■ 【研究論叢】 

大逆事件に連座した大阪群像       荒木 傳

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■一、事件発覚を報じる『大阪朝日』


  大逆事件とはどんな事件だったのか。『日本近現代史辞典』(東洋経済新報社
刊)によれば次のとおり記述している。

 明治天皇暗殺を計画したという理由で多数の社会主義者が逮捕・処刑された事
件。(略)こうした情勢で1910年5月、長野県明科製材所の職工宮下太吉が爆裂
弾を製造所持していることが発覚、政府は翌月から全国の社会主義者数百名を検
挙した。

 うち26名を天皇暗殺未遂の大逆罪で起訴、12月から翌年1月にかけて大審院特
別法廷で非公開の裁判を行い、1月18日幸徳以下死刑24名、有期刑2名の判決を下
した。うち12名が無期に減刑されたので、結局(略)12名が世界中の抗議の声を
よそに1月24日と25日に処刑された。

 実際に計画を進めたのは宮下・管野・新村・古河の4名とみられ、かれら以外
の被告は無関係であったが、当時の第二次桂太郎内閣は、これを大陰謀事件とし
て運動弾圧に利用した(略)。

 この事件の第一報が大阪市民の目にとまったのは『大阪朝日』(明治43・6・4)
の「無政府党捕はる」見出しによる記事が一番最初だったに違いない。記事そ
れ自身は、無政府主義者が共謀し、爆発物製造の陰謀を企てたとされる事件で、
逮捕された人物としてすでに幸徳伝次郎、新村忠雄、新村善兵衛、新田融、管野
須賀子、宮下太吉らの名前が公表されていた。

 しかし、記事の扱いとしては他の社会面一般と変わらず、小さく報じられてい
て、これが明治社会をしんかん震撼させる大事件に発展しようとは、その時の大
阪市民は予想もしなかっただろう。後にれいご囹圄の身となる大阪の武田九平、
岡本頴一郎、三浦安太郎の三人も、どこか遠い所で起こっているよそごと余所事
件と理解していたに違いなく、まさかこの事件がわが身に降り懸かってこようと
は夢想だにしなかったものと思われる。
 
  大逆事件の始まりは明治43年5月25日である。「爆発物取締罰則」違反容疑で、
宮下太吉、新村善兵衛、新村忠雄が長野県で拘引された。28日には古河力作を
逮捕、この時点で新田融、幸徳伝次郎、管野須賀子らの名前が浮かんだのを機に、
刑法第73条「大逆罪」でこの7人を松室検事総長ははやばやと5月31日に横田大
審院長に予審開始を請求したのである。幸徳伝次郎の逮捕は6月1日だ。
 
  この直後と思われるのが、当初、検察陣の一部では小林芳郎(東京地検検事正)
や有松英義(内務省警保局長)が紙上談話の形で語っているように、陰謀は恐
るべきものだが関係者はこの7名のみ、世間が仰々しく騒ぎたてるほどの事件で
はない、との見解を表明していた。

 ところが大石誠之助、森近運平らが捕まるに及んで、司法省首脳部の間で一転、
事件拡大方針に切り換え、徹底追及する態勢を整えるに至った。6月、7月にか
けて大石誠之助関連で紀州グループ、松尾卯一太関連で熊本グループと、つぎつ
ぎ検挙、起訴されていった。

 大阪グループに事件が波及してきたのは明治43(1910)年8月に入ってからだ。

 事件関連を報じた『大阪毎日』(明治43・8・22)は「大阪の社会主義、検挙
  各署活動を開始す」という見出しで、にわかに慌ただしくなってきた大阪府警
察部の動向と検察陣の動きを伝えている。『大阪毎日』(明治43・8・22)は「
大阪の社会主義征伐 市内各
署の活動」見出しの記事は、明らかに警察の焦点が大逆事件関連の捜索、検挙に
移りつつあることをにおわせている。冒頭から、

 社会主義を標榜せるかの幸徳伝次郎一派が爆弾事件にて其の筋の手に捕はれし
以来、当局者は一層同主義者の取締を厳にし同主義根絶の目的を以って全国の警
察に内訓を発したること一再ならず、爾来大阪警察部にても、かねてよりママ調
製し居れる同主義者もしくは嫌疑者名簿につき本人の挙動監視を密になし居たる
が二、三日前より、にはかに騒々しくなり二十日には市内各署長の会議を開きて
打合をなし(た)。

