【アフリカ大湖地域の雑草たち】(56)
女性たちの反国連デモ
I 独立国カタンガ
女性たちのデモ
1962年7月17日、カタンガの首都エリザベートヴィル(いまのルブンバシ)で、8000人ほどの女性たちが、国連軍(ONUC)撤退を求める抗議デモを行い、警備に当たっていたONUCインド兵との衝突で、市民3名(女性1人、子供2人)が死亡、多数がけがをした。
デモはカタンガ女性協会(l’Association des Femmes Katangaises)が企画・実施したものだ。同協会は、前日の7月16日、ラジオ・カタンガ(エリザベートビルの公共放送)を通じて、「カタンガの人々を殺戮する、国連の邪悪な企みに抗議し」「我々の血は、天にかけて復讐を叫ぶ」とする抗議声明を発表した。さらに、デモに先立ちONUCエリザベート本部との面会を求めてもいたが、実現していなかった。
ナショナリズム

当時のカタンガは自らを独立国と宣言し、モイゼ・チョンべを大統領に、独自の国旗・国歌、憲法と統治機構を持ち、通貨、パスポート、郵便切手を発行していた。デモ当日は多くの人々が独立二周年記念(7月11日)を祝い、祖国への誇りと愛着を再確認したばかりだった(地図(ウィキペディアから転写))。
問題は、国連での扱いが、あくまで「コンゴ共和国カタンガ州」だったことだ。
実力
カタンガは、銅、コバルトなど豊富な鉱物資源と潤沢な資金力、根強いベルギー人ネットワークに支えられ、経済、軍事、外交いずれの分野でも実力を持っていた。
エリザベートヴィルは鉱山会社ユニオン・ミニエールの城下町で、1960年当時、同社の納税がコンゴ政府全予算の3分の1(ほぼ2分の1という情報もある)に相当した。
軍事力はカタンガ憲兵隊が担った。それは、ベルギー軍の訓練を受けた現地人兵士、ベルギー人顧問団、外国人傭兵で構成されていた。傭兵は、正規ベルギー軍の撤退(1960年9月)に代わって、南ア、北ローデシア(いまのザンビア)、フランスなどからリクルートされてきた、民間の軍事専門家たちだった。
外交力も秀でていた。内陸でありながら貿易を継続できたのは、隣接するポルトガル領アンゴラとイギリス領北ローデシアそれぞれとの友好関係のおかげだ。ニューヨークに外交公館を置き(1960年10月から、代表はベルギー人Michel Struelens)、国家承認と国連加盟をめざしてロビーした。パリとブリュッセルにもそれぞれ公館を置き、傭兵のリクルートに大きな役割を果たした。
II UNはお友だち
4度の攻撃
カタンガの「独立国」時代は2年半ほどで幕を下ろし(1963年1月15日)、コンゴに再統合された。こうなったのは、ONUCの攻撃的武力行使と無関係ではない。
それは、次のとおり、大きく分けて4段階(1961年8月、9月、12月、および1962年12月)あり、その間、安保理は二つの決議(1961年2月21日及び11月24日)を採択し、段階的にONUCのマンデートを強化していった。
(1) 1961年8月28-31日、ラムパンチ作戦(Operation Rumpunch)。主力はインド・スウェーデン兵。外国人傭兵の一部排除に成功。ONUC初の攻撃的武力行使で、1961年2月21日付け安保理決議161(S/4741)の初めての執行。
(2) 1961年9月13-21日、モルソール作戦(Operation Morthor)。主力はインド・スウェーデン・アイルランド兵。カタンガ憲兵隊の司令部・通信施設破壊が目的だったが、予想に反してエリザベートヴィル市街戦に発展。この最中に、ハマーショルド事務総長が飛行機事故で死亡。
(3) 1961年12月5-18日、ウノケート作戦(Operation Unokat)。主力はインド・スウェーデン・エチオピア兵。ONUCは制空権掌握・エリザベートヴィル市内及び主要拠点の制圧に成功。1961年11月24日付け安保理決議169(S/5002)の初めての執行。
