【視点】

構造改革への挑戦

ー長洲神奈川県政の20年を検証するー
久保 孝雄

 今年(2024年)の正月、ささやかな新年会の席で、長洲神奈川県政(1975〜95)の最大の遺産の1つであり、日本で最初のサイエンスパークとして建設された「かながわサイエンスパーク=KSP」(注1)が話題になり、原田誠司さん(長岡大学名誉教授)から「KSPは<発明の事業化>という戦前の理化学研究所(注2)モデルを現代的に継承・再生させた重要プロジェクトなのに正しく評価されていないのではないか」との問題提起があった(詳細は原田誠司『ベンチャー簇業序説』東京図書出版 2023)。
 長洲知事の命を受け「かながわサイエンスパーク」の運営会社として設立された第3セクターの株式会社ケイエスピー(資本金45億、うち15億が国、県、川崎市、民間30億)の社長を4期8年務め、日本初のインキュベータを運営したこともある私に、建設の動機、目的、運営の経過などを詳しく話して欲しいとの要望が出され、3月から7月にかけて原田教授の主宰で数回の研究会が開かれた。すでに30年も前のことであり、記憶が薄れている点もあるが、できる限り当時の資料や日記などを見ながら準備し、報告した。
  (注1)川崎市高津区坂戸、元池貝鉄工跡地5.5haの敷地に12万㎡のインテリジェントビルが建ち、4500名の研究者・技術者が働くイノベーションセンター。日本初のインキュベータを運営、私の社長在任中に117社のベンチャー企業が育った。
  (注2)1917年、高峰譲吉、渋沢栄一らの提唱により、産業発展に資するため皇室下賜金、政府補助金で設立された基礎研究から応用研究まで幅広くカバーする国内唯一の自然科学系総合研究所で、産業界への技術移転を積極的に進めている。設立時東京駒込、現在は埼玉県和光市。

 ところがこの研究会の席で、原田教授からさらに重要な問題提起があった。それは「長洲神奈川県政は地方レベルではあるが日本で初めて実現した構造改革政権だったのではないか」というものであった。ズバリ長洲県政の本質を衝いたこの発言に、私は驚き、そう思っている人がいることに感銘を受けた。20年間長洲神奈川県知事を補佐官として(4年間は副知事、8年間はKSP社長として)支えた私はもともとそう考えていたが、国政レベルでは構造改革論はついに陽の目を見ることがなかったので公に口にすることはなかった。原田教授の指摘は嬉しくもあり、驚きでもあった。
 思えば1960年から70年代にかけて革新陣営を2分した構造改革論争があった(政党としては社会党と共産党の一部。当時の東独を礼賛したりする教条的左派主導の社会党に批判的なグループ=江田派と共産党の批判派、離党グループが構造改革論で合流したのが注目された)があった。長洲さんも私も思想・理論レベルでは構造改革派に属し、長洲さんはリーダーでもあった。中央政治の世界では構造改革派のリーダーで日本社会党を北欧型社会民主党をモデルに日本型社会民主主義政党に作り変えようとした社会党書記長の江田三郎さんが、左派主導の社会党から「構造改革論は右翼日和見主義だ」として追放されてしまった。「日本に本格的社会民主主義政党がないのは国民の不幸だ」と考えていた長洲さんは非常に残念がった。構造改革派は敗北し、構造改革論も次第に影を潜めていった。これが社会党凋落、革新勢力退潮の始まりでもあった(のちに小泉内閣が唱えた「構造改革」は全くの別物)。

