一人だけでいいのだが、ふたりも三人も養い、年ごろになって縁談があってもなかなか嫁がせない。「要するに養女と云ふも紙漉労働力の確保手段なのである」。「育ての親子と云ふ義理の柵に依って縛り、永年に亘り無賃労働させる仕組」とする。

 このことは1935(昭和10)年の国税調査によってみると、当時の岐阜県の一世帯当たりの人数は4.91人、当時の武儀郡が5.16人であるのに対して、当時の下牧村は6.30人、上牧村が6.85人と大家族であったことからも、複数の「養女」労働力を抱えていたことがわかる。
 この二つの村は抜きんでて多く、「推算すれば、下牧村1014人余、上牧村1164人余」の「養女奴隷を擁し搾取した勘定」と書いている。

 この「養女」の制度は、芸妓の世界にもあった。筆者が「門司港」の花街の歴史を追ったときにも、具体的ないくつもの事例にぶつかったことがある。この場合の多くは、森義一も指摘するように、女衒を仲介として親に前借り金を払って買い取ってしまうケースが多かった。
 しかし、この地域の紙漉き養女の場合、仲介者はほとんどおらず、紙漉き屋の主人がよその土地の親類や知り合いを通じて、第一に事実上親のいない私生児、第二に「顔の醜い子」がいいとされた、という。第一のほうは成長しても実親のもとに戻されることがない、第二のほうは「是は長じて縁が遠い、従って美人より長く使役できるから」との理由からだ、と記している。

 「斯くて養われた女の運命は好(よ)かろうはずがない」。婚期が来ても嫁がせない、婚期を逸して後妻になることが少なくない、初婚相手でも「貧乏人か薄野呂の亭主」などと、その実態を示している。こうした環境なので、「自然淫風が盛んになり、男の慰み物となって一生を台無しにする者も出来る」。

 女性の未婚率を比較すると、岐阜県全体が50.3%に対して、下牧村は55.8%、上牧村は58.3%と高い、とも分析している(1935年国勢調査)。
 ただ、大正デモクラシーの全盛期には、養女も義務教育は受けているので、自分の惨めさを悟って家出し、都会にあこがれて離村するものが相次いだのだ、と書いている。
 そして、1937(昭和12)年の盧溝橋事件による日中戦争が勃発すると、統制経済となり、生産統制による労働力の後退、食糧事情の悪化などで、「搾取する養女奴隷に終止符」が打たれた、としている。

●過酷な紙漉き作業

 紙漉き作業の過酷さはよく知られている。
 10月から越年の春ころまでの冬場を中心とする農閑期に、凍り付いたような水にさらし、長時間の作業が続く。しかも、江戸時代から、この仕事は女性のやるべきこと、とされてきた。しかも、零細な家内での仕事なので、とくに主婦や娘への負担が増す。男も次第に加わるようになる。
 さきにふれた「養女奴隷」への負担も、そこに発した仕組みであったし、年季奉公人という徒弟制度から抜け出せないのも貧困から始まっていた。

 津和野藩では、「養女奴隷」のような記録は見当たらなかったが、奥に隠されていたことかもしれない。ただ、凍るような水に手を入れ、深夜に至る長時間の作業のつらさは語られている。また、コメとしての納税ができなければ、和紙で代替させ、のちには大坂屋敷などで換金しやすい和紙を貢納させることにもなっていった。紙の仕入れは当初、商人の手で行われていたが、藩の有力な収入源とわかる17世紀中ごろからは「紙専売仕法」を定めて藩の独占事業にしている。

 もともと紙漉き業者自体も貧農が多かった。そこへ、領域の藩への貢納が厳しかった。さらに商品としての和紙を売りさばく、いわゆる親方がいて、これが搾取にあたっていた。つまり、働けど働けど楽にならないシステムになってしまっていたのだ。

 森義一は、1846年ころの大垣藩士の漢詩を訳したものを紹介する。
 「姑(しゅうと)は下拵へに従事して髪を櫛けづらず、少婦(若い妻)は紙を漉くので指頭から血が流れる、又男女とも手は亀の甲の如く荒れ、衣服は短く膝が隠れぬ程であり、顔は鬼の如くで人間ではない」
 雇われ職工は、午前6時から夕方6時までの労働で、「上等漉手男一人ニ付一日二十八銭(但弁当持)」。女性はおもに楮の晒し作業で、「一日六銭以上十銭以下」という決まりがあった、という。
 まさに、生かさず殺さず、の労働環境だったことがわかる。この時代の社会、あるいは経済全体の貧しさはあろうが、持てる者と持たざる者との貧富の格差を思わざるを得ない。

