■臆子妄論
安倍晋三とコリオレーナス 西村 徹
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◎「元日や手を洗ひをり夕ごころ」
朝日新聞元日の「折々のうた」は芥川龍之介の「元日や手を洗ひをり夕ごころ」
だった。俳句について知るところ深いとは到底言える柄でない。したがって見当
違いかもしれないが、この翳りのある句が元日の一面に掲げられることの意味は
私にとって小さくはなかった。大抵正月の新聞は嵩張ってばかりで間延びがして、
テレビの番組表以外読むところなどない。それがのっけにこの句でこころもち息
を呑んだ。
直接には芥川の内面の不安そのものの痛切に加えて、2007年の先行きを占う痛
切がそこにあった。ひそかな編者の憂慮が、あるいはそこに込められていたのか
もしれない。のっぺらぼうな元日の新聞には珍しく新鮮であった。この国の疼き
始めようとする傷口の新鮮であったが。
◎きれいは汚い汚いはきれい
安倍という人は、西村真悟みたいに白刃をかざして鬨の声をあげ、というので
はないが、白刃を隠して勇ましげなことを、甲高い早口でしゃべって歩いて人気
をあつめた。政権の座につくと豹変するかのように中韓との外交関係を修復した。
そうやって煙幕を張りながら着々とその間教育基本法を歪め、防衛庁を防衛省に
格上げし、美しい国というレッテルを貼ったキナ臭い国づくり路線を進めた。「き
れいは汚い、汚いはきれい」とマクベスの魔女がトンボを切るようにして、今し
がた修復したばかりの中国との関係に、こんどは水をさすようなことをわざわざ
NATOに出かけて行ってしゃべって苦笑させた。自衛隊のアフガン出前サービス
まで売り込んだ。
一方、残業代ゼロ法案(=過労死促進法案)を出したかと思うと引っ込めた。
高利貸の金利高止まり法案も引っ込めた。共謀罪も出し入れした。出しては引っ
込め出しては引っ込め迷走するかのようでいて、支持率はツルベおとしに下げな
がらも、しかし一瀉千里で改憲にまい進していることだけはたしかだ。そのため
の国民投票法案など、桂ざこばの「強情」という落語にそっくり。借金を頼みな
がら、いくら借りたいかをいう前にとにかくウンと言えという。法案の中身も理
由も論議しないでとにかく先にウンと言えいうのだからこの落語とおなじだ。
落語の方は借り手も貸し手も善人だからよいが、こちらは国民の生命を預けるは
なしだから物騒だ。安倍という人は改憲という強迫観念だけが頭にあって再チャ
レンジもなにも他のことはどうでもいいらしい。改憲で国権を強化して、あとは
どうにでもできると踏んでいるのかもしれない。ならばなかなかしたたかなのか
もしれない。本間も佐田も松岡も、伊吹も中川も、そして柳沢も、そんなことは
どうでもいい。参院選もどうでもいい。「自分の任期は短い。短い間におっ母さ
んの言いつけどおりシッカリ、祖父さん以来の宿願を成就しよう」というハラか
もしれない。
◎マザーコンプレックス
おそらくそう見るのは買い被りであろう。未熟なまま総理になって、というより、
されてしまって本人は五里霧中、まさしくダミーであって自覚もなにもないのか
もしれぬが結果としてそうなる雲行きに見える。
おっ母さんの影響力が相当に強いと聞く。あれだけ強く妖怪祖父さんを意識す
るからにはさもあろう。男女共同参画社会基本法に反対らしいところからもさも
あろうと思う。だとするとシェークスピアの「コリオレーナス」に少し似ている。
少しであって大いにというのではない。軍神マースのような勇猛果敢の軍人と安
倍総理はまったく違う。見かけは大いに違う。しかしただひとつマザーコンプレ
ックスの点で似ている。暮れから正月にかけてテレビでたくさん芝居を観た。勢
いでビデオに録っておいた97年パナソニックグローブ座でのスティーブン・バ
ーコフ一座が演じたものを観た。92年銀座セゾンでの同じくバーコフの「サロメ」
がすばらしかったのでこれも録ったというだけで、ろくに観ていなかったものを
観た。その偶然でふと似ていると思ったにとどまる。
シェークスピアについても、俳句についてと同じく、知るところ深いと言える
