【アフリカ大湖地域の雑草たち】(52)
平和ボケ
I 80年前
うかがい取れない事実
80年前の1945年、日本の広島と長崎に原子爆弾が投下された。アメリカのトルーマン大統領は、広島への投下の同日(8月6日)、ワシントンDCで演説し、冒頭でこう述べた。
「Sixteen hours ago an American airplane dropped one bomb on Hiroshima, an important Japanese Army base. (16時間前、一機のアメリカ機が、日本の重要な陸軍基地である広島に爆弾を一発投下した。)」
日本の重要な陸軍基地である広島―犠牲者の圧倒的多数は、この朝、夏の一日を始めようとしていた、一般市民だったという事実は、この言葉からはうかがい取れない(註1)。
(註1)ただし、異なる記録もある。たとえば、「Sixteen hours ago an American airplane dropped one bomb on Hiroshima and destroyed its usefulness to the enemy.」(2025年9月15日アクセス、下線筆者)。本文中の引用は、The York Timesアーカイブに基づく。
軍事機密
大統領は、TNT火薬2万トン分を上回り、史上最大の威力を持つこの原子爆弾は、連合国の研究開発バトルの成果で、科学の勝利であると称賛した。「マンハッタン・プロジェクト(マンハッタン計画)」である。
次いでスティムソン陸軍長官が、大統領演説の数倍の時間をかけて、この大プロジェクトを説明して胸を張った。イギリスとの合意と協業、特別委員会など体制づくり、大規模プラントの設置、カナダとの協力、政策首脳陣・協力企業の列挙、秘密厳守のための特別措置など。そして、原子力平和利用のビジョンをうたい上げた。
だがここにもう一つ、まったくうかがい取れないことがある。それは、ベルギー領コンゴの関わりだ。
確かに、陸軍長官はウランについても言及した、あっさりと。「……, uranium is the ore essential to the production of the weapon. Steps have been taken, and continue to be taken, to assure us of adequate supplies of this mineral. (ウランは核兵器の製造に不可欠な鉱石だ。この鉱物の十分な供給を確保するための措置が講じられており、それは今後も継続される。)」
ウランの入手元は軍事機密だった。
II コンゴなしにヒロシマ・ナガサキはなかった
ドイツのベルギー占領
マンハッタン計画が使用したウランの3分の2は、コンゴのシンコロブウェ鉱山から採鉱されたものだ。アメリカ国内とカナダの鉱山からも採れたが、コンゴ産が圧倒的に高品質だったためだ(註2)(地図、ウィキペディアから転写)。ただし、アメリカ政府が、ベルギー植民地政府の協力を得ながら、買いつけに行って取引が始まった、というわけではない。

1940年5月、ナチス・ドイツが侵攻しベルギーを占領した。この事件は、ベルギー領コンゴの鉱物資源―ウランばかりか銅、コバルト、ダイヤモンドなど―を、誰が支配することになるのかという大問題を突きつけた。このとき、ウランをめぐる事態の方向性を決定づけたのは、とあるベルギー人実業家だ。
エドガー・センジエ(Edgar Sengier、1879‐1963年、写真1、ウィキペディアから転写)、鉱山会社ユニオン・ミニエール社(the Union Minière du Haut Katanga (UMHK))の代表者だ。同社は、20世紀初頭、シンコロブウェ鉱山を開発し、ラジウムを生産していた。ウランは、ラジウムの副産物だった(註3)。
(註2)アメリカ産(ユタ州、コロラド州、ニューメキシコ州、アリゾナ州が接するコロラド高原地域のカルノータイト鉱床)は平均ウラン含有量0.25%、カナダ産(グレートベア湖のエルドラド鉱山)は同0.5~1%。これに対し、コンゴ産ウランは、同2%超。
(註3)ユニオン・ミニエール社はベルギー・イギリス合弁、操業は1906-1966年。同社については、オルタ広場55号(2022.11.20)「生涯感謝している―アフリカ大湖地域の雑草たち(23)」でも触れた。
目と鼻の先に備蓄
センジエは、ベルギー陥落の同年後半、コンゴ産ウラン鉱石精鉱1200トンをアメリカに移送し、ニューヨークのスタテン島に保管していた。アメリカ政府が、喉から手が出るほど欲しかったウラン鉱石は、マンハッタン計画が本格的に始まる前(1942年)から、こうしてすでに目の鼻の先にあったわけだ(註4)。
この移送は、緊迫した事態にかんがみたセンジエが、ビジネスの才覚を発揮してイニシアティブをとったものだと伝えられる。いやそうではない、アメリカ・イギリス政府が、早くから強く働きかけたためだという記録もある。ユニオン・ミニエール社は、イギリスとの合弁だ。ドイツ進軍に伴い、ベルギー本国の精錬所とコンゴの鉱山の安全性をどう確保するかが、大いに懸念されたことは確かだろう。
1942年秘密協定が締結された。当事者はサンジエで、ベルギー亡命政府(在ロンドン)ではない。その趣旨は、スタテン島備蓄分を即座に提供するとともに、現地で採掘済み・山積みになっていた3000トンの鉱石もただちに輸送すること。
(註4)Manhattan Engineer District(マンハッタン工兵管区、MED)設立とレスリー・R・グローブス司令官(Leslie R. Groves, MED Commanding General(在職1942‐1946年))の就任は1942年8月、原子爆弾製造についてのルーズベルト大統領の承認は1942年12月。
