【コラム】槿と桜(129)
定年制と韓国社会
一定の年齢になると、それまで企業や官公庁などの組織と結んでいた雇用関係が終了し、退職することになります。このような制度が「定年制」と呼ばれるもので、日本ではほとんどの企業、事業体で導入されています。ただし、正規雇用者として就業していた人に限られます。
この定年制は世界共通ではなく、たとえばアメリカやイギリスにはありませんが、日本では1994年に「高年齢者等の雇用の安定等に関する法律」(「高年齢者雇用安定法」)が改正されて、60歳未満での定年が禁止され、1998年から60歳定年制が義務化されました。
日本では雇用形態として終身雇用制が定着していたため、法律の改正以前から企業側が60歳定年制をすでに導入している所が多くあったため、企業側からの反発などといった社会的な混乱は起きませんでした。しかも、2004年には「高年齢者雇用安定法」の再改正を行い、65歳までの雇用確保を段階的に進めることとして、2006年からは、①65歳までの定年の延長、②希望者の継続雇用制度の導入、③定年制の廃止のいずれかの措置をとるようにと企業に求めていました。そして、この経過措置が終了し、2025年4月からは「65歳までの雇用確保」が完全に義務化されました。
これによって、65歳未満を定年としていた企業は65歳まで安定した雇用を確保する措置をしなければならなくなりました。ただし、企業側には3つの選択肢があることからもわかりますが、「65歳までの定年延長」が義務化されたのではなく、「65歳までの雇用機会の確保」が義務化されたということになります。しかも現在は、「高年齢者雇用安定法」が2021年にさらに改正されて「70歳までの就業機会の確保」などが努力義務になっていて、いずれ日本では定年年齢を70歳にまで延長する企業も現れて来ることになるのでしょう(すでに実施している企業もあります)。
では韓国ではどうなのでしょう。
韓国では2013年4月に「雇用上の年齢差別禁止および高齢者雇用促進法改正法」が国会で可決され、それまで「努力義務」でした60歳以上の定年が、2016年からは従業員数300人以上の企業や事業機関に、従業員数300人未満の企業や事業機関には2017年から60歳定年が義務化されました。
こうした動きの背景には少子高齢化社会があることは言うまでもありませんが、しかし、60歳定年が義務化されたことで、すべての企業や事業機関の従業員が60歳まで勤めることができているわけではありません。特に大企業では、その傾向が強いと言われています。
たとえば、サムスン電子は45歳定年制度を導入しています。世界的に競争が激しい企業では技術革新や販路の開拓、需要のめまぐるしい変化への敏速な対応が求められます。そのため常に新しい人材、優れた知識の注入が必要となり、その結果、経営的な観点からも早期退職を実施しているのでしょう。しかし45歳での定年となりますと、それなりに経験を積んできた人材を退職させてしまうのですから、こうした人材をその後どのように活用するのか、働く側に立って考えますと、かなり大きな問題を韓国社会は抱えていることになります。それがサムスン電子だけではなく、その他の大企業でも早期退職制度が一般化しているだけに、現在、さらに長期雇用化を実現しようとしている日本とは大きく異なっています。
この早期退職とは、韓国では「名誉退職」と呼ばれているもので、日本での「勧奨退職」にあたるものです(「肩たたき」などとも言われているようです)。つまり、本人は退職するつもりはなく、働き続けるつもりでいるにもかかわらず、退職するように促されてしまうのです。
韓国統計庁が毎年、実施する調査「経済活動人口調査 高齢者付加調査」の2022年に関する報告書に依りますと、55歳から64歳の人が「最も長く働いた職場を退職した年齢」は平均49.3歳(男性51.2歳、女性47.6歳)でした。義務化されたはずの「60歳定年」からは大きくかけ離れています。