 と報じている。それもそのはずである。8月21日には、東京の小林検事正、武
富検事、小山検事ら″らつわん辣腕検事″連が、大阪に出張してきて移動捜査本
部を組成している。
  
  大阪グループが検挙されたのは8月22日の払暁だ。この時、逮捕されたのは総
勢13名とされているが、おそらく森近運平が主宰していた大阪平民社出入りの有
力運動家、社会主義者はことごとく挙げられたのだろう。

 当日の模様を報じる『大阪朝日』(明治43・
8・23)から人名を拾ってみると、のち大逆事件被告になる岡本頴一郎、三浦安
太郎、武田九平の3名はもとより、百瀬晋、岩出金次郎、長谷川市松、細川早次、
佐山芳三郎(『大阪朝日』記事「狭山某」は誤記)らの氏名を見出すことがで
きる。
 
  そして奇妙なことに『大阪朝日』(明治43・8・23)のこの記事の見出しが「
大変な陰謀 韓国の排日党と日本の社会主義者」となっていて、大逆事件とは別
に韓国の″排日党″と日本の社会主義者が連携して大暴動を企てている可能性を
示唆している。しかし、これは完全な憶測記事だ。でも東京の『毎日電報』や『
東京朝日』にも同主旨の記事が掲載されているところをみると、この情報は当時
の政府筋から流された可能性がある。

 その根拠となっているのが、森鴎外の前任の陸軍軍医総監、石黒忠悳が元老山
懸有朋に宛てた「石黒書簡」あたりにあると見て差し支えなかろう。そこには社
会主義者が朝鮮人を扇動し、事を構える偏見に満ちた文章が綴られていた。時、
あたかも8月22日は歴史にのこる「日韓併合」に関する条約調印の日に当たって
いて、それが公布されたのは8月29日だった。

 なお、筆者の想像をたくましくすることが許されるなら幸徳伝次郎の「差押物
件目録」中にあった岡繁樹制作の絵葉書に、「秋水題」署名入りの「安君一挙」
の漢詩が官権側の目にとまっていたに違いない。安君とは明治42年10月26日、ハ
ルピン駅頭で当時の韓
国総督伊藤博文を暗殺した安重根である。『大逆事件3』(神崎清 あゆみ出版
刊)からその漢詩を引用させてもらおう。

 舎生取義 生を捨てて義をとり
  殺身成仁 身をころして仁をなす             
  安君一挙 安君の一挙                  
  天地皆震 天地みなふるう 
 
  日韓併合に符節を合わせて、日本の社会主義者たちが韓国″排目党″と決起す
るのではないかと危惧、恐怖感を権力者たちが抱いたとしても故なしとしない。
新聞の憶測記事はそんな所から生まれてきたのだろう。しかし、これは天皇暗殺
計画とはなんのゆかりもない。
 
  このようにして、肝心の天皇暗殺計画なるものについてはろくすっぽ取り調べ
もしないまま、大阪の武田九平、三浦安太郎、岡本頴一郎の3人は、計画に同調
した共犯者と認定され、はやばや8月28日に司法当局によって起訴されてしまう
のだった。


■二、なぜ連座させられるに至ったか


 大逆事件の進展状況を伝える『大阪朝日』(明治43・11・10)の次の記事は「
暴露したる大陰謀の顛末 破壊暗殺の実行 いよいよ公判の開廷」という、いか
にもまがまがしい見出しの報道である。被告中の中心人物である幸徳伝次郎の活
動歴や思想的変遷を紹介しつつ、それが大逆事件の大陰謀とどう連なっていくか
を解説した記事で、司法当局は「(略)厳重調査の結果、陰謀に加担したるもの
各地に散在してゐること発覚し、遂に二十六名の被告人を出すに至りしものなり」
と結んでいる。

 前日(11月9日)、松室検事総長が東京の新聞各社の責任者を大審院に招集し、
事件の取り調べ状況を説明したであろう、そのままが記事になっている。この
時には、あわせてこの事件に関する新聞報道を規制する「警告事項」を明示し、
これを破った違反者には、厳罰で臨む方針を確認させている。また、公判が非公
開で行われるのも、この時に告げられていた。
 
  さて、あらためて大逆事件とは何であったのかを問うてみたい。
  結論を先にいってしまえば、多くの先行研究者が指摘しているように、法律的
には何の脈略もない三つの出来事を、あたかも連結して「大逆罪」を構成してい
るかのように頭脳上、組み立てられた作為的な事件ということができる。
 
