【コラム】宗教・民族から見た同時代世界 特別講演
宗教から見たロシア
私はロシアについては門外漢ですが、メールマガジン「オルタ広場」に「宗教・民族から見た同時代世界」という記事を連載していますので、主に宗教の視点からロシアやウクライナについて、私の思うところをお話ししたいと思います。
まず、ロシアにはどんな宗教があるのか。ある資料によると、ロシア国民の55%が何らかの宗教を信じており、その内訳は、ロシア正教91%、イスラム教5%、カトリック1%、ユダヤ教1%、仏教0.8%となっています。そのほかに自然崇拝的な土着信仰があり、ヒンズー教や道教も僅かながら存在しています。本日は、そのうちのロシア正教とイスラム教を中心にお話しします。
ロシア正教ですが、別のデータでは、ロシアの全国民の約80%が正教と何らかの関りを持つ信徒であるとされています。しかし、ご存知のようにソ連時代には宗教が否定されていたわけで、現在もロシアは「非宗教国家」と憲法に記されています。国民の80%とされる正教の信徒も、その内実を見ると、「神をそれなりに信じている」という人が三分の二くらいで、「定期的に教会に通っている」人は4~5%止まり、「正教の戒律を厳格に守っている」人となると僅か1 %と言われます。ところがプーチン政権になってからロシア正教は大きな政治的影響力を持つようになり、ウクライナ侵攻が始まってからは、キリル総主教がこれを支持して、戦争遂行の一つの大義のように喧伝されるまでになっています。
正教会とは
ロシア正教とはどんな宗教なのか、まずは基本的なことを押さえておきたいと思います。
この地球上には、世界総人口の約3割にあたる22億人のキリスト教徒がいます。その内、カトリック教徒は約13億人、プロテスタント諸派が約5億人、東方正教会の信徒が約3億人とされています。
東方正教会は、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、日本正教会というように、国別・民族別の独立した組織に分かれています。最も大きいのがロシア正教会で、1億1200万人超の信徒がいます。カトリックはローマ教皇を頂点とするピラミッド型の統一組織ですが、正教会はそのような階層化された統一組織でなく、各国の独立した正教会が緩やかに結びあって一体性を守るという組織形態を取っています。ちなみに、日本正教会はロシア正教会の布教活動によって作られ発展してきた独立教会で、ロシアではイエスキリストをイエズスハリストスと言うので、正式な名称は「日本ハリストス正教会」となっています。
正教会の「正教」とは、オーソドックス、ギリシャ語のオルソドクシアで、「権威ある」とか「正統な」という意味です。カトリックは「普遍的」という意味ですけれども、正教会はオーソドックス=権威ある、正統なキリスト教である。つまり、イエス・キリストと12使徒の時代以来の「正当な信仰と教会」を継承しているという主張ですね。
東方正教会とカトリック教会との違い
東方正教会は他のキリスト教とりわけカトリックとどこがどう違うのか。
皆さんはお茶の水のニコライ堂(正式名称;日本復活大聖堂)はご存じでしょう。中に入ると、まず目を引くのは溢れんばかりの金色の装飾やイコン(聖像)、フレスコ画などです。イエスや聖母マリア、諸聖人などをビザンチン美術風に描いた数多くの画像、イコンが壁や天井に並んでいます。ところが、建物の中はガランとしたホールです。カトリックの教会では参列した信徒が座る腰掛がスペースの大部分を占めているのですが、正教の教会の中はただのホールです。信徒は立ったままミサに参加する。カトリックの司祭は髭を伸ばさないが、正教の聖職者は長い顎鬚を蓄えている。十字の切り方も、カトリックでは額から胸へ、次いで左肩から右肩へと切るけれども、正教では反対に右肩に触れてから左肩に触れる。聖体拝領のパンは、カトリックでは酵母を入れないパンですが、正教では酵母入りの発酵パンを使う。そういった儀礼や教会内の取り決めに細々とした違いがありますが、では本質的に何が違うのかと言われると、これはキリスト教の知識に乏しい私たち日本人にとっては説明が困難です。
東方正教会の特徴
東方正教会の特徴をカトリックと対比して列挙しておくと、次のようになります。
・東方正教会は古代教会の継承であり、原始キリスト教の精神に忠実である。
・東方正教会は、西のキリスト教と比べて、「義よりも愛」、「十字架よりも復活」、「罪よりも救い」を重んずる。
