【アフリカ大湖地域の雑草たち】(55)
恐怖政治のなかの女性閣僚
大賀 敏子
I イメージアップ
政治的死のリスト
パトリス・ルムンバ首相(在任1960年6‐9月)、1961年1月、政敵の本拠地カタンガで拷問のうえ射殺された。36歳。
エヴァリスト・キンバ首相(在任1965年10‐11月)・カタンガ州外務大臣、1966年6月、反逆罪でレオポードビルで公開処刑。39歳。
ピエール・ムレレ教育大臣(ルムンバ内閣)・1964年クウィル反乱指導者、1968年10月、モブツ大統領による恩赦の呼びかけに応じて帰国したが、逮捕、拷問、惨殺。39歳。
ジョゼフ・カサヴブ大統領(在任1960年6月‐1965年11月)、モブツ陸軍参謀長2度めのクーデター以降、政治的孤立、経済的困窮、1969年3月、病死。53、4歳。
モイス・チョンべ首相(在任1964年7月-1965年10月)・カタンガ州大統領、1967年3月、反逆罪で不在法廷で死刑判決。1967年6月、亡命先で誘拐されアルジェリアで軟禁。1969年11月、アルジェリア政府が自然死(心臓発作)を発表したが、疑義がある。49歳。
ゴドゥフロア・ムノンゴ内務大臣(チョンべ内閣)・カタンガ州内務大臣、1992年5月、ザイール政府によるルムンバ殺害調査での証言が予定されていた当日の朝、突然死(心臓発作)。66歳。
進歩的な国
1960年代に活躍した要人たちの政治的死の記録だ。モブツ参謀長・大統領の指揮の下(在任1961‐1997年)、政敵、反対派の弾圧は熾烈だった。
このような恐怖政治の一方、同時にモブツ大統領は、進歩的な近代国家を印象づける施策も忘れなかった。1966年、かつて自らの手で失脚・惨殺に追い込んだルムンバを「国民の英雄」とし、その功績を称えたのは象徴的だ。さらにその同年10月、モブツはコンゴ初の女性閣僚を任命し、これも政権のイメージアップにつながった。

任命されたのはソフィー・カンザ社会問題担当大臣(在任1966年10月31日‐1970年12月6日)だ。先稿で何度かふれたが、ベルギー植民地政府はコンゴ人の高等教育に傾注しなかったため、独立当時1300万国民のうち、大卒者は20人に満たなかった。男女を問わず、国の政策運営を担う人材が、決定的に不足していたとき、コンゴ女性初の大卒者であったソフィーに白羽の矢が立った(写真1、ウィキペディアから転写)。
女性閣僚の前例は、アフリカでは1961年ガーナのSusana Al-Hassanしかない。日本初の女性閣僚は1960年中山マサ厚生大臣、ソフィーのほんの数年前だ。
II いいとこのお嬢さん
女性初の大卒
ソフィー・カンザは1940年レオポードビル生まれ、国内で初等・中等教育を受けてから、1964年、スイスのジュネーブ大学を卒業した。
ベルギー統治時代もコンゴの子供たちは学校に通っていた。おもにキリスト教宣教師による私塾だ。この結果、識字率ならコンゴは当時の開発途上国の中でも抜きんでていたという、やや意外な記録もある。ただし、当時の教育の目的は、ベルギー人を補佐する人材をつくるためで、エリート育成とはほど遠いものがほとんどだった。とくに女児には、子育て、料理、掃除、裁縫、自給作物づくりといった家事一般と、現地の言葉(リンガラ語など)の手ほどきが相場で、フランス語教育は男児にかぎられていた。
キンシャサ知事の子女
このようななかでソフィーが、かくも例外的な学歴を身に着けたのは、いわゆる「いいところのお嬢さん」だったためだ。