柄でない。シェークスピア学者というのはゴマンといて、マルクスとちがって流
行りすたりもなく、あとからあとから玉石とりまぜ論文が出る。Books about
books about booksの出版が跡を絶たない。成果主義で、とにかくpublish or
perishだからペーパーを出さないと落伍するアメリカのシェークスピア学者が、
データ追跡に忙しくて「シェークスピアなんか読んでる暇なんかない!」と言った
という。なんかよくわからん話であるが、荒廃か興隆か。いずれにせよそれほど
の繁盛亭には割って入る余地はないが、野次をとばす自由はだれにもある。
milliard-minded(観自在千里眼)のシェークスピアだから玄人を歓ぶとはかぎら
ず素人を厭うともかぎらないだろう。
◎コリオレーナスの悲劇
「コリオレーナス」はプルタルコスの「対比列伝」に材を得た紀元前4世紀、エ
トルリアもなお命脈を保っていた時代のローマ武将の悲劇である。書割も照明も
揚げ幕も引き幕もなしの、奥にせり上がりのようなバルコニーがあって、前方に
青天井エプロンステージのせり出している舞台で、昔は女優を使わず、コスチュ
ームのほかは俳優のせりふが一手に効果のすべてを引き受けるシェークスピア劇
は、どの作品のどこを開いてもかならずどこかおもしろいが、これは37編ほど
ある全劇作品のなかでは比較の上で人気のない、上演回数の少ないものである。
極右ミリタリズムを鼓吹するとして30年代フランスなどでは敬遠されていた。
日本占領の米軍が忠臣蔵を禁止したようなものだ。たしかにコリオレーナスの立
ち位置は極右ミリタリズム以外のなにものでもない。それはそれなりに戦士とし
て清冽ですらあり、杉本五郎中佐の凛冽がある。チャンバラもふんだんにあって、
あるいは遊就館や安倍総理などは歓ぶかもしれない。ちなみにベートーヴェンの
コリオーラン序曲はシェークスピアではなくドイツの詩人ハインリッヒ・ヨーゼ
フ・フォン・コリンの劇に献呈した曲ではあるが、この劇もまた同一人物を主人
公とするものである。
「コリオレーナス」は一口に言って復讐劇である。復讐が復讐を呼んで最初に復
讐を企てた主人公が最後には敗れる悲劇である。また主人公は民衆の敵でもあっ
て民衆の側に照明をあてれば民衆のしたたかさがうかびあがる。ブレヒトはそう
いう読みをしている。ヤン・コットも民衆こそがローマの大義であると見ている。
シェークスピア劇には、ほかにもたとえば「ヴェニスの商人」は喜劇とされてい
るが、シャイロックこそが主人公の復讐悲劇と読む余地はありすぎるほどある。
「オセロー」もコリオレーナスに似た直情径行の軍人の悲劇であるより狡知無類
の悪役イアーゴの復讐悲劇でもある。「リア王」も娘たちに裏切られる王の悲劇
ではあるが、滑稽なまでにおべっかに弱い、いい気な老人のおろかさのきわだつ、
さればこそ一層深刻な悲喜劇である。オーウェルはその種の趣旨のことを書いて
いる。どの演劇も演出に左右される余地は大きいがシェークスピアはとりわけ多
面多層で人類を映す鏡といわれるだけに一筋縄ではいかない。
◎今も昔も――金持ちの金持ちによる金持ちのための政治
劇は民衆蜂起の場面に始まる。舞台はローマ市の街頭、武装した民衆が集まっ
て、「飢えて死ぬより斬り死にする方がよい」(rather to die than to famish)との
覚悟を確かめ合う。民衆の敵ケイアス・マーシャスを倒して穀倉を襲おうという
のだ。傲慢王タルクィヌスが追放されて共和制になってはいるが、統治を付託さ
れている貴族と平民との対立は深刻である。「貴族の奴らが食いすぎの分から、
おこぼれをちょっぴり分けてくれりゃ助かるのだ。腐ってさえいなけりゃそれだ
けでも恩に着るぜ。ところがそんなぜいたくはできないときた。平民が食うや食
わずの青息吐息、骨と皮だと奴らにはそれがごちそう、眼の法楽。手前の金満が
引き立って、こっちの呻き声が奴らには心地よい格差というわけだ」(一幕一場)
といったせりふがほとんどいきなりのっけに出てくる。
いきなりのっけに出ることによって、この劇の調子はこれで決まって、その調子