 そもそも構造改革論とは旧ソ連型社会主義を否定し、先進資本主義国における社会主義的変革への新しい道を模索した西欧最大のイタリア共産党(ユーロコミュニズムのリーダー)に発する革命論であり、地方レベルでの改革をテーマにしたものではない。変革すべき「権力」も政治・社会システムも国レベルと地方レベルでは質的にも量的にも桁違いの差がある。特に日本は明治以来の強固な中央集権体制が生きており、地方の自主性は極度に制約されていた。こうした自覚があったので私は長洲県政を構造改革政権と呼ぶことを憚ってきた。しかし長洲さんも私も構造改革派としての信念は変わらなかった。横浜国立大学教授でマスコミでも人気学者だった長洲さんは1975年当時の飛鳥田横浜市長に担がれ神奈川県知事選に出馬、自民党候補に圧勝し、地方政権を掌握したが、長洲さんが20年間知事として行った県政が構造改革論の思想・理念に基づいていたことは間違いない。その意味で、限定的なものとは言え、一国並みの人口、経済規模をもつ地方(当時神奈川県の人口は830万、GDPは3000億ドル。神奈川より人口の少ない国連加盟国が120あった)で構造改革を進めた長洲県政を「地方レベルにおける最初の構造改革政権」とみなすことは可能であり、妥当性もあるのではないかと考えた。今この観点から長洲県政の軌跡を振り返り、実績を検証しながら併せて今日的な意義を考えてみたい。

1、地方分権改革の実現
 長洲県政が推進した主要な政策は、いずれも明治以来の日本政治、国と地方の関係の構造を改革するものであった。長洲知事は1975年の知事就任早々「地方の時代」を提唱し(「地方の時代を求めて」『世界』1978年10月号)、全国の自治体や学者に呼びかけ、地方、地域が直面する多様な課題を掲げて全国シンポジウムを14年間(1978〜91年)継続して開催し続け、地方に対する価値観の転換、地方分権の重要性を主張し、分権改革への全国的機運の高まりをリードした。「地方の時代」は一世を風靡する流行語にもなった(第1回の議長団に大河内一男東大学長、磯村栄一東洋大学長、増田四郎一橋大学長、辻清明国際基督教大教授が並んだのをはじめ、延べ200名近い学者、専門家の協力を得た)。2000年には400以上の関係法令を一挙に改革した「地方分権一括推進法」が施行された。この改革の最大の眼目は、明治以来の国、地方の上下関係、主従関係を対等、平等な協力関係に変革したことであり、画期的な構造改革の実現であった(本年6月、災害など有事を口実に国が地方を統制できるようにした地方自治法改正が成立、地方の強い反発を招いているが、分権改革自体は不可逆的である)。

2、「政策は国、地方は対策」の転換、「国の出先機関」からの脱却
 明治以来の国と地方の上下関係を反映して「政策は国、地方は対策」と言う考え方が戦後も牢固として継続していた。政策づくりは国家官僚の専権事項で、地方はそれをおし戴いて地方でその具体化を図るのが仕事だった。また、地方(主に都道府県)の副知事や幹部職員は中央省庁(自治省、大蔵省、建設省、厚生省等)からの天下りや出向職員で占められていて、国の出先機関の性格が強かった。長洲さんは「知事も県会議員も政策を訴えて選挙に勝ち上がってくるのに、政策は国で地方はこれを受けて対策を考えれば良い、と言うのは時代錯誤だ。国と違った地域独自の政策課題があり、これを解決していくためには、独自の政策が必要だ。県庁を政策官庁に改める必要がある」と考え、組織改革で企画部を新設、各部局に政策課を作り、国からの様々な干渉を排して神奈川県としての独自の産業政策(「頭脳センター」構想の提唱、そのキープロジェクトとして日本初のサイエンスパークの建設など)、科学技術政策、都市政策、環境政策、情報政策、文化政策、民際外交政策などを全国自治体に先駆けで次々に策定、実行していった。幹部人事についても国家官僚の特権的天下りを断り、人事交流は相互的にすべきと主張した。これまた従来の国と地方の関係を大きく転換し、自治体を「地方公共団体」から「地方政府」に作り変える展望を示す構造改革であった。
 長洲さんは「県庁」を「県政府」に変えたいと考え、独自の政策展開を図ったが限界があることも理解していた。友好提携していたドイツ・バーデンビュルテンベルグ州では州のトップは「州首相」と呼ばれ、制度上国の上院議員を兼ねていた。各セクションのトップは「大臣」と呼ばれ与党の議員から選ばれる政治家だった。長洲さんは「これこそ<地方政府>だが、日本では国政レベルの大改革が必要だ」と考えていた。

