【コラム】八十路の影法師
宣教師 ヘボン
日本語をローマ字でつづる方法のうち、最も普及していると思われるのは「ヘボン式」です。これの起源となり、また普及を推進したものは前述しましたように(『オルタ』前号、「ローマ字あれこれ」)ジェームス・カーティス・ヘボンによる『和英語林集成』だといわれています。ローマ字で書かれた和英辞書であり、併せて簡易な英和辞書も付属しています。もちろん協力者を得てのことでしょうが、個人で異国のことばの辞書を編纂したというのもすごいことですよね。
この辞書の初版刊行は明治維新直前の1867年でした。西洋文明を積極的に取り入れていこうとする時代の潮流に乗ったのでしょう、広く迎えられ再版増補を繰り返しています。
ヘボンという名前は知っていても、その事績などよく知りませんでしたので少しかじってみました。といっても、インターネット情報に頼るのがもっぱらでしたが……。
生まれは1815年とありますから、井伊直弼と同い年になります。16歳でプリンストン大学の3年に編入し、同大学を卒業してからペンシルべニア大学で医学を学び21歳で卒業しています。200年も昔の話ですから大学の性格やら評価といったものがどんな風であったかはわかりませんが、どうやら学力優秀な人であったようです。
卒業後すぐに開業医となり、25歳で結婚しています。その翌年には、妻ともども志願して中国に宣教師としてわたり、厦門(あもい)で活動したようです。
この宣教師なるものが、キリスト教はもとより宗教になじみの無い俗物には感覚的にわかりにくいのですが、ヘボンは学生時代からその志向を持っていたようです。家族の反対があったようですから、彼自身は葛藤を抱えた日々を送っていたのかもしれません。これを打ち開いた出来事が伴侶との出会いであったと思われます。
ヘボンは中国への宣教を決断したときのことをこんな風に述懐しています。「万事は私の決行を祝福するもののごとくでありました。特に幸いであったことは、私と同じ考えをもち私と共に異境に行こうとする妻を見出したことでした」、と。
ところが、このころ赴任地ではマラリアが流行しており、妻クララの罹患などがあったらしく、3年後の1846年に志なかばで帰国しています。
帰国後はニューヨークで医院を開業します。はじめは小さな診療所だったようですが、まもなく病院となり、その後も規模を拡張してニューヨーク市でも有数の病院となったそうです。当時、ニューヨークに流行したアジアコレラに中国滞在中の医療経験が役立ったこともあったようですが、病院経営の才もあったのでしょうね。
後に日本への宣教のためアメリカを離れるまでの間に邸宅3戸のほかに別荘までを持っていたそうです。
1858年(ペリー提督が率いる黒船艦隊の来航から5年後)に日米修好通商条約が締結されます。この条約では、日本に居留するアメリカ人には信教の自由がゆるされ、「礼拝堂を居留地の内に置くも障りなし」となりました。
この条約交渉に当たった初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは、日本宣教の門戸を開くことを狙っていたものと思われます。条約締結はすぐに、米国内の三つのミッション本部(米国聖公会、長老教会、オランダ改革派教会)に連絡され、宣教師派遣が勧告されたといいます。さらに、中国在住の聖公会(ハリスは聖公会信徒)の聖職者への書簡には次のようなことが書かれているといいます。
「日本宣教の将来の成功は、派遣される初代宣教師の性行・態度・人物による。宣教師らが日本語を習得すれば日本人に近づくことは容易であり、その活動の許される範囲は今のところはっきり言えないが、私見をもってすれば学校をおこし、英語を教え、貧民を施療するがごときは最も伝道のために有益な働きとなるだろう」と。
ヘボンは、長老会教会に届いた書簡のことを知るや直ちに宣教師志願を決心。13年間にわたって築き上げてきた病院をはじめ、邸宅、別荘などの私財すべてを処分し、老父と一人息子(14歳)を知人に託して、夫婦で日本に向けて出帆します。ヘボン44歳、妻のクララは41歳のときです。
その後33年間という在留期間を通じてのヘボンの活動は、結果として、まさにハリスが描いた伝道のための方策を具現したものでした。