父ダニエル・カンザ(1909‐1990年)は、コンゴ解放の闘志の一人だ。後に初代大統領となったカサヴブとともに政党ABAKOを指導し、ベルギーが独立付与へと大きく舵きりをする契機となったレオポードビル暴動(1959年1月)で逮捕、投獄されたが、ベルギー・コンゴ円卓会議(1960年1‐2月)では副議長を務めた。独立後、初代レオポードビル知事(Premier Burgomaster of the capital of the Congo, Léopoldville)となった(在任1960年10月‐1962年6月)。

トーマス・カンザ(1933‐2004年)はダニエル・カンザの息子の一人で、ソフィーの7歳上の兄だ。トーマスは、ハマーショルド事務総長時代の安保理で祖国を代表し、国連コンゴミッションの派遣、コンゴの国連加盟といった重要議案について、27歳の若さながら、諸外国の老練外交官たちに一歩も引けを取らぬ交渉をした(在任1960年7‐11月)(写真2、ウィキペディアから転写)
アドバイザー
閣僚就任時ソフィーは26歳だったが、同国史上最年少閣僚だったという記録は見当たらない。なぜなら、モブツ陸軍参謀長下で、20代を中心とした学生内閣が任命された前例があるためだ(内閣在任期間は1960年10月11日-1961年2月9日)。閣僚メンバーは「高級官僚の卵たち」の学生だったが、モブツ自身30歳の若さであり、かつ、上述のように、ともかくエリート人材が不足していた。
一握りの学生が一時的とはいえ国家運営を担うことができたのは、ベルギー人アドバイザーのおかげだ。ベルギー人が準備した書類にサインし、用意された発言要領どおりに読み上げ、ことあるごとにアドバイザーの方を振り返って意見を聞く、そんな仕事の仕方だ。なかには、かつての恩師を登用する閣僚もいた。ソフィーも、少なくとも当初はそんな感じで業務に当たったことだろう。
III 当時の人々は
進んだ者になりたい
カンザ家のような例外的なエリートに生まれなかったコンゴの人々は、どのような人生を歩んでいたのか。
ルムンバの妻であったポーリン・オパンゴは、暗殺までの10年ほどルムンバに連れ添った。ソフィーとほぼ同年代の1937年生まれだが、正規の学校に行かず、結婚したのは14歳だ。ルムンバは生涯で5回結婚したが、フランス語を話せたのは、彼が政治家になってから出会った5人めの配偶者だけだ。
ルムンバ自身も中等教育までは受けたが大学入学はかなわなかった。頭角を現すためにはベルギー人にエヴォルエ“進んだ者”(Évolué)と認めてもらうしかなく、“非科学的”かつ“前近代的な”アフリカ的慣習と決別し、ヨーロッパ的価値観とライフスタイルが身に着いた者だと証明するために猛然と努力した。もともと読書好きでインテリではあったが、さらに、交友関係を厳選し、子供とフランス語で会話し、フォーク・ナイフを使って食事をし、プライベートなトイレがある家に住む、などだ。
(註)これを制度化したのが“進んだ者”パスで、パスを取得できれば、レストラン、クリニック、ホテル、バスのほか、教会礼拝での座席位置などで、ヨーロッパ人並みにはなれないにしても、大多数の現地人にはない特権を享受できた(the ordinance of 12 July 1948, the decree of 17 May 1952)。
革命イデオロギー

ピエール・ムレレは1960年代半ばのほぼ5年間、モブツ政権と激しく闘った。ルムンバ殺害後、カイロで中国大使館と関係を築き、プラハ、モスクワ経由で北京にわたり、中国で軍事訓練(都市ゲリラ・テロ戦術)とイデオロギー教育(毛沢東思想)を受けた。革命イデオロギーについての彼の理解は、当時の反政府的指導者のなかでは抜きんでて深く、彼が指導したクウィル反乱は「革命」とも呼ばれ、軍隊の規律を維持し、女性兵士を活躍させたなど高い評価がある。人間を超えたパワーを持つリーダーだと、兵士たちからは神格化さえされた(写真3、ウィキペディアから転写)。