三つの事件とは何か。


 その一つは明科事件なるものである。被告の宮下太吉が長野県明科で爆裂弾の
試作に成功し、天皇行幸の際、とうてき投擲する順番を管野須賀子、新村忠雄、
古河力作らと語らった。″図上作戦″事件である。これらの行為が実際行われた
わけでない。しかし、胸中に被告らが抱いていた事実だけは否定できぬので、強
いていうならばこの大逆事件の本体というのがこれだ。
 
二つは、内山愚童関連の事件である。天皇家の歴史の虚構をあばき、天皇を侮蔑
する類の『無政府共産』名の十数頁のパンフを製作、散布したこと、また「オヤ
ジ(天皇)よりセガレ(皇太子)をやっつけた方が効果的」といった放言を、訪
問先随所で行っていたとされる事件である。パンフの散布は否定できないが、放
言の事実については定かでない。
 
三つは、検察当局が事件の首領格とにらんでいる幸徳伝次郎が、大石誠之助や森
近運平、松尾卯一太らに語ったとされる革命放談である。明治41年11月に会話が
かわされたので、大逆事件ではこれを「11月謀議」と呼びならわしている。幸徳
伝次郎の革命放談は
事実だが、これを天皇暗殺企図の共同謀議といえるかどうか。
 
  この三つの事件は相互に何の関連もない出来事であるにもかかわらず、松室検
事総長の「公訴事実の陳述」では、大陰謀の加担者として、明科爆裂弾事件(大
逆計画)関連の4人(宮下、管野、新村、古河)はもとより、全国的に26名もか
かわったとされているの
である。そして幸徳伝次郎の革命放談を強引にも共同謀議に仕立て上げ、無理に
大逆陰謀事件に組み込んだのである。
 
  大阪グループが大逆事件に連累させられることになったのは、大石誠之助が東
京の幸徳邸を訪問した際の幸徳伝次郎と交わした革命放談を近況報告の形をとっ
て、大阪の社会主義者たちに語ってきかせた座談の集いに同席していたことによ
るものである。それが大逆事件の「11月謀議」加担行為と認定されてしまうので
あった。
  大石誠之助は医師でもあったので体調を崩している幸徳伝次郎の診察をかねて、
幸徳邸を訪問したのが明治41年11月19日、その帰宅途次、大阪に立ち寄ったの
は同月29日である。彼の大阪での定宿は、和歌山の同県人である村上シゲという
人が経営していた大阪西区在の村上旅館である。
 
  この村上旅館で大石誠之助を囲む座談会があるというので参集してきたのが、
武田九平、岡本頴一郎、三浦安太郎、岩出金次郎、佐山芳三郎の5人で、いずれ
も森近運平が主宰していた大阪平民社の常連だ。この年6月、大阪平民社は″落
城″していたので、常連たちは武田九平を代表格とする大阪平民倶楽部の名称で、
″埋み火″を暖めていたのである。
 
  この5人が村上旅館に集合したのは、明治41年12月1日のことだ。
  そこで大石誠之助は、いったいどんな話をしたのか。
  大石誠之助の最終の第12回予審調書ではこうなっている。

 「答 私ハ五人ノ者二向ヒ、上京中幸徳ノ病気ヲ診察シタガ、甚ダ軽カラザル
様ニ認メタ、余命モ長クハアルマイ、而シテ幸徳ハ神経過敏二陥リ居リテ政府ノ
迫害ガ甚シイカラ決死ノ士ヲ募リ暴力革命ヲ起シ諸官庁及富豪ノ米庫ヲ打毀シ一
時社会ノ勢力ヲ占領スルノモ無意義デハアルマイト言ツテ居ルト報告的ニ談話シ
クルニ、列席ノ者ハ其話ヲ聞テ喜ンデ賛成ノ態度ヲ示シマシタ」「問 其五人ノ
者ハ幸徳ノ意見ニ同意シテ決死ノ士ト為ル旨ヲ申シタノデハナイカ、答 左様ナ
事ハ申シマセヌ、今直チニ革命ヲ起コスト言フ訳デハナイノデスカラ、私モ強イ
テ賛否ノ意見ヲ聞イタノデハアリマセヌ」(傍点引用者)。