(4) 1962年12月28日-1963年1月15日、グラン・スラム作戦(Operation Grand Slam)。主力はインド・スウェーデン・エチオピア・アイルランド兵。エリザベートヴィル、コルウェジ、ジャドヴィルを制圧し、カタンガ分離の終結につながった。外国人傭兵の大量脱出・降伏。
モルソール作戦
上記(2)のモルソール作戦は惨憺たる結果で、ONUCの4年間でも最悪だったと言われている。戦略が不適切で見通しが甘く市街戦へと発展させてしまい、ONUC、カタンガ憲兵隊のみならず、市民多数が犠牲となった。
さらに同時並行して重要な事件が二件起きた。一つは、ジャドヴィル包囲戦(9月13-18日)で、ONUCアイルランド兵一小隊が6日間の包囲戦の末、カタンガに戦争捕虜とされた事件だ。もう一つは、9月18日、チョンべとの和平調停に向かう途上、ハマーショルド事務総長の搭乗機が、北ローデシアのンドラ近郊で墜落し乗客乗員全員が亡くなったことだ。モルソール作戦がなければ、あっても成功していれば、事務総長は帰還不能のミッションに出る必要はなかったであろうと言われる。
中立と内政不干渉
カタンガを武力で攻撃し、再統合を図ることは、この1年以上前である1960年8月初頭、当時のルムンバ首相が、派遣されたばかりのONUCに期待し依頼したことだ。国連は、中立と内政不干渉の原則を盾に、この依頼を拒絶した。これがルムンバと国連との関係悪化のきっかけになった。
さらに1960年終盤以降、対立勢力がそれぞれ敵の幹部を逮捕・拘束し、ルムンバをはじめ何人もが惨殺されたときも、ONUCの武力で救出すればいいと、コンゴ人ばかりか諸外国も期待したが、ONUCは傍観するだけで手出しをしなかった。これも、中立と内政不干渉のためだ。
法理論では
ならなぜ、上述のような武力攻撃ができたのか。それは安保理決議が追加的に採択され、以前はできなかったこと、つまり、攻撃的武力行使が、できるようになったためだ(註1)。
確かに国際法上の理屈はそのとおりだ。だがその理屈は、カタンガの人々にどれだけ伝わったのだろうか。
しかも、さらにわかりにくいことには、1961年の武力行使は攻撃ではなく自衛目的だったというのが、国連事務総長(ハマーショルド死後を引き継いだウ・タント)見解だ。武力は確かに使ったが、それはやむを得ぬ自衛策であり、そもそもONUCにはカタンガ分離終結の目的で武力を行使してもよいとの権限はなかった、と(註2)。
国際法を理論的に分析すれば、確かにそのような解釈になるのだろう。しかし、限定的だったラムパンチ作戦(上記(1))を除けば、ONUCが作戦を立て実行する、そのたびごとに少なからぬ市民が犠牲になった。そんな市民にとって国連の動きは、手のひら返し、欺瞞的、偽善的に映ったのではないか。
情報戦
1961年12月、ウノケート作戦(上記(3))に相前後して、ONUCはカタンガ上空からビラをまいた。SNSのない時代の情報戦だ。
「カタンガのコンゴ人の男性と女性のみなさん」、「UNはコンゴ政治に干渉するつもりはない」ただ「外国からの害ある影響を排除したいだけ」、そして、こう訴えた「UNはみなさんの真の友人です!」
「独立」堅持を希望するカタンガ人にとって、コンゴ人と呼びかけられること自体がお門違いだった。このころエリザベート市内の商店や飲食店は、非番で遊びに来るONUC兵の入店を拒否したとのことだ。
偽善的で乱暴なのに、「お友だち」とすり寄ってくる。ONUCはそんな存在だったのだろう。
III デモの様子
子供たちも出てきて
女性8000人のデモの様子はどうだったか。参加者の大半が、赤ん坊を背負ったり幼児の手を引いたりしていた。子供を盾にしようというのではない。赤ん坊は片ときも目を離せないし、幼児たちは「ママどこいくの?」と付いてきてしまうものだ。もちろん誰も武器を持っていなかった。銃器はもとより、男性たちが手にし、随所でONUC兵を悩ませた槍、弓、毒矢の類も。