・「イエスは神か人か」という議論では、「神人一体」であり、西のキリスト教が「聖と俗」を区別し、「精神」を「物質」の優位に置き、「政教分離」の傾向であるのに対し、東方正教会は、「聖俗一致」、「霊肉一致」、「政教一致」が特徴である。
・カトリックが「煉獄」を認め「マリアの無原罪説」を説くのに対して、正教では「煉獄」を認めず、「マリアの無原罪説」をいわない。
・カトリック神学が「思弁的、体系的」で、神について「知的に学ぶ」のに対し、正教では「信仰体験即神学」である。「信仰の中に生きて、神を体験的に身をもって学ぶ」のが東方正教会の神学である。正教会では神学は教義・理論としてよりも、聖歌、イコン、教会規則、主教たちの書簡や説教の形で提出される。
これらの背景には深淵で高度な神学論議があるようですが、その解説は私の手には負えません。ただ、私としては、正教会とカトリック教会の違いは教義というよりは、むしろ歴史的な流れの中での権力争いから生まれたのではないかと思っています。
古代キリスト教会の東西分裂
そこで、歴史をざっと紐解いてみたいと思います。
ローマ帝国が4世紀にキリスト教を公認して以来、キリスト教はローマ、コンスタンティヌポリス(現在のイスタンブール)、エジプトのアレクサンドリア、トルコ南部のアンティオキア、そしてエルサレム、この「5大総主教区」のもとで発展してきました。
5世紀末に西ローマ帝国が滅亡した後のローマは、ギリシャ文明を引き継いだ東ローマ帝国のコンスタンティヌポリスに後れを取ってきたのですが、やがて神聖ローマ帝国のもとで西ヨーロッパ世界が力をつけて来るにつれて「ローマ教皇の絶対的権威」を主張し始め、それを認めないコンスタンティヌポリスと9世紀頃から対立が深まってきます。聖霊を巡る教義解釈での論争や、さらにコンスタンティヌポリス教会内部の争いにローマ教皇が介入したことから対立が激しくなり、1054年にコンスタンティヌポリス総主教とローマ教皇が互いに破門し合う事態となって、ここでローマは5大総主教区体制から離脱して、東西の教会が分裂したわけです。
ヨーロッパの歴史をよく知らない日本人は、東方正教会というのはローマ・カトリック教会から分離した異端の地方的な宗派といったイメージを持ちがちですが、事実は逆なのです。喧嘩を売って、飛び出したのはローマの方だった。こうした経過から、コンスタンティヌポリスを中心とする東方正教会は、自らを使徒の時代以来のキリスト教信仰を厳格に守り継承する「正当な教会」だと主張するわけです。
スラブ地域への東方正教会の進出
こうして東方正教会とカトリック教会が生まれたのですが、この東西分裂の以前からコンスタンティヌポリスの教会はバルカン半島や東欧・スラブ地域への布教を進めていたので、これら地域が正教会の版図となりました。スラブ地域への布教は、9世紀にコンスタンティヌポリスから派遣されたギリシャ人宣教師の兄弟が、無文字言語であったスラブ語を表記するために文字を考案し、それをもって聖書や祈祷書をスラブ語に翻訳したことに始まると言われています。スラブ語の文字をキリル文字と言うのは、その兄弟の一人キリルスの名に由来するものです。
10世紀にはキエフ・ルーシ(キエフ大公国)のウラジーミルⅠ世が正教を受け入れて、これを国教と定め、宗教的・文化的基盤を整えました。このキエフ大公国がウクライナやロシアの母体となったわけですが、キエフ大公国は13世紀にモンゴルの侵攻によって衰退し、北方のノブゴロド大公国やモスクワ大公国が東スラブ地域で力を持つようになります。また、13世紀に入ると東ローマ帝国のコンスタンティヌポリスは十字軍の攻撃で衰退し、1453年にオスマン帝国によって東ローマが滅亡すると、モスクワのロシア正教会が「コンスタンティヌポリスの継承者」を自称するようになりました。
ロシアとウクライナ~ともに「キエフ・ルーシ」をルーツとする
ここで、ロシアとウクライナの関係を理解するために、もう少し詳しく歴史を溯っておきたいと思います。
現在のロシアとウクライナを隔てる国境線は実はソ連時代にできたものですが、両国が絡み合う歴史は9世紀から10世紀に栄えたキエフ・ルーシに遡ります。イスラム教徒が地中海を抑えていた当時、これを避けてバルト海と黒海の間を河川で結ぶ交易路が作られ、ウクライナを南北に流れるドニエプル川などの河川沿いに公国と呼ばれるいくつかの都市国家が生まれました。これらの都市国家は現在のウクライナの首都キエフを中心にキエフ・ルーシ(大公国)と呼ばれる緩やかな連合体を作りました。