 とある。ここで「決死の士」とか「暴力革命」という用語は検察陣の造語であ
って、被告たちが幸徳に語ったのは、「しっかりした者」であったといっており、
また「暴力革命」については、幸徳伝次郎自身が磯部、花井、今村三弁護士宛
に書いた「陳述書」の中で批判している。
 
  さらに公判における大石誠之助の供述によると、幸徳伝次郎の革命放談は次の
ようになっている。

 「(略)夫ヨリ話ガ五十人位 確リシタル同志アレバ深川米倉、三越ノ品物ヲ
以テ貧民ヲ賑ハシ、登記所ヲ破壊シ所有権ノ所在ヲ不明ニシ、二重橋ニ迫ルトノ
話モアリ幸徳ノ話ヲ聞キタリ、幸徳ノ状態ニテ思想ガ過激ニナル居ル事ヲ知リタ
ル故、反対モ賛成モセズ帰レリ」(傍点引用者)

  なお、幸徳伝次郎の革命放談中の「二重橋うんぬん」発言について森近運平
の公判陳述では、                         

 「(略)時々集リテ笑話ヲナセリ、其ノ内ニ決死ノ士ガ三百人モアレバ可成ノ
仕事ハ出来ル、二重橋ヘ乗込ム、詔勅ヲ要請スル等ノ一場ノ笑話ガ出ル(略)幸
徳等ノ憤慨談ハ日常ノ套言ニシテ実行セントスル意味ニアラズ(略)」(傍点引
用者)

 となっている。
  つまり、大石誠之助は雑談で幸徳の話を紹介しただけであって、あえて参席し
た5人に賛否を求めたのではないという。また「二重橋うんぬん」についても、
森近運平は「詔勅を要請」する意味にとっており、天皇暗殺計画や皇室抹殺など
の話はみじんも出なかったという。
 
  取り調べを受けた被告の岡本頴一郎も河島判事による第3回予審調書の中で次
のように陳述している。

 「(略)幸徳ノ説トシテ言ッタノデシタカ、大石ノ説トシテ言ッタカ、其ノ分
界ハ今判然覚ヘテ居リマセヌケレド、兎ニ角決死ノ士五十人許リモアッタラバ革
命運動ガ出来ト言フ事モ大石ニ於テ申シマシタデス
  問 被告ハ其説ヲ聞イテ何ウ言フ意味ヲ表シクカ
  答 賛成トモ不賛成トモ言ハズシテ黙ッテ居リマシタ」(傍点引用者)

 これだけはっきりした事件であるにもかかわらず、大阪グループの武田九平、
岡本頴一郎、三浦安太郎ら三人は幸徳らの天皇暗殺「11月謀議」の加担者として
「村上旅館ニ於イテ賛同ス」(『今村公判ノート』立会検事板倉松太郎論告)と
いう形に捏造されていくのだった。

 もちろん、その背景には幸徳、大石、森近らの、司法関係者による″罠計略″
にまんまと引っかけられてしまったことも見逃せない。不思議なのは5人が同席
しているのに岩出金次郎、佐山芳三郎の2人は、刑法第73条「大逆罪」に関する
共犯者から外されていることだ。無政府主義根絶という権力側の政治意図から価
値判断すれば、この2人は免れるということだろうか。そんな思想的根拠以外に
筆者には考えられない。
 
  大阪グループの武田、三浦には「11月謀議」とは別に内山愚童とのかかわりに
よる嫌疑もあった。
 
  禅僧、内山愚童が永平寺からの帰途、大阪の三浦安太郎、武田九平を訪問した
のは明治42(1909)年5月21日のことだ。もうその頃には『無政府共産』パンフ
の秘密出版嫌疑で、内山には警察の尾行がつき始めていた。この『無政府共産』
パンフは、10月頃に武田九平の所へ送られてきていた。「大逆罪」から免れた岩
出金次郎の「差押物件目録」の中からも、この『無政府共産』パンフが発見され
ている。
 
  『無政府共産』のパンフについて、武田九平は、手元に送られてきたのは明治
41年10月頃で、30部から50部だったと認めた上、次のように供述している。

 「(明治四一年)翌十壱月中、岡本、三浦、或ハ神戸ノ岡林等ニ、壱人ニ付テ
壱部若クハ弐部宛配布シ升タカ、残リハ、同月大石カ大阪へ来夕時ニ、其咄シヲ
致シタラ、夫レハ危険ノ物タカラ焼キ捨テルカ宜シイト申シタ故、大部分ハ私カ
焼捨テテ仕舞ヒ升夕」
(第6回予審調書)