ジャーナリストのこんな目撃証言がある。歌ったり踊ったりしながら抗議する女性たちを、カタンガ警察と男性市民たちは傍観し、中には鼻で笑う者もいた。6、7歳の少年がデモから離れてONUCインド兵に近づき、自分の胸をさらした。「カタンガのためならボクを殺してもいい、殺せるものなら殺してみろ」とでも言っているような様子だった。兵士は一瞬、銃口で少年の胸に狙いを定めるふりをしてから、笑いながら銃を下ろした。少年は微動だにせず、やがてデモ隊に戻った。
装甲車追加出動
始まりは平和的だったがヒートアップしてしまった。女性たちはドラム缶を転がし、付近の草や茂みに火をつけ、大勢で束になってインド兵を一人一人取り囲み、足元に転がったり、素手で制服を引っ張ったり破いたり。抑えようとしたカタンガ警察のオフィサーは、女性たちの剣幕に押しのけられた。「彼女たちの戦法は、インド人がイギリス人に対してとったのと同じだ」とは、とあるインドの上級将校のコメントだ。
そして、銃声が聞こえ始めた。すでに配備してあった装甲車1台に加え、さらに3台が投入され、ヘリコプターが頭上を巡回するに至り、開始から3時間ほどでデモは散会した。
3名が死亡した。亡くなった女性は17歳で、当時一般の初婚年齢から推察すれば、母親であっただろう。そのほかは男児2名で、5歳と6歳だった。
誤りだらけだからこそ
デモ主催者は、前日の7月16日、ラジオで抗議声明を流した。それは世界中の要人に向けられていた―ロンドンのエリザベス女王、アムステルダム(誤記)のクイーン・ウィルヘミナ(誤記)、ブリュッセルのエリザベート女王、パリのマダム・ド・ゴール、ロンドンのマクミラン夫人(誤記)、ブリュッセルのファビオラ女王、ワシントンのケネディ夫人、コネチカット州のドッド夫人(原文ママ)、ブリュッセルのパオラ王女、そしてモスクワのフルシチョフ夫人。
「(誤記)」とあるのは、この声明について報告した国連文書の注釈で、正しくは、それぞれ、クイーン・ウィルヘルミナ(Queen Wilhelmina(オランダ女王))、オランダ王室は在ハーグ、ミセス・マクミラン、米国コネチカット州選出上院議員ミセス・ドッド、とすべきだったようだ。
男性要人への呼びかけを躊躇した理由は不明だが、綴りやプロトコールに誤りがあるからこそ、逆に信ぴょう性が増し、熱意が伝わってくる。
フランス語はわからなくても
デモが起きたのは、ONUCが置いたロードブロック(検問所)付近だ。あくまで外国人傭兵排除を目的としており、市民は誰でも自由に通れるとONUCは考えていたが、現地人の生活の知恵は、外国人にはわからないものだ。とくに女性はいつでもどこでもサバイバルの天才だ。検問所は、重い荷物があるとき便利だった近道をブロックし、緊急に駆け込む産院へのアクセスを妨害していた。
かくて、動機は生活に根差していた。しかし、カタンガの女性たちは、臆することなく世界の女性要人に呼びかけた。先稿に何度か書いたように、当時の女児教育は、一般に、男児に比べ著しく遅れており、フランス語能力を持つ女性はきわめて限られていた。しかし、だからと言って、当時のコンゴ女性たちが政治的に未覚醒で、国際政治に無関心であったわけではけっしてない。
IV One of them
UNの見解
事件後ONUCは、速やかに公式見解を発表した。「お友だち」であるはずの国連との衝突で、よりにもよって女性と子供が犠牲になったとあっては、さらにイメージが下がってしまうので、それだけはなんとか避けたかったのだろう。国連発表の要点は、次のとおり淡々としている。
(a) デモは入念に計画され、カタンガ政府から全面的な支援を受けて行われた。
(b) ひどい挑発にもかかわらず、国連兵は模範的な規律と自制心をもって行動した。
(c) カタンガの女性と少年がONUC部隊の発砲により死亡したという主張は、全く根拠がない。
「カタンガ政府から全面的な支援を受けて」いたとは、つまり、事件の責任は、ONUCでもなければ女性たちの主体性でもなく、あくまでカタンガ政府にこそあるという趣旨だ。
これを読む者は、コンゴ当局にはやはり信頼がおけぬと再認識し、この事件もまた、そんなコンゴだからこそ頻発していた、たくさんの悲しい事件のone of themにすぎないのだと理解する。ましてや、女性たちの政治意識や国際性には、とうてい考えが及ばないだろう。