キエフ・ルーシは、コンスタンティヌポリスを中心とするビザンツ帝国(東ローマ帝国)と並ぶ大国として栄えました。このキエフ・ルーシをルーツとするのが、現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシの三国です。それは国の名前にも表れており、ロシアとベラルーシは共にルーシを語源にしています。三国に共通する言語表記はキリル文字です。つまりキエフ・ルーシが、ウクライナ、ロシア、ベラルーシの宗教的文化的センターであり、故郷であったわけですね。
キエフの衰退とモスクワの隆盛
13世紀のモンゴル侵攻でキエフ・ルーシは衰退し、キエフの北東に位置するモスクワ公国が急速に台頭しました。1326年にスラブ地域の正教の中心的権威であった府主教座がキエフからモスクワに移ります。さらに、1453年に当時のキリスト教世界の中心で、「第二のローマ」と呼ばれたコンスタンティヌポリスがオスマン帝国に滅ぼされると、モスクワこそが「コンスタンティヌポリスの継承者」で「第三のローマ」だと主張するようになります。「第一のローマは堕落し、第二のローマは異教徒の手に落ち、第三のローマ、モスクワこそが世界の盟主である。第四のローマはない」というのが今日に至るまでロシア人の好きな言葉です。
モスクワ公国の隆盛と対照的にキエフは衰退し、ウクライナはポーランド・リトアニア大公国の支配下に入り、カトリックの影響力が強まります。ポーランドの支配に抗して、17世紀半ばにウクライナで正教徒の武力共同体であったコサックが反乱を起こしてモスクワと同盟を結び、ドニエプル川左岸地域がロシアの支配下に組み込まれました。さらに18世紀後半のプロイセン、オーストリア、ロシアによるポーランド分割に際して、右岸もロシアに併合され、ウクライナ全体が帝政ロシアの版図に入りました。ここでウクライナはロシア帝国の一地方となったわけです。
ソヴィエト体制下でウクライナ国家ができる
帝政ロシアにおいては、ロシア、ウクライナ、ベラルーシはおしなべてロシア皇帝が統治する単一のロシアで、住民はみな等しくロシア人でした。ところがロシア革命後、ソヴィエト政権は民族自決の世界史的潮流を背景に、ウクライナやベラルーシの人々を独立した民族、別個の国と認め、ロシアやウクライナ、コーカサスなど各民族共和国が、ソヴィエトの理想(すなわち労農兵の連帯による革命の理想)によって結合した連邦国家を構成するという概念を立てました。かくしてウクライナは、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国となってソ連の政治体制に統合されつつ、一定の自治権を享受することになったわけです。いわばソ連共産党が図らずも後の政治的な火種となる民族を創出したということでしょうか。
1991年にソ連が崩壊すると、ウクライナは他の連邦構成共和国とともに独立し、幾度かの政変を経て、ロシアとも対立しつつ、独自の路線を歩んできました。これが現在につながるロシアとウクライナの歴史関係です。
プーチン大統領が大ロシアの復興を目論んでいるとするならば、ウクライナの離反が許せないことは明らかです。プーチン大統領が構想する「大ロシア」にとって、キエフ・ルーシは欠くことのできない正統性の根拠です。しかし同時にウクライナ人にとってもキエフ・ルーシは独自のアイデンティティの源泉です。いわば「兄弟喧嘩」の一面をもつ紛争が、世界全体を巻き込む危機に転じつつ、行方も知れぬまま続いているわけです。
その後のロシア正教会
ロシア正教の歴史に戻りましょう。
モスクワはコンスタンティヌポリスの権威を引き継ぐ形で東方正教会全体に力を持つようになったのですが、宗教による民衆支配のうまみに目を付けた歴代ロシア皇帝は正教会への介入を強め、18世紀には皇帝直属の機関「聖務会院」が教会を管理するようになりました。
1917年ロシア革命後のソヴィエト政権は、旧勢力を支えた宗教は「麻薬」として、苛烈な宗教弾圧を展開しましたが、教会側はスターリン政権への協力や第二次大戦中の祖国防衛への貢献などによって命脈を保ちました。