が一貫して通奏底音のように鳴り響くことになる。ブレヒトやヤン・コットの見
方の成り立つゆえんである。今日的というにも、あまりに今日的な場面ではない
か。金持ちの金持ちによる金持ちのための政治が民衆を苦しめているのだ。こん
なことも民衆は言う。
「おれたちは飢えているのに連中の倉庫は穀物ではちきれそうだ。高利貸に都合
のよい条例を作って高利貸の便宜を図る。金持ちを規制する従来の真っ当な法律
は廃止する。貧乏人をがんじがらめに締め上げようと、ますます苛烈な法律をつ
くる」(同上)。法人減税とサラリーマン増税の、まるで今日ただ今、日本の政
治状況そのものである。この種の民衆の声はくり返し現れる。
◎寡婦が育てた護国の鬼
さて民衆の敵ケイアス・マーシャスは、イタリア南部の山地コリオライのヴォ
ルサイ人と戦い、これを撃破した功によってコリオレーナスの称を与えられた。
さらに彼を執政官に推挙の声があがり、母親は彼がこれに応ずることを強く望ん
だ。母ヴォラムニアは軍国の母、帝国ローマの鑑である。彼が猛将に育ったのは、
皮肉なことに、むしろ寡婦ヴォラムニアが女手一つで一粒種として育てたことに
負うところが大きい。ヴォラムニアがいかに猛女烈婦であるか。
舞台は出陣中のマーシャス家の一室。針仕事をしている妻ヴァージリアに姑のヴ
ォラムニアは言う。
「息子が手柄を立てられそうなら喜んで危地におもむくにまかせました。凄惨な
戦に送り出すと息子は額に柏の冠をいただいて凱旋してきました」
「でも、お母様、どうしましょう?そのために戦死してしまったら」とヴァージ
リアが言うのに答えて、「そのときは戦死の報せこそ生身の息子に代わるたまも
の。息子は英霊となって、その命脈は尽きることがありますまい。よくお聞き、
私が誠を語るのを。私に十二人の息子があって、それぞれにおなじように愛しく、
そなたの、そして私のマーシャスにおとらず貴いものであったとして、十一人が
祖国のために名誉の戦死を遂げるようなら、それこそむしろ望むところ。残った
一人が遊蕩ざんまい無為飽食するのを見るよりも」(一幕三場)。
こういう猛母が手塩にかけて育てた、出来すぎるほどよく出来上がったケイア
ス・マーシャス・コリオレーナスという男は、まさしく「愛国心」の権化、国に
とかくの注文をつけるばかりで、兵隊にしても腰抜けで役立たずの平民を非国民
のごくつぶしだとして極度に嫌悪している。
◎民衆の敵の大衆論
「お前ら(平民)に甘いことを言ってちやほやする奴は下の下の下司だ。戦争も
いや、平和もいやで一体なにが欲しいというのだ。野良犬どもめ。戦争だと震え
上がり平和だと図々しくなる。・・・偉大の名に値するのはおまえらに憎まれる
者のことだ。・・・おまえらはころころと気が変わり、今けなしていたかと思う
とほめそやす」(一幕一場)
これが彼の大衆論の一端であるが、それはそれで穿っていて、かなりよく大衆
の一面を捉えてもいる。この認識はあながち民衆の敵に固有のものとして葬り去
ることのできるものではない。大衆の側に立つというのは大衆に幻想をいだくこ
とでも迎合することでもない。組織されないかぎり大衆にはこういうところがた
しかにある。それをポピュリストがいちばんよく知っている。ポピュリストやデ
マゴーグと戦う者はそのことを認識というより覚悟として踏まえていなければな
るまい。ドラゴンと戦っているとドラゴンに似てくるという危険はあるが、敵に
学ぶことはしばしば味方から学ぶより有用なものだ。敵を知るとはそういうこと
だ。
「あいつらは囲炉裏端に座ったきりで、さも知ったかぶりに議事堂でなにがあっ
たの、誰が頭角を現しそうだの、誰が浮かんで誰が沈むだの、あれこれ派閥に肩
入れしたり、ガセネタの結婚ばなしを言いふらしたり、あれこれの党派にてこ入
れしたかと思うと気に入らぬ党派は土足で踏んづけるのだ」(同上)
これは今でいうならメディア論として十分に説得力を持つであろう。紀元前四世
紀ローマ市民の民主主義そのものではなく、17世紀初頭のイギリス社会の俗状を、
市民革命前夜というにはまだ少し間があるにせよ、同時代的にも先見的にもシェ