史実は一つしかない
これを書く最中の2026年1月3日、ベネズエラの国家元首が米国によって拘束される出来事があった。常識を外れた国際法違反なのか、安全と秩序のためだったのか、2026年の世界史はどのように記録されるのだろう。
史実はつねに一つしかない。しかし、歴史というものは、いつも記録者によって伝えられるのであることを、カタンガ女性たちの勇気ある行動がリマインドしている。
ナイロビ在住
(註1)安保理決議要旨(関連部分のみ)
安保理決議161号(1961年2月21日(S/4741))
1国連は直ちに適切なあらゆる措置を取ることを強く求める。これには、内戦発生を防止するために、停戦の取り決め、すべての軍事行動の停止、衝突の防止、そして必要に応じて最後の手段として武力の使用も含む。
2ベルギー及び国連司令部に属さないその他の外国の軍事・準軍事要員及び政治顧問ならびに傭兵をコンゴから即時撤退・撤去させる措置が取られるべきである。
安保理決議169号(1961年11月24日(S/5002))
1カタンガ州の分離主義活動は違法であり、これを強く非難する。武装行為や外国の傭兵・武装勢力による妨害行為も含む。
4事務総長に対し、必要に応じて、適切な程度の武力使用を含む、断固たる行動をとる権限を付与する。これには、国連司令下にない外国の軍事・準軍事要員および政治顧問並びに傭兵の即時拘束、法的手続きの待機下での拘留および/または送還の権限を含む。
(註2)1962年8月20日付け国連事務総長報告S/5053/Add.11の14ページ“this fighting has been only in self-defence and there being no mandate to do so, never in an effort to end the secession of Katanga.”
(註3)本稿は、コンゴ動乱をテーマにした先の19稿(『アフリカ大湖地域の雑草たち(17)-(19)、(21)-(29)、(31)、(40)、(41)、(43)、(52)、(53)』(それぞれオルタ広場2022年5-7月号、9-11月号、2023年1-2月号、4-5月号、7-8月号、11月号、2024年9-10月号、12月号、2025年9-10月号、12月号)の続きである。先稿のリンクは末尾に示すとおり。
参考文献
Michaela Feinberg, 2019, The Association of Katangese Women Politics and Activism during the Congo Crisis
S/5053/Add.11, 20 August 1962
”Report to the President of Katanga Regarding the Incidents that Took Place in Elizabethville on 17 July 1962 in the Course of A Demonstration Staged by Katangese Women (Translation from French)”, S-2013-0006-12-00001, United Nations Archives, New York
“NIGHTLEAD WOME (SCHEDULED) BY VERGIL BERGER ELISABETHVILLE, JULY 17-(REUTERS)-TEN THOUSAND SHRIEKING AFRICAN WOMEN CLASHED SAVAGELY WITH UNITED NATIONS TROOPS
先稿リンク
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(2026.1.20)
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