ソ連崩壊後息を吹き返したロシア正教会は、プーチン政権時代に入ると、政権の庇護を受けつつ急拡大を果たします。隆盛の背景には教会側の二つの活動があったと言われています。一つは民衆への手厚い奉仕活動です。社会主義からグローバル資本主義へと急転換を遂げたロシアでは、政権との癒着を梃子にオルガルヒと呼ばれる極端な富裕層が生まれた半面、多くの人々が失業し6人に一人が最低水準以下の暮らしと言われる超格差社会を形作りました。そこで教会は信徒の地域共同組織である「オプシーナ」を基盤に、ホームレスや貧しい年金生活者に食料や生活必需品を配る活動を行いました。急激な価値観と生活環境の変化からアルコール依存や孤立状態に陥った人々をオプシーナに受け入れることで、癒しや再生の機会を提供する活動を展開したのです。
もう一つは国家権力との結びつきの強化です。教会では日々、信徒に政権への支持を説き、選挙では集票マシンの役割を果たしました。国家権力者を聖なるものとして称え祝福し、チェチェン紛争やグルジア紛争では聖職者を現地へ派遣して、勝利への祈りを捧げ、兵士の士気を高めたりもしました。教会は子供たちへの愛国教育にも協力しています。「軍事愛国団」という組織を作って、元軍人の指導で射撃や突撃などの軍事訓練をしているということです。
このように、正教会は福祉活動を通じて民衆に深く浸透しつつ、国家権力への忠誠や奉仕を鼓舞することで政治権力への迎合を図ったのです。宗教はしばしば権力と癒着します。それは双方にメリットがあるからですが、正教会はとりわけその傾向が強いようです。
政権との癒着を強めるロシア正教会
横道にそれますが、日本の正教会では祈りの際に、「今上天皇、皇后、および皇族のために祈らん」というフレーズが必ず唱えられます。「権力者は神によって権力を与えられた者。だから権力者のために祈りなさい」という教えだそうです。プーチン政権とロシア正教会との関係は、2009年にモスクワ総主教にキリル氏が就任すると、ますます親密化します。キリル総主教は、プーチン大統領と同じサンクトペテルブルグの出身で、一時KGBの工作員だったと噂されてもいます。イギリスの新聞タイムズ紙は、「キリル氏は神学校に通い始めた1972年にKGBからリクルートされ、25歳でKGBの工作員になった」と報じました。その真偽はともかく、以来二人は一種の「盟友」として見事な二人三脚でやっています。
プーチン大統領は、ウクライナに侵攻する前年の7月に「ロシア人とウクライナ人の歴史的な一体性について」と題する論文を、政府の公式ウェブサイトに掲載しました。これがプーチン大統領のウクライナへの基本姿勢として語られていますが、このアイデアをプーチンに吹き込んだのはキリル総主教と言われています。だからこそ、キリル総主教はウクライナへの侵攻を聖戦と称えて祝福しているわけです。
昨年5月にモスクワの大聖堂でプーチン大統領の通算5期目の就任式が祝われましたが、キリル総主教はプーチンに「あなたの生涯が終わる時が政権の終わりになって欲しい」と述べて、終身大統領になるように求めました。
ウクライナの正教会
ここでウクライナの正教会についても触れておきます。ウクライナ正教会はもともとロシア総主教の承認のもとにあったのですが、2014年のロシアによるクリミア併合に反発して、ウクライナ独自の正教会を作ろうとする運動が急速に高まりました。2018年に一部のウクライナ正教会が、モスクワの承認を得ず、コンスタンティノープル総主教の承認によって独立を宣言します。これにモスクワ総主教は激怒、コンスタンティノープルと断絶し、さらにウクライナ正教会の独立を承認した世界各地の正教会と関係を断絶してしまいました。その結果、ウクライナ正教会は、モスクワ総主教系のウクライナ正教会(UCO)と、独立派のウクライナ正教会(OUC)に分裂し、ウクライナには二つの正教会が存在することになりました。
22年のウクライナ侵攻が始まると、多くの信徒がモスクワの管轄下にあるUCOを離れて、独立派のOUCに移りました。戦争下で2つの正教会の対立は、新たな残酷な事態を引き起こしました。独立派正教会はロシア軍の攻撃目標になり、その地域がロシア軍に占領されると聖職者が投獄されたり、殺害されたりしています。一方、モスクワ派正教会の聖職者たちはロシア軍の占領下で、これに協力するわけですが、ロシア軍が撤退すると、ロシア軍とともに逃亡を余儀なくされます。双方の正教会ともに相互不信の悲惨な状況が起こっているようです。