 ちなみに1935年の時点で、この下牧、上牧両村の総戸数は1564戸、うち製紙戸数981戸(62%)、親方のもとなどで働く漉子445人。また、工場は4つだったが、独立の漉屋は523戸だった。親方15人、親方兼原料商13人の計28人なので、一人当たりの漉子は15、6戸から来ていることになる。まさに、和紙に頼った生計だった。

●「風船爆弾」の効率は

 日中戦争から太平洋戦争への第二次世界大戦下では、和紙の重要性が見直され、「開戦暫くにして紙の評価は著しく変わって来た」。「中途には戦争遂行に欠くべからざる物資の一つ」になる。これに伴って、楮、三椏、雁皮などの増産が奨励された。岐阜県下の総割り当て生産の約8割に達していた、という。
 当時の政府・情報局が編集した『週報』誌上に「兵器としての和紙」なる記事があり、これを紹介している。
 これによると、和紙の使途は占領地の軍票は占領地拡大で膨大になり、国債や公債の発行も必要。気球の原紙、南方の軍用天幕(テント)、爆薬包装紙、擬革原紙から作られるパッキング、作戦地図や図引き紙、作戦命令用複写紙・・・。
 農業用では、温床紙、米麦防雨用の天幕、蚕種履立紙など、生活上も社債、株券、証券、複写用紙など。

 アメリカ本土を狙った風船爆弾の洋紙つくりも行われていたが、これは失敗して終戦前の2月に中止された。
 終戦後の1945年12月の米軍の発表では、爆弾装着で本土に到着したものは、わずか31個だった、と書いている。この米軍発表によると、約9000発がアメリカに向けられたが、推定で約1割が到着、ただ損害はごく少なかったという。
 調べてみたら、和紙とコンニャク糊による風船(気球)は、爆弾を付けて総重量200キロ、直径10メートル。ジェット気流に乗って361発の到着がアメリカで確認されたという。

        ◇    ◇    ◇

 7、80年前のことである。
 今日、社会生活の向上は著しい。江戸時代の二百数十年間はあまり大きな変化がなかった、とすれば、様変わりに変貌し、便利さ、豊かさ、満足度、選択の幅など文句なしともいえるだろう。
 ただ、今日の経済の発展ぶりや、民主化した社会環境から考えると、新たなひずみも見落とすわけにはいかない。
 たとえば、非・正社員が全体の3分の一以上に達して、その人々は安い賃金、乏しい保障のもと、結婚、出産、育児などの当然のステップが踏めない状況が生まれている。正、非・正社員の生涯賃金の格差も極めて大きい。月500時間労働、といったムチャも続いている。

 女性の就労先での処遇も、肩書や責任を与え、高級官僚や閣僚への起用のような人気狙いの旗振りはまあいいとしても、本来の女性の立場を考えると、「偉くなる」処遇の前に、保育所などの育児環境の整備、預かりタイムの長時間化、出産・育児時のバックアップ態勢、その後の再雇用策の改善など、日常的な対応策こそ急ぐ必要がある。

 経済社会の論理も、まず上から発展を図り、その水の流れが次第に下方を潤す、したがって企業減税などの措置で経済の発展を促し、いずれ収益が上がれば、その配分が増えて庶民の暮らしも向上する・・・・という。だが、下方にある中小・零細企業はどうなるか。下請けの値切りは圧迫になり、値上げを誘わないか。この上から目線が、一般的な国民の生活にどこまで配慮されているだろうか。

 そうしたからくりに、問題はないのか。
 いま、自己負担できずに通院を控える病弱者、貧窮から抜け出せない高齢者、貧しいから学力の上がらない子どもたち、あるいは物理的に将来展望を見いだせない心身障がい者、あるいは原発や戦乱などの「文明」のもたらす、解消されない不安、ヘイトスピーチなどの「未開」による新たな被差別・・・さまざまな「吹きだまり」ができて、自己努力では打開できない人々が出ている。
 ひょっとすると、昔と今の社会の発展ぶりを付加・減少しつつ比べると、全体的には新たな課題や苦しみが生まれて、簡単には現代社会が優れたものだ、と必ずしも言い切れないのではないか、とすら思えてくる。

 (筆者は元朝日新聞政治部長)


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