離職した理由は個人差もありますが、やはり雇用者側の都合によって退職せざるを得なかった人が多数で、男性では事業不振、操業中断、休・廃業、辞職勧告、名誉退職、解雇といった理由でした。本人が望まない「勧奨退職」(「名誉退職」)が一般化していることが伺えます。
日本では65歳で定年となった高齢者が何歳頃まで収入を伴う仕事をしたいか、又は、したかったかというアンケート調査では、「65歳くらいまで」が23.7%で最も多く、次いで「働けるうちはいつまでも」22.4%、「70歳くらいまで」20.0%と、65歳以上だけでも働く意欲を持つ高齢者が4割以上いて、「仕事をしたいと思わない」高齢者は11.3%に過ぎませんでした。(内閣府2024年高齢者の経済生活に関する調査結果)
そして実際に働いている高齢者の年齢層別では、65〜69歳が52.0%、70〜74歳が34.0%、75歳以上が11.4%とこれまでの過去最高となっています(総務省統計局2024年9月)。
日本が定年を70歳まで延長しようとしている理由が理解できるような統計数字と言えるでしょう。なにしろ65歳で定年となった高齢者の半数が実際に働いているのですから。
一方、60歳定年が義務化されながら、現実には定年年齢がそれよりも早い韓国の中高老年層の働きたいという意欲が日本より高くなるのは当然と言えます。上述で資料として参考にしました韓国統計庁の「経済活動人口調査高齢者付加調査」結果を見ますと、55~79歳(男女)で「将来、働きたい」とした人は68.5%に昇っていました(この比率は毎年上昇しています)。
また調査資料が異なりますが、「現在働いている65歳以上の高齢者」の割合は2024年11月に公表された韓国保健社会研究院の報告書「高齢者の経済生活の特性と変化:仕事と所得」によりますと、2023年には39%と4割近くになっていました。
これらの高齢者の「働く理由」は77.9%が「生活費を得る」ためで、ほぼ8割に昇っています。このように生活費を得なければならないのは、老後に得られる年金支給額が少ないことが最大の理由です。韓国の年金制度は、①一般国民が加入する国民年金、②国公立学校の教職員と公務員を対象とした公務員年金(1961年導入)、 私立学校の教職員が加入する私立学校教職員年金(1975年教員対象、1978年職員も含まれて導入) 、軍人が加入する軍人年金(公民年金から分離して1963年導入)、郵便局職員を対象とした別定郵便局職員年金(1992年導入)といった特殊職年金に分けられます。
多くの国民が加入するのが①ですが、導入されたのは1988年で、国民皆年金になったのは、わずか25年ほど前の1999年でした。また2008年からは高齢者の基本的な所得を保証する公的扶助方式の基礎年金制度も導入されました。
しかし国民年金制度導入の歴史が浅いため受給額は少なく、年金収入だけで生活はできないのが実情です。
日本では、法律で定められた定年制が守られ、長期雇用や再雇用制度が取り入れられています。平均勤続年数も長く、一つの企業で定年を迎える人が多くいます。一方、韓国ではすでに見てきましたが、法律では60歳定年ですが、実際には早期退職が一般的です。短期雇用も当然視される韓国では経済的に不安定で、老後の人生設計もできないような人も少なくありません。
その結果、韓国では高齢者の貧困率がOECD加盟諸国中で最も高くなってしまっています。早期退職による短い勤続年数は個人貯蓄にも影響し、貯蓄だけで生活するのは困難で、就業の継続を望む人が多くなるのは当然でしょう。また、国民年金制度が導入されたのが遅く、年金給付額が少なく、高齢者の公的扶助方式の基礎年金制度も不十分です。
このように韓国の定年制を見ますと、何よりも法律で定められた60歳定年がきちんと守られていないことが大きな問題です。また、多くの国民が年金だけで生活するのが困難です。それだけに60歳までの長期、安定雇用はなんとしても実現されなければならないでしょう。そうでなければ高齢者の貧困率はさらに上昇してしまう可能性があります。
大妻女子大学教授
(2025.6.20)
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