ロシアは独立系ウクライナ正教会を認めず、すべてをモスクワ総主教の管轄下に置くことを主張していますが、ウクライナ側も昨年8月に、「ロシアと関係する教会の解体を可能にする法律」を制定し、モスクワ派正教会の解体をめざしています。
ウクライナには他に東方典礼カトリック教会(ユニエイト教会/典礼祭儀は正教会で、教義はカトリックの教義を受け入れる教会)やプロテスタントもありますが、ここでは割愛します。
イスラムとは
ロシアには全人口の約5%、数百万人のイスラム教徒がいますので、イスラムについても見ておきたいと思います。まずはイスラムとは何か、基本的なことからお話します。
イスラムと言うと、即イスラム過激派というイメージが強い今日この頃ですが、それは事件中心のメディアが作り上げた一面的な姿であって、私の知る限り、ほとんどのイスラム教徒は私たちと変わらない普通の人たちです。イスラム教の信者は、アッラー(神)の存在を信じ、預言者ムハンマドの言葉を信じ、五行(アルカーン)を実践する人たちです。すなわち、信仰、礼拝、断食、巡礼、喜捨の5つの宗教的義務を守ること。同時に、豚肉を食べない、酒を飲まない、賭け事や高利貸しをしない、結婚や離婚の手続き、遺産相続、埋葬の仕方など、シャリーアと呼ばれる生活・社会規範をできるだけ守る。こうして、日々の生業に励み、家族を愛し、地域の福祉活動や教育活動に力を注ぐことを理想として、平穏な暮らしを望んでいる普通の善良な人々なのです。彼らがかわす挨拶「アッサラーム・アライクム(あなたに平和を)」がそれを象徴しています。
イスラム過激派の起源
しかし、そういう穏やかな人たちの中から、時には暴走する過激派が現れることも事実です。
イスラム圏の人たちは、一般に近代に入ってから、厳しい状況に置かれてきました。中世にはヨーロッパよりも進んだ文明の栄華を誇った中東イスラム世界ですが、19世紀以降、英、仏、露など西欧列強の野心に翻弄され、20世紀に入ってからは米国も加わって、石油や地政学的な利害をめぐる陰謀や戦争の惨禍に絶えず翻弄されてきました。そこで、人びとにルサンチマン(憤り・怨恨・憎悪といった情動)がたまっていったのですね。
ヨーロッパで迫害されたユダヤ人たちが欧米の後ろ盾で建国したイスラエルによって故郷を追い出されたパレスチナ難民の境遇や、2001年の「9.11」(同時多発テロ)の後アメリカがテロとの戦いを口実に行ったアフガニスタンやイラクへの攻撃は、イスラム教徒全体への攻撃、迫害と捉えられ、イスラムの人々の怒りの的になってきました。最近ではもちろんパレスチナ・ガザの状況ですね。イスラム教徒はもともと国や民族を超えて「イスラム教徒はみな同胞」とする意識が強く、連帯感が強い。ですから、パレスチナで、あるいはアフガニスタン、イラクで、日々同胞が苦しめられ殺される様を見聞きすれば、イスラエルやアメリカへの敵愾心にかられるイスラムの若者が現れても不思議なことではありません。
いわゆるイスラム過激派、アルカイダにしてもIS(イスラム国)にしても、その起源は欧米帝国主義支配の結果作り出された民族紛争や戦争の中から出てきたものなのです。それは欧米諸国に住むアジア系アラブ系のイスラム教徒にとっても同じです。移民先での貧困、失業、差別に加え、「イスラム教徒=テロリスト」の偏見、嫌がらせや脅迫、人権無視の警察捜査に耐えなければならない。低俗な大衆ジャーナリズムやSNSが偏見を一層煽り立てる。傷つき、孤独感、疎外感を深めた若者が、欧米市民社会への反感・憎悪を募らせたとしてもそれは無理からぬことと言わざるを得ません。
イスラムの教えにはない自爆テロ
こういった状況から自爆テロも生まれました。無差別に市民を標的にするテロ行為は動機が何であれ、断じて許せるものではありません。しかしテロとは多くの場合、圧倒的な強者に対して弱者が仕掛ける捨て身の意思表示であり、それは社会的政治的な事柄であって、本来イスラムとは無関係なことです。
実はイスラムでは、テロや殺人さらに自殺をも、これを明確に禁止しています。
聖典クルアーン(コーラン)は、「人を殺した者、悪事を働いたという理由もなく人を殺した者は、全人類を殺したのと同じである。人の生命を救う者は、全人類の生命を救うのと同じである」と説いています。預言者ムハンマドは「来世で最初に裁かれるのは殺人についてである」と語っています。
自爆テロという自殺行為についても、クルアーンは、「信仰する者よ、あなたが自身を殺したり、害したりしてはならない」と戒めています。
