【コラム】

有閑随感録(78)

日本人ノーベル受賞者の声
矢口 英佑

 2025年度のノーベル生理学・医学賞受賞に日本の坂口志文氏、ノーベル化学賞に北川進氏が選ばれた。いずれの研究も人間の身体に、そして地球にこれから大いに役立つはずであり、日本人として誇らしく思うし、喜ばしいニュースである。
 お二人のこれまでの研究上の努力は並大抵ではなかったと思われるが、お二人には思考の幅というか、奥行き、深さが人一倍大きくあったのではないかと思っている。
 言い換えれば、遊び心、あるいは余裕と粘りであったのかもしれない。無論、下世話でよく言われる「好きこそものの上手なれ」も欠かせなかったにちがいない。
 このようことを思っていたら、ニュースでお二人とも若い研究者たちにそれぞれ「運鈍根」という言葉をよく持ち出していたことを知った。物事の成功には、幸運に巡り合い、周りに流されない鈍重さと根気良く続けることの大切さを諭した言葉だが、研究者としての姿勢をみずからに重ねて言われていたのだろう。
 
 ところで、このお二人がノーベル賞受賞決定後に日本の科学分野での基礎研究に対する重要性から研究支援の充実を国に求めていたことが気になった。おそらくお二人のこれまでの研究環境や研究資金の劣化とこれからの若手研究者たちの育成を考えての要望であったのだろう。
 確かに基礎研究を支える大学の研究環境は悪化している。国立大での国からの運営費交付金は2025年度が1兆784億円で2004年度から13%(1631億円)減少している。しかも実質的には、物価や消費税等の上昇で数字より目減りしていることになる。運営費交付金は研究費だけでなく人件費他の経費も入っているが、研究費減少も当然避けられない。
 もう一点、見落とされがちなのだが、深刻な問題がある。北川氏も指摘しているが、若手研究者の研究時間が十分に確保できない環境になってきていることだろう。教員は大学では教室に教えに行けば良いという時代は去り、今や教室外での学生の教育指導や生活上の相談などよろず相談窓口になりつつある。しかも大学の経営上、定年まで身分が安定して保証される教員が減少し、任期付きの、つまり一定期間しか雇用されない教員が国立、私立の大学に関わりなく増加していることである。
 国立大学協会によると2024年度の国立大教員に占める任期付き教員の割合は40歳未満で59.3%と6割近くが不安定な雇用条件で勤務していることになる。若手研究者がじっくり腰を据えて研究に打ち込むことができなくなってきているのである。要するに金と身分の不安定化である。
 
 こうした研究環境の悪化は2016年に大隅良典氏がノーベル生理学・医学賞を受賞したときにも同様に学術研究、基礎的研究の環境が劣化していることに警鐘を鳴らしていたし、梶田隆章、根岸英一、山中伸弥3氏のノーベル賞受賞者が「30年後に日本がノーベル賞を受賞することは難しい」と言っていたのである。この言葉は2016年当時の発言であることを考えれば、現在で言えば20年後ということになる。
 こうした声を文科省も無視してきたわけではない。2017年の「基礎科学力の強化に関するタスクフォース」での検討資料には<日本の基礎学力の揺らぎ—三つの危機>として

①「研究の挑戦性・継続性をめぐる危機」、②「時代を担う研究者をめぐる危機」、③「「知の集積」をめぐる危機」の3つを挙げていた。

①では、研究費・研究時間の劣化として
・基盤的研究費や自主的・自立的な研究を支える研究費が減少。
・長期的な視野に立った独創的な研究への挑戦や自主的・自立的な研究に専念することが困難。
・研究者の研究時間の減少
・競争的資金への依存度が高まることによる、研究費の途絶、研究の中断のリスク

②では、若手研究者の雇用・研究環境の劣化として
・若手研究者の雇用が不安定化。
・研究者が短期の業績づくりや事務作業に追われ、独創性を発揮しづらい。
・優秀な学生が研究者の道を躊躇・断念。

③では、研究拠点群の劣化として
・論文数の伸びは停滞し、国際的なシェア・順位は大幅に低下。
・世界トップレベルの研究拠点を形成し、研究成果はあがっているが、我が国全体に与える影響は限定的
・我が国全体の研究力強化のためには、「知の集積」の場となる研究拠点の厚みが不十分。
・基礎科学力の強化に向けて研究情報基盤等の整備、充実が不可欠。

 ノーベル賞受賞者たちがこれまで長年に渡って繰り返し要望してきた基礎的研究環境の問題点を文科省はとっくにつかんでいるのである。だが、状況はますます悪くなってきている。
 「わかっちゃいるけど変えられね〜」という、情けない文科省の声が聞こえてくるようである。だからこそだろうが、国立大学協会が2024年6月に公表した声明「我が国の輝ける未来のために」からは悲愴な叫びが聞こえてくる。

 1,国立大学の覚悟
 天然資源に乏しい我が国にとって、最も重要なのは人材であり、社会と産業を動かす科学技術の進歩です。大学は、高い能力と見識を備え、未来を創造する人材の育成と、高度で先端的な研究の推進に重要な役割を果たしてきました。その中でも国立大学は、創設以来、世界最高水準の教育研究の実施や重要な学問分野の継承・発展、すべての都道府県に設置され全国的な高等教育の機会均等の確保、グローバル人材の育成といった役割を担ってきました。これからも国立大学は、我が国の研究力の源であって、我が国全体の、そして各地域の文化、社会、経済を支える拠点であり、産業、教育、医療、福祉などに十全の責務を負っていく覚悟です。
 2,国立大学を取り巻く財務状況の悪化
 「国家予算が厳しさを増すにつれ、国立大学の活動を支える基盤経費(運営費交付金)は減額されたままです。加えて、社会保険などの経費の上昇、近年の物価高騰、円安などにより基盤経費を圧迫し、実質的に予算が目減りし続けています。また、働き方改革の実現のため、大学教職員、学校教員や医師を確保する必要も出てきました。その中にあっても質の高い教育研究活動を維持・向上していくために、寄付金などの外部資金や自ら収入を増やす努力も進めています。そうして、我が国の課題、また地球規模の課題の解決に、教育と研究を通じて全力で取り組んできました。しかし、もう限界です」。

 声明文はまだ続くのだが、この悲愴な叫びに耳を傾けた為政者、いや日本人はどれだけいるのだろうか。どうやら、そろそろ覚悟をしておいたほうがよさそうである。日本からのノーベル賞受賞者は今後減少し、そう遠くない時代からは受賞者なしが続くということを。

(2025.10.20)
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