III 戦後のシンコロブェ鉱山
本格的にアメリカへ
コンゴのウランをアメリカへ―採掘、大陸内の鉄道輸送、大西洋をわたる海上輸送、アメリカへの搬入―このようなシステマティックな動きが本格的に始まったのは、1945年後半だ。同鉱山は1937年に閉山されており再稼働に時間を要した。閉山の理由は、30年分のラジウム、ウランを採掘・備蓄済みだっためとのこと。マンハッタン計画は、アメリカ人技術者を派遣して加勢した。
そんなさなかの1949年8月29日、ソ連が核実験に成功し、シンコロブウェ鉱山の戦略的重要性はますます高まった。シンコロブエ近郊の精錬工場建設に巨額の資金が投入され、世界銀行は、コンゴの輸送インフラをさらに改善するため、ベルギーに7千万ドルの融資を行った(MIT Faculty Newsletter Vol XXXIII No.3, January/February 2021, “The Legacy of the Involvement of the Democratic Republic of the Congo in the Bombs Dropped on Hiroshima and Nagasaki”, by Jean Bele)。
このような動きは1950年初頭まで活発に続けられた。
1958年閉山
1960年に始まったコンゴ動乱は、東西両大国の争いに、コンゴが代わって血を流したとも言うべき出来事だった。ただし、少なくとも表向きには、シンコロブェ鉱山のウランは焦点にはならなかった。なぜなら、1958年、同鉱山はコンクリート封鎖され、坑道も閉鎖されたためだ。コンゴ以外にも産地が見つかったこと、技術革新のおかげでコンゴ産ほど高品質でなくても処理可能となったことなどの事情で、コンゴのウラン鉱石の重要性が相対的に低下したためと言われる。
鉱山の閉鎖は、コンゴ独立直前、センジエは80歳になろうとするときだった。
そして今は
なお、コンゴは大陸の中では原子力先進国だったことがある。やはり独立直前の1958年、ベルギーは、首都レオポードビル(いまのキンシャサ)に、アフリカ大陸最初の原子力発電所をつくった。1958年のブリュッセル万博をきっかけにし、植民地の近代化を誇示するものだったという。
シンコロブェ鉱山が注目を集めた直近の事件は、2004年7月、8人が犠牲となった崩落事故だ。事件を契機に、鉱山は改めて厳重に封鎖された。ときどき密輸の疑惑が伝えられるが、公式には閉鎖されたまま今日にいたっている。
IV 立ち位置を知る
功労勲章
センジエは、植民地統治、大戦中の核開発競争、冷戦時代の軍拡競争という、それぞれまったく異質だが、いずれも激動の時代を生きた。そのなかで、コンゴの鉱物資源をどう扱うか―売ったり売らなかったり、移送したり備蓄したり封鎖したり―決断を下してきた。戦後の1946年、彼はアメリカ政府から、戦争努力に貢献した民間人として功労勲章(Medal for Merit)を授与された。非アメリカ人としては初だった。確かに表彰に値しただろう、連合国側から見るかぎり。
もっとも、彼が平和の英雄だったかどうかは別だ。マンハッタン計画との関わりのほかにも、雇ったコンゴ人鉱山労働者の人権侵害、コンゴ動乱のきっかけとなった分離独立の動きへの関与など、議論の種は多々ある。
彼自身、歴史を変えるとか、人類史に影響を与えるとか、そんなつもりはなかったかもしれない。経営者として、出資者の意向をはかり、投資し、サラリーを払い、収益を上げていただけで。ただし、自分のできることとできないことを、世界の流れの中で考えることはあったかもしれない。
激動の戦時下に置かれれば、人は自ずとそのような視点を抱くのだろうか。
答に窮する
日本への原爆投下、そしてコンゴ産ウランがそれを可能にしたことは、コンゴ人もケニア人も、多くのアフリカ人が知っている。こんな質問を受けることがある。
「アメリカにあんなにひどいことされて、日本はいったいどうやってアメリカを許せたのか」
植民地時代に「ひどいことをされた」という、アフリカ人らしい歴史認識からくる問いだ。気持ちをそのまま話せば済むはずなのだが、筆者は答に窮することがある。
冷静な歴史観をもっているか、日本人として、自らの世界での立ち位置をきちんと把握しているかどうかを、試されているように感じるためだ。カジュアルな会話なのにためらいを感じるのは、すっかり平和ボケしているせいかもしれない。
実業家の訃報
2025年8月23日、とある著名な実業家が、ニューヨークで95歳の生涯を閉じた。本稿を書き始めたきっかけは、この訃報だ。
モーリス・テンペルスマン。ベルギー系アメリカ人で、20世紀後半以降、アフリカで活発にビジネスを展開し、各国の独立後の歩みに大きな影響を与えた。コンゴでは、モブツ大統領をはじめ、重要人物たちと親交をもった記録があるが、報道によれば、コンゴにとどまらず、シエラレオネ、アンゴラ、ジンバブエ、ナミビア、ルワンダ、ガーナでも計り知れない役割を果たしたとのことだ(写真2、ウィキペディアから転写)。

1940年のナチスドイツによるベルギー占領(上述)のとき、ユダヤ人の彼は、迫害から逃れるため、家族とともにアメリカに渡った。11歳だった。アメリカ民主党の支援者で、ことにケネディ、クリントン両大統領時代に活躍したと伝えられる。プライベートでは、ジャクリーン・ケネディ・オナシス(ケネディ大統領夫人)の恋人として話題になった。