西欧キリスト教世界が広めたイスラムへの偏見
もう一点、西欧キリスト教世界のイスラム世界への眼差しとその影響を受けた私たち日本人のイスラム理解についても振り返っておくべきでしょう。19世紀にヨーロッパで産業革命が起きるまで、そして20世紀初めにオスマン帝国が滅びるまで、イスラム世界は1000年以上にわたって西欧キリスト教世界が到底及ばない高度な文明と経済的繁栄を誇ってきました。8世紀から15世紀までイベリア半島のスペインなどキリスト教世界の一部がイスラム世界に組み込まれたこともあります。西欧にとってイスラムは長らく乗り越えるべき敵とも言うべき存在でした。この歴史的経験から、西欧にはイスラムに対する複雑な感情と敵意があります。そこから、「イスラムは『右手に剣、左手にコーラン』の好戦的な宗教である」とか、「一夫多妻の性的に乱れた宗教である」といった偏見が広められ、逆に19世紀に西欧の優位が確立されてからは「東洋の後進性」を殊更強調して植民地支配を正当化したり、あるいは甘美な異国趣味をくすぐる「オリエンタリズム」が広められたりしました。
イスラムの知識を西欧から輸入してきた私たち日本人のイスラム理解も、この偏見を免れていない面がある。例えば、私たちはかつてイスラム教をマホメット教と呼んでいました。マホメットはムハンマドを西洋風になまって読んだものです(クルアーンをコーランと呼ぶのも同じ)。西欧人はイスラム教を、神ではなく預言者ムハンマドを崇敬する宗教と誤解してマホメット教と呼んでおり、その誤解が日本にもそのまま輸入されたのです。
「ジハード」という言葉も誤解されています。ジハードはアラビア語で「努力」、特定の目的のために努力する意味で、本来、戦争の意味はない。しかし、西欧人はこれをHoly warと訳しました。これを日本語訳してジハード=「聖戦」となったわけですが、この言葉が今ではイスラムの好戦性の証左のように理解されているんですね。
チェチェン紛争
ロシアにもイスラム過激派はいます。まず思い浮かぶのはチェチェン民族の一部です。ソ連崩壊後2度にわたるチェチェン紛争が起き、モスクワでの劇場襲撃事件や、北オセチア・ベスラン市の学校人質事件など、大規模なテロ事件が度々発生しました。まずはロシアとチェチェンの関係史をざっと振り返っておきます。
チェチェン共和国は、黒海とカスピ海を繋ぐカフカス山脈の北側の山岳地帯にあります。この地に住むイスラム教徒たちは、16世紀半ばのイヴァン雷帝による侵攻以来、ロシアの南下に激しく抵抗してきました。とりわけ18世紀末から最終的にロシア帝国に併合される1859年まで続いた戦いは激烈で、この間にチェチェン人の人口の半数が殺されたと言われています。
1917年のロシア革命後に成立したソ連邦は、当初は民族自治を掲げましたが、スターリン時代に弾圧政策に転じ、第二次大戦末期の1944年には「対独協力の懼れあり」として、チェチェン民族全体が中央アジアのカザフスタンに強制移住させられました。移動中や移住先の劣悪な環境から、「当時の人口の40~60%が死亡した」とされています。スターリンの死後1957年に故郷への帰還を許されますが、そこには既にロシア人が大勢入植していました。
1991年のソ連解体に際して、チェチェンはドゥダエフ初代大統領のもとで独立を宣言します。94年、エリツィン大統領は分離独立を阻止するため4万のロシア軍を侵攻させました(第1次チェチェン紛争)。チェチェン側はこれにゲリラ戦で抵抗し、96年に停戦が実現するまでに一般市民10万人以上が犠牲になりました。1999年末にエリツィン大統領が突然辞任し当時首相だったプーチンが翌年大統領になるわけですが、その前の99年9月に「第2次チェチェン紛争」が起こります。プーチンが指揮した制圧作戦はさらに徹底的で、20万人近くが殺害されました。ソ連解体直後90年代初頭のチェチェン人の人口は約100万人でしたが、この紛争に一応決着がついた2005年までの間に、3分の1近い30万人が死亡したとされています。
2000年5月、独立派を破ったプーチン政権はチェチェンにカディロフ(現チェチェン共和国首長カディロフの父)を大統領に据えて傀儡政権を立て、軍・警察による間接支配に移りました。しかし、「ゲリラ狩り」と称する市民の拉致や拷問、裁判なしの処刑が横行し、2000年からの5年間で1万8000人の行方不明者が出たと言われています。