エルネスト・チェ・ゲバラは、1959年キューバ革命に参加したアルゼンチン生まれの革命家(1928‐1967年)だ。コンゴの社会主義革命を支援しようと、タンザニア経由でコンゴ東部に潜入した(1965年4月)が、目立った成果を上げることなく撤退した。兵士たちの質が彼の期待ほどではなく、なかでも、呪薬への信仰―この水をかぶれば弾に当たらなくなる、この薬草で不死身になる、など―に失望したとのことだ。
上から目線
トイレのある家で、ナイフとフォークで食事をしながらフランス語で会話する、ソフィーにとっては当たり前のことばかりだが、同胞たちは、「進んだ者」の仲間に食い込もうと本気で努力していた。ソフィーが学校の宿題、予習、復習で忙しくてならないとき、同年代の女の子たちは、出産、育児、家事に忙殺されていた。スイスの大学に通っていたとき、密林で戦う兵士たちは、魔法の水を何度も浴びて自身を鼓舞していた。
エリートと一般大衆の間には、どんな社会でも、立場、認識、価値観などにギャップがあり、トップの者はついつい上から目線になるものだ。とは言え、ソフィー大臣の場合、その落差は、あまりにあまりに極端だった。
IV 巻き返しの時代
恐怖政治と暴力
冒頭で政治的死を遂げた要人たちを例示した。ルムンバは、まともに歩けなくなるくらい執拗に殴打されたうえ射殺され、遺体は硫酸で隠滅された(1961年1月17日)。ムレレは恩赦を与えるとのモブツの申し出を信じて亡命先(ブラザビル)から帰国したが、逮捕され惨殺された(1968年10月8日)。生きたまま眼球をくりぬかれたうえ手足を一本ずつ切断され、コンゴ川に捨てられたという。このような詳しい事情は、一般には伏せられていても、エリート家族の一員であったソフィーの耳には入っていたことであろう。キンバは10万人の面前で首をつられたが、息を引き取るまで20分かかったという記録がある。
反政府勢力の暴力も広く知られていた。なかでも、スタンレービル(今のキサンガニ)を拠点としたシンバ団(「ライオン」の意、指導者クリストフ・グベニエ)が欧米人を人質にとった事件は、世界中に「コンゴは危ない、こわい」という印象を広めた。OAUの国際調停(議長ジョモ・ケニヤッタ)の妥結を待たずに、ベルギー軍パラシュート部隊とアメリカ空軍が奪還作戦を実行、制圧した一件だ(1964年11月24日、ドラゴン・ルージュ作戦)。
ソフィーの閣僚就任は、キサンガニ人質解放の2年後、キンバ処刑の3ヶ月後だ。女性閣僚を任命すればイメージ回復につながるのではと期待した、政権側の意図がうかがえる。
亡命中の兄
安保理で活躍した兄のトーマスは、ルムンバ失脚と政変で国連代表の地位を失った(1960年11月)が、引き続きアメリカで、諸外国の外交官らにルムンバの正当性を訴えるロビーに徹していた。東西の大国いずれからも色よい返事を得られたなったとき、エレノア・ルーズベルト(1884‐1962年、フランクリン・ルーズベルト大統領の配偶者)を通じて、ケネディ大統領候補にも働きかけた。実際は、ルムンバはケネディ新大統領就任を待たず、その3日前に殺害された。
やがてトーマスはアメリカ滞在許可を失い(ビザ延長不可)、かと言って帰国するのは危険すぎ、亡命生活を強いられていた(ロンドン亡命)。帰るに帰れぬ兄のことを思って、ソフィーが不安にならなかったはずはない。
それが何なの?