3、情報公開、環境アセスなど政策的に国を先導した
 これらの政策のうちサイエンスパークの建設、工業、農業等の試験場を研究開発組織に改変、公務研修を自治体学研究に改変、情報公開(公文書館建設を含む)、環境アセスメント、民際外交(自治体同士の国際交流)などは国に先駆けて新しい行政分野を開拓したもので、これらの政策づくりや政策展開に当たって、長洲さんが協力を求め、起用した学者、専門家は国の審議会レベルに劣らぬ人たち200名以上に及び、国に対する知的、政策的ヘゲモニーを作り出していった。国が情報公開を制度化したのは1999年、神奈川県が制度化(条例制定)した1982年より20年近くも後であった。当時、朝日新聞編集委員の石川真澄は次のように書いた。
 「(長洲氏は)1982年都道府県では初めて情報公開条例を制定し、“役所が見せたくないものを見せる”を信条とした。その実践を通して、市民は行政への信頼を取り戻し、自治に参加できる。それが、“革命”に代わって、長洲氏が終世追い求めた民主主義観だった・・(国の)情報公開法がようやく成立した。神奈川県条例の制定から18年目である」(朝日新聞 1999年5月8日)

4、産業政策における構造政策としての「頭脳センター構想」、かながわサイエンスパーク(KSP)の建設
 私がKSPの社長だった時、KSPを訪問された米国ジョージ・メイスン大学ロバート・キャッシュ教授の言葉が忘れられない。私がKSP建設の基礎になった長洲知事の「頭脳センター構想」を説明し、神奈川は工業先進県から知識経済先進県に転換しつつあることを述べると、彼は身を乗り出し「それはまさに日本国の政策にこそ相応しい。それを県レベルで実現したのは素晴らしい。ぜひ国レベルに広げるべきだ」と喝破されたのである。
 長洲知事は就任後3年目の1978年「神奈川の産業構造を知識・技術集約型に転換し、神奈川を日本とアジアの科学技術と研究開発のセンターにする」との考えを骨子とする「頭脳センター構想」を発表したが、これは戦後日本の高度成長をリードしてきた京浜工業地帯を有する工業先進県神奈川で、他ならぬ京浜臨海部重化学工業の急速な衰退が始まり、工業社会から脱工業社会=知識・情報社会への大転換期にきていることを感得し、これを踏まえた政策構想であった。
 この産業構造転換の課題は国レベルでも同じだったはずである。もし当時、キャッシュ教授の言うとおり国レベルで長洲構想を遥かに上回る頭脳センター構想=日本をアジアと世界の科学技術と研究開発のセンターにする構想を打ち出し、具体策を展開していれば全国に数10のサイエンスパークが建設され、数百、数千のベンチャー企業が叢生し、幾つもの新産業が誕生していたかもしれない。かつて世界に覇を唱えた東芝、日立、松下などの凋落もなかったし、中国にGDPで数倍の差をつけられることもなかったかもしれない。「失われた30年」もなかったかもしれない。この意味でKSPの建設は産業政策、経済政策の歴史的転換期=工業社会から脱工業社会=知識・情報社会への転換期の課題を象徴する意味を持っていたと言えるのではないか(1人当たりGDP、国際競争力でアジアトップ、世界上位のシンガポールは何度も職員をKSPに派遣、「頭脳センター構想」を徹底取材して行ったこと、また自治体改革論のリーダーだった松下圭一教授が90年代始めKSPを視察された後「KSPは産業政策、科学技術政策、都市政策、環境政策、県・川崎市協調が一体化して実現した見事なプロジェクトだ、歴史の残る」とコメントしてくれたことも忘れられない)。