 また内山愚童に会った際の、内山が各地で放言していたという、皇室侮辱発言
「オヤジ(天皇)よりセガレ (皇太子)をやっつけた方が効果的」の言辞につ
いては、

 「内山ノ来訪セシコトハ間違ナシ。然シ談話ノ要領ハ記憶セズ」(第5回公判
供述)

 と言っている。武田九平の判決理由書でもこの点に関しては、
  「皇儲ヲ害スルニ若カスルト申シタルヤ否記憶ニ存セズ」
  となっている。
 
  三浦安太郎の方は福岡県在住の友人、田中泰にもこのパンフを発送しているの
で、大逆事件と併行して不敬事件としても拡大していった。このほか三浦は不用
意にも日記や文章類も多数押収されている。明治43年1月5日の日記の「吾れに一
抹の爆製弾を与へよ、直ちに宮城にとうてき投擲せん(略)」など、軽薄な文章
が検察陣の目に留まっていたことも否定できない。
 
  そんな少々″お調子者″的な性格の三浦安太郎だが、内山の放言「オヤジ(天
皇)よりセガレ(皇太子)をやっつけた方が効果的」という言辞については、そ
れを否定して内山愚童の公判陳述中にもかかわらず、あえて発言を求め次のよう
にのべている。

「(略)内山カ皇太子殿下ヲ肺病ナリト言ヒシ事ヲ誇張シテ申立タリ。アンナ小
伜一匹ノ為メ仰山ナ事ヲシテ馬鹿々々シイ奴タト言フト、内山ハ妃殿下卜仲カ好
イカラ再発スルカモ知レヌ。又伜カ参ッテ仕舞ヘハ、親爺ハヒックリシテ死ンテ
仕舞フタローナト言ヒタル也」(第5回公判 傍点引用者)

 三浦安太郎が聴いたのは「皇太子暗殺」ではなく「皇太子肺病」説におひれ尾
鰭をつけただじゃれ駄洒落的な発言であったと証言している。
 
  明治44(1911)年1月18日に下された大審院の判決文によれば、首謀者の幸徳
伝次郎が天皇暗殺の「大逆罪」(「11月謀議」)を計画し、そのもとにぞくぞく
と被告らが参画した形をとっている。大阪グループの3人(武田、三浦、岡本)
にも、こうして死刑判決が下されたのである。


■三、大阪グループは大阪平民社の常連


 大逆事件の被告の武田九平、三浦安太郎、岡本頴一郎の3人は、さきにふれた
ようにいずれも森近運平が主宰していた大阪平民社の常連だった。
 
  どんな経歴の人物であったか、特赦後の消息をも含めて追ってみたい。
 
  武田九平(1875?1932)は、香川県生まれの古い運動家で、東京にいた時、片
山潜らの労働組合期成会にすでに参加していた。明治43(1901)年、その関西版
ともいうべき関西労働組合期成会を『大阪朝日』経済記者の三宅磐らと結成し、
その代表格ともなっている。

 余談だが、この組織の執行役員9名のうちの1人である荒木重吉は筆者の従祖父
に当たる。治安維持法の影響もあり、ほどなくこの組織は立ち消えたが、自らは
金属彫刻業を営み武田赤旗堂と称した。

 明治40(1907)年、森近連平が大阪平民社を再興した頃にはその常連となり、
森近連平の信望がもっとも厚かった人物である。また『大阪平民新聞』の彼は編
集人でもあった。大阪平民社で催された茶話会でも常にリード役で、森近運平が
「新聞紙条例違反」で収監中でも森近に代わって片山潜らの関西遊説の受け入れ
(1908年5月)に奔走するなど、指導者ぶりを発揮している。大阪平民社がなく
なったあとでも大阪平民倶楽部をつくったのは彼だ。

 そんな人物だっただけに早くから警察の「要視察人」リストに挙がっていたと
しても不思議でない。
 
  長崎県諌早監獄を昭和4(1929)年4月、仮出獄してから、一時は「信原幸道」
仮名で広島県深安郡在の金光教芸備教会所で3年ほど過ごし、その後再び大阪に
出ていたが、昭和7(1932)年11月、輪禍に遭い一命を落としている。
  