ークスピアの目が映し出したものではあろうが、それは古代ローマにも今日にも
十分通じるものであるだろう。「産む機械」さわぎのバカバカしさ、スキャンダ
ル国会で政策論議が宙に浮いてしまっているのを見てそう思う。
コリオレーナスは、平民に甘い顔を見せて、いちいち彼らのいうことを聞いて
いると貴族の地位は危なくなるという危機感から「貴族たちが情を捨てて私に剣
を揮わせてくれるなら、やつらをずたずたに裂いて槍の穂の届くかぎり死人の山
を築いてみせる」(同上)と歯に絹を着せぬ、正真正銘のハードライナーである。
◎変節の苦き果実――母に屈して
このおよそ現実政治に馴染まぬ男が、軍人の節を守って「闘う機械」に徹すべ
きであった男が、こともあろうに執政官に推挙され、母の懇請もだしがたく、膝
を屈して粗衣をまとい、広場の民衆に、彼がもっとも軽蔑する民衆の前に、戦場
で負った傷痕をさらして一票を請う羽目となる。しかし彼は大衆に媚びるポピュ
リストではない。「美しい国」などと逆説ではないかと思えるような看板を、ぬ
けぬけと掲げるデマゴーグでもない。到底このような屈辱に耐えて己を偽りおお
せるものではなかった。民衆を嘲弄したとして怒りを買い、軍功に免じて死罪は
まぬがれたが単身国外に追放されてしまった。
彼はコリオライのヴォルサイ人将軍オフィーディアスと何度も戦い、そのたび
勝利した。その功によってコリオレーナスの称号を得たのでもあったが、その宿
敵のもとに身を寄せる。忘恩のローマを共に攻めようとの手土産をたずさえて。
オフィーディアスは歓び迎えると見せて配下の精鋭をコリオレーナスにゆだねる。
コリオレーナスは赫々たる戦果をあげ、いよいよローマ入城も近くなった日に親
友メニーニアスが忍んで来て、和を求めるが言下にこれを斥ける。しかしその後、
明日はローマ城壁の前に陣を敷くという日になって、母ヴォラムニアが妻ヴァー
ジリアと一粒種の小マーシャスを従えやってくる。
◎再度の変節そして奈落へ――またしても母に屈して
気丈な母が七重の膝を八重に折り、地にまろぶようにして、ローマを火の海に
はしないでくれと嘆願する。心ならずも執政官の道を選んだときとおなじく、ま
たしても彼は心くじけて復讐を断念することになる。母の、この口説きの場面は
舞台では大きな見せ場であるが、ここから劇は急転回する。
オフィーディアスは戦勝の報をたずさえ一時帰還のコリオレーナスを、あろう
ことか逆賊として元老院に告発する。
「国の長たる元老院のみなさま。彼はみなさまの信頼をうらぎって、わずか数
滴の涙のために、我が手中に落ちたローマを捨てたのです。母と妻とのために。
我が手中に落ちたローマをと、くりかえし申し上げます。宣誓や決議をボロ絹の
ように破って、軍議にもかけず独断で、子守の涙にもらい泣きに泣きじゃくって、
涙もろとも勝利をわっと投げ出してしまったのです」(五幕六場)
すでにオフィーディアスの意を汲んでいる刺客に取り囲まれ、数百年を経て後の
日にシーザーが倒されたのとおなじように、無数の刃を身に受けてコリオレーナ
スは壮烈な最期をとげる。骸となって動かぬコリオレーナスを前にオフィーディ
アスの怒りは消え、悲しみにとらえられる。彼自ら三人の隊長とともに遺骸を担
ぎ、葬送の太鼓打ち鳴らさせ、従う兵士には槍を曳かせて退場する。「敵将なが
ら葬儀は厳かにせねばならぬ」(Yet he shall have a noble memory)という一声を
残して。
◎月とスッポンではあるが
コリオレーナスは二度が二度とも母の言葉に惑わされ、心ならぬ道を選んで身
をほろぼした。マザーコンプレックスそれ自体は多くの男のまぬがれぬところ。
そのあるなしが男の値打ちを決めるものではさらさらないが、その対応を誤ると
大きな悲劇のたねになる。安倍晋三とコリオレーナス、この二人を並べるのは鳶
と鷹、月とスッポンかもしれぬし、悲劇と茶番とのちがいは大きくもあるが、ひ
と刷毛刷いたぐらいは二人はたがいに似ているように思う。
(筆者は大阪女子大学名誉教授)
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