1859年10月に下田に上陸したヘボンは、神奈川宿の成仏寺(現横浜市神奈川区)を住まいとしました。しかし、この時点で日本人にはキリスト教は禁教のままです。明治新政府も「五榜の掲示」と呼ばれる高札によってキリスト教を強固に制禁していました。各国公使たちの抗議によって、禁止の高札が撤去されてキリスト教信仰が黙認されるのは1873年(明治6年)のことです。
そんな中でヘボンがまず始めたことは成仏寺近在の宗興寺を借りての施療(無償の医療活動)でした。
「最初のころ患者はわずかだったが、まもなく増えていき、はじめの三ヵ月間で一日平均百人を数えるほどになった。付近の田舎からも、また百七十五マイル(280キロメートル)もはなれた遠方からもやってきた」とヘボンは言っているそうです。
この事態を見て、役所は施療を受ける患者にいろいろと面倒な手続きを課したため、施療所は事実上閉鎖となったようです。お上は、民衆がキリスト教宣教師に近づくことを恐れたのでしょう。
その一方で、1862年、成仏寺で起居していた時代の終わりころになりますが、米国領事館を通じて幕府から9名の学生への教育の依頼が飛び込みます。
英語の正しい発音を日本人に教え込むことの困難を知るヘボンは気が重かったようですが、翌日、彼らを教え始めてびっくりします。
計算問題をやらせれば乗法・除法まで難なく答える。きけば、代数なら二次方程式はできるというし、幾何にも精通していることがわかった。ヘボンは、これ以上数学を教える必要はないと知って、英語だけを教えることにしたようです。
これらの青年たちは江戸の蘭学者、そして、オランダの書籍による学習を積んでいたのです。ヘボンの書簡には「日本人は実に驚くべき国民です。西洋の知識と学問に対する好学心は同じ状態にある他国民の到底及ぶところではありません。蘭学は日本人にとって大なる祝福でありました」とあるといいいます。
ヘボンのいう祝福がどんな意を含むのか察し切れませんが、ただの一か国だけに限られていたとはいえ、先進ヨーロッパの知識を学ぶ途があったことは日本にとって幸いであったのは間違いないでしょう。さらには激動の環境下にあっても向学の志を持ち続けた若者たちには誇らしさすら覚えます。
ついでながら、これら九名の中に大村益次郎(当時の姓名は村田蔵六)がいました。攘夷論の盛り上がっていた当時、英語を学ぶものは身に危険が及ぶ心配もあった中で、二ヵ年の間、江戸から神奈川までの往復五十キロを騎馬で通ったといいます。
成仏寺は仏教寺院ですから、教育を含めた伝道活動の拠点にするには不便であることに加え、攘夷思想の高まりなどによる身辺の危険もあります(1862年9月には生麦事件が起きます)。このため、ヘボンはかねて横浜居留地内に移転を準備しており、1862年の年末に転居を実行しています。新たな居所には礼拝室を伴った施療棟も独立して建て、中断していた無償医療の提供が復活しています。また幕府から委託を受けた学生たちへの教育も継続されています。
その翌春には、一時帰国していた妻クララが戻り、私塾(ヘボン塾)を立ち上げています。クララが英語を教え、ヘボンは医学を教えたようです。
ヘボン塾を経て世に出た人の中に、外交官として日英同盟締結に尽くし、英国公使、外務大臣、逓信大臣を歴任した林菫、立憲政友会総裁・内閣総理大臣等をつとめた高橋是清、三井物産を創設した益田孝など、明治から昭和にかけて政財界・教育界で活躍した人々の名を見ることができます。
ヘボン塾の男子部は、その後、宣教師仲間であるジョン・バラ夫妻に引き継がれ、他校との合併、校名変更などを経た後、1887(明治20)年に明治学院となり現在に続いています。同学の初代総理(現:学院長)はヘボンです。
クララ夫人の女子クラスは、夫人が多忙さを増していく中で授業を担当するなどの支援をしていた宣教師メアリー・ギダーが生徒を引き継ぎ、その後の変遷を経て現在のフェリス女学院につながっていきます。
ヘボンはこの後も『和英語林集成』の刊行、聖書の日本語による翻訳など、宣教活動を続けていますが、それらは稿を改めてまとめることにします。
(2025.10.20)
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