  岡本頴一郎(1880-1917)の生まれは本籍地では山口県吉敷郡となっているが、
大逆事件の供述調書では、自ら沖縄県生まれと称している。明治34(1901)年
上京、早稲田第一学院で学んでいたが、その時代に安部磯雄や木下尚江らの演説
を聞いて社会主義に関心を抱くようになったという。大阪に出てランプの口金製
造職工となった頃には、郷里から駆け落ち同然の姿で抜け出してきた内妻の薮田
ハルと同棲、大阪福島に居を構えた。
 
  彼も再興された大阪平民社にしょっちゅう出入りする常連で、大阪平民社閉鎖
後も福田武三郎らと通俗パンフ『社会主義』を作製するなどの宣伝活動を根気よ
く大阪でくりひろげていた。岡本頴一郎は一時製薬会社に勤めるなどもしていた
が、すぐに社会主義者であることが発覚し解雇されてしまうのであった。内妻の
″お春さん″の、病身をおしてのブラシ工場勤めで、かろうじて夫婦は糊口をし
のいでいた。逮捕される直前には電灯会社の雇員になっていたとも伝えられてい
る。
 
  友人の荒畑寒村の追悼文「岡本君を憶ふ」(『新社会』大正8・9月号)は、岡
本の人柄をよく伝えている。また荒畑寒村の小説『冬』(『近代思想』大正3・1
月号)では、人物Eとして登場している
 
  諌早監獄に服役中の大正6(1917)年、岡本頴一郎は胃癌におかされ、消え入
るようにこの世から去っていった。
 
  三浦安太郎(1888-1916)は兵庫県武庫郡鳴尾村(現西宮市)生まれだ。高等
小学校中退後、両親と共に大阪に出て父親と同じブリキ細工職人となった。社会
主義への関心は山路愛山の『社会主義管見』を読んだのが動機といっている。

 宮武外骨が大阪で発行していた『滑稽新聞』に「面白雲内」(面白ない)のペ
ンネームで投書などしていたが、森近運平の大阪平民社再興後は、荒畑寒村、百
瀬晋、武田九平、岡本頴一郎、福田武三郎、岩出金次郎らと親交を結ぶようにな
ったのである。大逆事件弁護士、平出修の小説『逆徒』の主人公は三浦安太郎が
モデルとされている。
 
  三浦逮捕後、『大阪毎日』の記者が三浦家を訪問した時の様子は『大阪毎日』
(明治43・11・10)「大陰謀事件被告人 大阪より三人出す 家族の境遇」見出
しの記事に克明に記されているが、一家(5人家族)の″大黒柱″を失った病身
の父親、三浦徳造の悲嘆にくれるさまはまことに痛ましい。

 その三浦安太郎も収監されていた諌早監獄で大正5(1916)年5月、自裁を遂げ
てしまった。一説には狂死ともいう。享年29歳の若さだった。獄中自殺者は大正
3(1914)年6月の秋田監獄における高水顕明についで2人目だった。
 
  これも余談だが、三浦安太郎の墓が長い問、無縁仏同様に守る人もなく放置さ
れていたのを発見したのは筆者である。二万基ある広大な大阪阿倍野墓地から、
やっと見つけ出した時には、墓石も傾き、破損もはなはだしかった。昭和56年10
月のことである。
 
  大逆事件に連座した大阪の関係者はこの3人だが、大逆事件被告の中には大阪
とゆかりのある人物はこのほかに何人もいる。そういう意味では、大逆事件と大
阪は案外深いえにしに結ばれていたともいえそうだ。
  もっとも深いかかわりのある人物は「11月謀議」に共嗚したとされた森近運平
(1880-1911)である。

 彼は岡山県で「岡山いろは倶楽部」という社会主義研究会をつくったあと、大
阪に出て大阪平民社(第一次)を設立した。ほどなく警察の厳しい弾圧がもとで
閉鎖に追い込まれる。その大阪平民社(第二次)を再興したのも森近運平だった
。創刊した『大阪平民新聞』はやがて『日本平民新聞』と改名し、全国の社会主
義硬派の拠点ともなった。
 
  この大阪平民社を訪ねてきたのが、誰あろう大逆事件の最重要人物、宮下太吉
(1875-1911)である。彼は2回、大阪平民社に森近運平を訪問している。1回目
は明治40年12月13日だ。ここで宮下が森近に質問したのが社会主義と皇室の関係
である。
 