コンゴ政治史で女性指導者は少なくない。たとえばルムンバの長女ジュリアナ・ルムンバ(1955‐)は、ローラン・カビラ政権(1997-2001年)で閣僚を務めた。これを書くいま、チセケディ政権下、首相と外相の両重要ポストに女性が就いている(Judith Suminwa Tuluka首相・コンゴ初の女性首相、Thérèse Kayikwamba Wagner外相)。
ただし、エリート女性がトップに座ったからと言って、いつも一般女性の立場に寄り添い、彼女らの底上げにつながるとはかぎらない。現首相が2024年に任命されたとき、キンシャサの女子大学生に尋ねたら、「(トップに女性が就いたからって)それが何だって言うの?」という顔をされた。
強みは
確かに、リーダーなら現場に足をつけ、社会の隅々のことをよく知っていた方が良い。しかし、それだけでは足りないし、ソフィーと一般大衆との落差は大きすぎた。ソフィーは、女性と子供の権利促進と社会的弱者の生活環境の改善に尽力したといまでも高い評価を得ているが、その強みは何だったのだろう。
恐怖政治と暴力がすぐ隣で横行するなかだ。政治性をできるだけ排除し、テクノクラートに徹する工夫が必要だっただろう。世界の影響力のある指導者たちの仕事ぶりを間近に見てもいた。彼らのレトリックの裏にあるホンネを見抜く力も自然と身に着き、それが彼女を支えたことであろう。
ヒトコトでは言い切れない
1960年前後のコンゴは、長い植民地支配から待望の独立へと大きな一歩を踏み出したものの、せっかく勝ち取った独立は東西冷戦の波をもろにかぶって、果てしない混乱へと陥っていった。
コンゴだけではない。植民地解放と独立の熱気で包まれたアフリカ大陸は、1960年代も半ばになると、旧勢力の巻き返しが否定できない時代に突入した。1962年、南アのネルソン・マンデラ逮捕、1964年、同終身刑判決、1965年、ローデシア(後のジンバブエ)のスミス政権(少数白人政権)誕生、1966年、ガーナのエンクルマ失脚など、いずれもこのような系譜に属する一連の出来事であると考えられる。
「激動の時代」のヒトコトではまったく足りない。ソフィーはそんな時代の閣僚だった。
ソフィーは1970年、国政を離れ、以降は国際公務員のキャリアを進んだ(UNITAR、WHO、ECAなど、最高位はUNESCO Deputy Assistant Director-General)。1964年に結婚し、6人の子供を産んだ。ウキペディアによると、配偶者とはほとんど別居していたということだ。彼女は1999年(59歳)、キンシャサで亡くなった。
ナイロビ在住
(註)本稿は、コンゴ動乱をテーマにした先の18稿(『アフリカ大湖地域の雑草たち(17)-(19)、(21)-(29)、(31)、(40)、(41)、(43)、(52)、(53)』(それぞれオルタ広場2022年5-7月号、9-11月号、2023年1-2月号、4-5月号、7-8月号、11月号、2024年9-10月号、12月号、2025年9月10号)の続きである。先稿のリンクはつぎのとおり。
オルタ広場90号(2025.10.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(53)仕事より人間関係がつらいとき
オルタ広場89号(2025.9.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(52)平和ボケ⑰
オルタ広場80号(2024.12.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(43)やわらかな微笑のうら⑯
オルタ広場78号(2024.10.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(41)なかなか気づかないこと⑮
オルタ広場77号(2024.9.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(40)規格にはまらない⑭
オルタ広場67号(2023.11.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(31)用済みにされた英雄⑬
オルタ広場64号(2023.8.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(29)いちばんこわいこと⑫
オルタ広場63号(2023.7.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(28)思いやりは無用の長物⑪
オルタ広場61号(2023.5.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(27)国連をダメにしたくない⑩
オルタ広場60号(2023.4.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(26)武力をつかって平和を追求する}⑨
オルタ広場58号(2023.2.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(25)誰が問われているのか⑧
オルタ広場57号(2023.1.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(24)国連のきれいごと⑦
オルタ広場55号(2022.11.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(23)生涯感謝している―アフリカ大湖地域の雑草たち(23)⑥
オルタ広場54号(2022.10.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(22)お兄さんと弟―アフリカ大湖地域の雑草たち(22)⑤
オルタ広場53号(2022.9.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(21)相手の実力―アフリカ大湖地域の雑草たち(21)④]
オルタ広場51号(2022.7.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(19)国連職員のクライアント③
オルタ広場50号(2022.6.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(18)ベルギー統治時代のコンゴ②
オルタ広場49号(2022.5.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(17)1960年の国連安保理①
(2025.12.20)
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