スーフィズムが支える民族の誇り
チェチェン民族は過酷な苦難を受け続けてきたわけですが、彼らが苦難に耐えて守ろうとしたものは、その宗教であり民族の誇りです。チェチェンにイスラム教が入ったのは16世紀から18世紀にかけてです。中でも「イスラム神秘主義」と呼ばれるスーフィーがこの地域では大きな影響力を持ちました。
スーフィーというのは、9世紀ごろからイスラム主流派(スンニ派)の立法主義、形式主義を批判して盛んになってきた一派で、忘我の境地で神と一体化する神秘体験を追求する、いわばイスラムの異端派です。その神秘主義は土地の土着の宗教観念や儀礼とも融合しやすい性質を持っています。
スーフィーは、イスラムが一般に忌避する音楽や舞踊を積極的に活用して、グルグルと旋回して舞う踊りを儀礼としてよく行います。旋舞で高まる恍惚感のなかで神と一体化する神秘体験を得る。チェチェン人の旋舞はとりわけ熱狂的で、円陣を組んだ男たちが手拍子を打ち、大地を踏み鳴らし、身体を激しく動かして舞いながら神を称える。熱狂と恍惚感は、仲間同士の連帯感を高揚させ、戦う勇気を鼓舞します。
加えて、山がちの厳しい環境に暮らすチェチェン人たちは、伝統的に王侯貴族や奴隷といった階級を作らず、長老の元で村ごとの自治を行ってきました。そこで育まれた「平等と自由」、「連帯意識と愛郷心」、「自己犠牲と尚武」の気風が、チェチェン人を特徴づけています。ロシアの作家ソルジェニーツィンはその著書「収容所群島」の中で、「収容所においても服従を拒否し、敵意を隠そうとさえせず、昂然と胸を張るチェチェン人」に讃嘆の声を上げています。
チェチェン紛争とは何だったのか
では、ロシアがチェチェン独立派にかくも強硬な対応をとったのはなぜでしょうか?
それは、一つには多民族国家ロシア連邦内で他の少数民族に独立運動が波及することを懼れたからです。二つ目はチェチェンが世界有数のカスピ海油田から黒海沿岸に繋がるパイプラインの通り道にあたるからで、第三に権力者が失政を隠し、国民の不満を逸らせて求心力を高めるには、戦争が最も安易かつ効果的な手段だからだと言われています。
「先のチェチェン戦争は、エリツィン大統領の再選のために必要であった。今回の戦争はエリツィンが自ら選んだ後継者プーチン首相が、世論調査で順位を上げるために必要とされている」。米下院でこう証言したのは反体制物理学者アンドレイ・サハロフ博士の未亡人エレーナ・ボンネル女史です。
「テロとの戦いを掲げる米国は、ロシアのチェチェン侵攻を容認した。しかし、ロシアがやっていることは『テロとの戦い』ではなく、『無差別殺戮』であり、『民族浄化』だ」。こう言ったのは、後に何者かに暗殺されたロシアの女性記者アンナ・ポリトコフスカヤでした。
続発した大規模テロ事件
さて、軍事的に制圧されたチェチェン独立派はテロ攻撃に転じました。国際的に大きな衝撃を与えた大きな事件としては、2002年10月モスクワのドゥブロフカ劇場占拠事件があります。チェチェン共和国独立を掲げる武装集団がモスクワの劇場を占拠して、観客ら922人を人質に立てこもった。占拠3日後、治安部隊が特殊ガスを使って鎮圧したのですが、襲撃犯42人に加え人質129人が死亡した痛ましい事件です。2004年9月の北オセチア共和国ベスラン市における学校占拠事件も衝撃的でした。7歳~18歳の少年少女とその保護者1181人が人質となり、4日間の膠着状態の後、治安部隊が突入して犯人グループと銃撃戦を展開。人質386人以上(うち186人が子供)が死亡し、負傷者も700人以上という大惨事となりました。
モスクワの劇場占拠事件には後日談があり、全員射殺されたとされる襲撃犯の中でただ一人生き残った人物がおります。襲撃を計画し指揮した首謀者で、ハンパシ・テルキバエフという男です。実は、彼はプーチン政権の工作員だった。そのことを後にアンナ・ポリトコフスカヤ記者に告白しました。つまりこの事件はロシア諜報機関の自作自演であって、事件の鎮圧後、プーチン大統領の支持率は一挙に82%に跳ね上がったのです。アンナ・ポリトコフスカヤはこの事実を独立系新聞ノーバヤガゼータで公表しました。翌年、テルキバエフはチェチェンで自動車事故により謎の死を遂げ、ポリトコフスカヤも2006年自宅アパートのエレベーター内で何者かに射殺されました。
その後も続く社会不安~ダゲスタン共和国が過激派の拠点に