  これに答えて森近運平は、万世一系の連綿たる神格化された皇室の歴史観に疑
義を抱いていることを率直に話したようである。かねて、神聖視されている天皇
制に疑念を覚えていた宮下太古は、この説明を聞いて深く感銘するところがあっ
た。

 「天皇も血の出る人間」立証に爆裂弾を用いようと宮下が初めて構想するに至
ったのはこの時かもしれない。その意味で、森近運平のこの発言を検察陣はこと
のほか重視したに相違ない。2回目は翌年2月1日である。この時も大阪平民社茶
話会に招かれた宮下太吉は、森近運平の説く革命運動直接行動論に強く刺激され
ている。
 
  しかし、誤解のないように断っておくが後日、宮下が森近に天皇暗殺計画をに
おわせた時には、森近も幸徳もきっぱりとそれを拒否している。
 
  再興された大阪平民社の命脈は1年ばかりだったが、この間にいろんな人が立
ち寄っている。
 
  大逆事件「11月謀議」共諜者とされた和歌山県新宮の医師、大石誠之助(1867

  • 1911)は、森近の『大阪平民新聞』の支援者で、しばしば同紙に寄稿していた
    こともあって、「11月謀議」以前にも大阪平民社に来ている。明治40(1907)年
    11月20日のことだ。

 熊本県の義兄を見舞った帰途、大阪平民社を訪れたのである。定宿の村上旅館
に大石はこの時、社主の森近運平や荒畑寒村を始め、後に大逆事件大阪グループ
につらなる面々を招いて怪気炎をあげている。この席にもう一人の珍客があった。

 それは大逆事件でこれも家宅捜査を受けることとなる毛利清雅(柴庵)である。
毛利が発行していた『牟婁新報』は新聞紙条例違反の罪に問われていたが、こ
の日大阪控訴院で無罪判決が下ったこともあって、まことに賑やかな集いになっ
ていた。
 
  幸徳伝次郎(1871-1911)も大阪平民社を訪れている。
  幸徳の思想が無政府主義、直接行動論に傾斜しつつあるさなか、『パンの略取』
の翻訳と病気療養をかねて一家が郷里中村に帰るみちすがら大阪平民社に立ち
寄ったのである。盛大な歓迎茶話会が開催されたことはいうまでもない。

 幸徳伝次郎はミハイル・バクーニンの理論を紹介しながら、政治権力や圧制に
徹底的に反抗してこそ、真の自由が獲得できるという講演に参加者全員が熱心に
耳を傾けていた。明治40(1907)年11月3日のことである。
 
  内山愚童(1874-1911)が大阪平民倶楽部の武田九平、三浦安太郎を訪ねてき
たのは大阪平民社閉鎖後だったことは既述した。
 
  大逆事件の紅一点、管野須賀子(1881-1911)こそ、大阪との関係を見逃すわ
けにはいかない。彼女は大阪生まれである。
 
  大逆事件そのものは検察陣が組み立てた″空中楼閣″のような架空構想だが、
その中でも爆裂弾を試作したり、とうてき投擲の手順を極秘裏に話し合った人物
のいたことは否定できない。言ってみれば大逆事件の核心部分に位置する所に宮
下太吉、新村忠雄、古河力作と並んでこの管野須賀子がいる。
 
  『大阪朝報』記者から『牟婁新聞』と女性ジャーナリストの道を歩みつつ、女
権拡張論を唱え急速に社会主義思想に接近していった。そして森近運平の大阪平
民社以前に、『大阪朝日』の三宅磐記者らと大阪社会主義研究会を発足させてい
た事実がある。森近運平の
  大阪平民社はそれを引き継いだ格好だ。
 
  大逆事件の首領格に捏造されていく幸徳伝次郎について、幸徳は事件に何等関
与していないと必死になって訴えうづけ、管野須賀子は獄中から″針文字″の形
をとって横山勝太郎や杉村広太郎(楚人冠)らに救済措置を講じるように要請し
ていたことが、最近になって発見された資料からもうかがい知ることが出来る。

 絞首台の露と果てる瞬間、「われ主義のために死す 万歳」が彼女の最期の言
葉となった。
  (著者は社会文学会理事・PLP会館専務理事)

注;(この原稿は『初期社会主義研究』<2010年刊22号)の「大逆事件100周年記
念特集号」に掲載する予定のものを関係者のご好意により事前に掲載させて頂い
たものです。)

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