ダイヤモンド商とし知られるが、実は、ウラン商でもあった。死因は転倒による合併症とのこと。けっして珍しくない死因だが、その生涯は歴史を動かすものだった(続く)。
(註5)本稿は、コンゴ動乱をテーマにした先の16稿(『アフリカ大湖地域の雑草たち(17)-(19)、(21)-(29)、(31)、(40)、(41)、(43)』(それぞれオルタ広場2022年5-7月号、9-11月号、2023年1-2月号、4-5月号、7-8月号、11月号、2024年9-10月号、12月号)の続きである。先稿のリンクはつぎのとおり。
オルタ広場80号(2024.12.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(43)やわらかな微笑のうら⑯
オルタ広場78号(2024.10.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(41)なかなか気づかないこと⑮]]
オルタ広場77号(2024.9.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(40)規格にはまらない⑭]]
オルタ広場67号(2023.11.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(31)用済みにされた英雄⑬]]
オルタ広場64号(2023.8.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(29)いちばんこわいこと⑫
オルタ広場63号(2023.7.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(28)思いやりは無用の長物⑪
オルタ広場61号(2023.5.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(27)国連をダメにしたくない⑩
オルタ広場60号(2023.4.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(26)武力をつかって平和を追求する}⑨
オルタ広場58号(2023.2.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(25)誰が問われているのか⑧
オルタ広場57号(2023.1.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(24)国連のきれいごと⑦
オルタ広場55号(2022.11.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(23)生涯感謝している―アフリカ大湖地域の雑草たち(23)⑥
オルタ広場54号(2022.10.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(22)お兄さんと弟―アフリカ大湖地域の雑草たち(22)⑤
オルタ広場53号(2022.9.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(21)相手の実力―アフリカ大湖地域の雑草たち(21)④]
オルタ広場50号(2022.7.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(19)国連職員のクライアント③
オルタ広場50号(2022.6.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】ベルギー統治時代のコンゴ②
オルタ広場49号(2022.5.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(17)1960年の国連安保理①
参考文献
The Manhattan Project, U.S. Department of Energy – Office of History and Heritage Resources
Corpwatch, 25 April 2001, “Africa: U.S. Covert Action Exposed”, by Eric Ture Muhammad
CovertAction Magazine, 27 February 2024, “Diamond Magnate With Deep Ties to U.S. Intelligence, Who Was Behind Imperial Machinations in Central Africa, is Left Out of the History Books”, Jeremy Kuzmarov
John F. Kennedy Presidential Library and Museum, 1961: TA-TO, p.31, memorandum dated 19 October 1961, from Maurice Tempelsman to the President
Susan Williams, 2016, “Spies in the Congo: America’s Atomic Mission in World War II”
UN News, 9 November 2004, “Uranium mine in DR of Congo must stay closed, UN team concludes”
(2025.9.20)
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