チェチェン独立派はアルカイダやISなど国際的イスラム過激派組織との結びつきを強めています。
チェンチェンの東隣にはダゲスタン自治共和国があります。チェチェンと山続きの土地で、帝政ロシアの支配下にある時からチェチェン同様に苦難をなめてきました。2000年代初めにチェチェンがロシアと手を組んだカディロフ政権によって抑え込まれると、チェチェン独立派の多くがタゲスタンに移り住み、そこに国外の過激派勢力が入り込んで、今やダゲスタンがイスラム過激派の活動拠点になっています。
2015年にはIS(イスラム国)が支部設立を宣言しました。2014年のソチ冬季オリンピックを脅かした路線バス爆破事件の犯人はダゲスタン出身の女性で、チェチェン独立紛争などで夫を亡くした女性たちの組織「黒い未亡人」のメンバーでした。昨年6月にもロシア正教会の祝日「聖霊降臨祭」の日に正教会の教会とユダヤ教の礼拝所(シナゴーグ)が武装集団に襲撃され、多くの死傷者が出ました。このようにダゲスタンでは現在も不穏な情勢が続いています。
「旧ソ連圏の最貧国」タジキスタン
ロシアにおけるイスラム過激派の事件で記憶に新しいのは、昨年3月のモスクワ郊外クロカスシティ・ホール襲撃事件です。プーチン大統領が5選を決めた5日後の夜でした。ロックバンドの開演を待つ満員のホールに侵入した男たちが自動小銃を乱射し、火を放って、大勢の人が殺害されました(死者145人、負傷者551人)。実行犯4人を含む関係者11人が当局に逮捕されましたが、その実行犯4人は全員が中央アジアのタジキスタン出身でした。パミール高原の麓に位置するタジキスタンもイスラムの影響が強い土地柄です。ソ連解体で独立した直後の1992年には、旧共産党系の政府とイスラム勢力が対立して内戦となり、ロシア軍が介入して、共産党系のラフモン大統領が権力を握り、現在もその独裁体制が続いています。「旧ソ連圏の最貧国」と言われ、アフガニスタンと隣接していることもあって、タジキスタンはISなどイスラム過激派戦闘員の主要な供給地となっています。
タジキスタンは旧ソ連圏の最貧国、ダゲスタンはロシア連邦内の最貧国です。ここに一つの構図が見えてきます。中心となるロシア(正教会圏)と、その南西を弓なりの弧を描いて囲む周縁の中央アジア・北カフカス(イスラム圏)。この中心と周縁の間にしばしば発生する緊張と対立が、ロシアとその周辺の宗教状況ではないでしょうか。
ウクライナ戦争とロシアの少数民族
最後にもう一度ウクライナに戻ります。
ロシア国内の多くの少数民族がロシア軍兵士として前線に送られているようですが、ダゲスタン共和国からも多くの兵士がウクライナに動員されています。表は、22年8月時点での今次ウクライナ戦争のロシア側戦死者数です。2022年2月に侵攻が始まってから6か月間の数字ですが、ダゲスタン出身の兵士が267人と一番多く戦死しています。モスクワ出身が14人、サンクトペテルブルグ出身が37人ですから、少数民族出身兵の戦死者がいかに多いかわかります。
ロシア側で戦うチェチェン出身兵の戦死者は122人です。一方、国外に拠点を置くチェチェン独立派の義勇兵はウクライナ側から参戦しているので、双方がウクライナで戦っている状況です。
2014年から始まった東部ドンバスでのウクライナ内戦では、チェチェンのカディロフ首長が「カディロフツィ」と呼ばれる私兵を親露派義勇軍として参戦させ、一方、独立派も「カジョハル・ドゥダエフ大隊」や「シェイク・マンスール大隊」などの名前でウクライナの親欧米政権側に立ってドンバス戦争に参戦していました。
カジョハル・ドゥダエフは1991年にチェチェン独立に動いた初代大統領の名前です。シェイク・マンスールは18世紀後半にチェチェン軍を率いてロシアと戦った英雄的イスラム指導者の名前です。同じチェチェン人がウクライナで敵味方に分かれて戦っている。このように、現在のウクライナ戦争は、ロシアのチェチェン共和国にも繋がり、ロシアの少数民族問題をも炙り出しています。(了)
ウクライナでの戦死者数(22年8月現在 BBC)

•本講演録は、25年2月8日に行われた日ロクラブでの荒木重雄氏の報告を、当日のテープをもとに国際親善交流センター(JIC)伏田昌義氏が整理・文章化したものを、両氏のご厚意によりオルタ広場に掲載させていただきました。
(2025.5.20)
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