5、アジアサイエンスパーク協会(ASPA)の結成でアジアをリード
 KSP建設のもう一つの意義として、アジアにおけるサイエンスパーク運動をリードし、その発展に貢献したことが挙げられる。私は県庁時代、長洲知事の提唱する民際外交を担当し、米国(メリーランド州)、中国(遼寧省)、韓国(京畿道)、ドイツ(バーデンビュルテンベルグ州)、ロシア(当時のウクライナソビエト社会主義共和国オデッサ州)との友好提携を推進したが、KSPに移ってからも海外との交流を重視し、海外からの来客、見学者に懇切丁寧に対応した。こうした努力が実って、中国、韓国、台湾の関係者から経験交流のための会議を開いてほしいとの要望が寄せられ、1997年12月、日本、中国、韓国、台湾の8つのサイエンスパーク(中国は「高新技術産業開発区」、韓国は「テクノパーク」、台湾は「科技園」と呼ぶ)が集まり「東アジアサインスパーク交流会議」がKSPで開かれた。最終日に金大中政権のもとで経済産業大臣を務め、テクノパーク建設の特別立法を実現した金泳鎬(キム・ヨンホ)教授の提案で「東アジアサインスパーク協会」の設立が提案され、全会一致で決定された。私が会長に指名されたが事務局を引き受けることで会長は固辞した。第2回大会(韓国大邱)、第3回大会(台湾新竹)を経て中国瀋陽で開催された第4回大会で「東アジア」から「アジア」に改称され、中国、韓国の強い要望により私が初代会長に選ばれた。
 当時、欧米にはすでにそれぞれ数百のサイエンスパークがあり、アジアはサイエンスパークの後進地域だったので、ASPAの結成はアジアにおけるサイエンスパーク運動に火をつけ、発展させる上で大きく貢献したと言える。
 その後中国では北京大学、精華大学など大学発サイエンスパークを始め、数平方キロから数10平方キロ(KSPは5.5ha)に及ぶ大型サイエンスパークが続々建設され、今ではおそらく数百に及び「大衆創業」を呼びかける国家的スローガンのもと、ベンチャー企業も続々誕生しており、世界的大企業に成長した企業も多い。韓国でも政府主導、地方政府主導、企業主導のテクノパーク、テクノバレーなどが全国20数カ所に建設され(2024年現在)、韓国の経済発展や国際競争力の強化に貢献している(趙佑鎮多摩大教授による)。ASPAの2代目会長を務めた慶北大学教授、大邱テクノパーク代表の李鐘玄(イー・ジョンヒョン)の努力で大邱市内にASPA事務局が常設され、慶尚北道政府の支援を受けながら20年以上充実した活動を続けている。今年3月、ウランバートルで開かれた第27回ASPA年次大会資料によると会員数は187(うちサイエンスパーク83、他は大学や企業)、主な地域は日韓台の他、タイ、ベトナム、シンガポール、マレーシア、インドネシア、モンゴル、ロシア、イラン、サウジ、豪州などである(中国は欧米を含む世界サイエンスパーク協会・IASPの役員を務めており、しばらくASPAを離れている)。ASPAは日本のKSPで誕生したが今日のように大きく成長、発展したのはまさに韓国のおかげであり、サイエンスパーク運動においても日本にはまだ数カ所しかなく、「先発後進」国になってしまった。

 混沌、混迷する政治の中でーいまこそ構造改革を
 今世界は政治的混乱、混沌の中にある。先進国モデルだったアメリカは分断と格差、治安悪化で「法治国家から無法国家へ」「アメリカ消滅」(増田悦佐『アメリカ消滅』ビジネス社 2024)とまで言われている。かつて唯一の超大国として世界に君臨したアメリカにいま昔日の面影は無い。西欧諸国もNATOの対露制裁、ウクライナ支援による経済疲弊、移民政策に反対する右派勢力など反政府勢力が台頭し、主流を占め続けてきた保守中道勢力が危機に瀕している。世界の理想郷と言われてきた北欧の社会民主主義国も対露制裁などで経済が疲弊、フィンランドなど中立政策を捨てNATOに加盟したりして安保、外交でも行き詰まりが見られる。
 ソ連解体により共産主義の夢が崩壊する一方、アメリカの衰退、荒廃により資本主義も危機が叫ばれている。資本主義に代わるとされてきた社会主義も先進国では混迷の中にある。今ではむしろAIが繰り広げる新たな知的技術的可能性が社会の未来を拓いていくかのように言われ始めている。しかし、AIを使うのは人間であり、AIが社会変革をリードすることはない。より良き未来を目指すトータルな社会変革をどう進めるかは、いぜん人間の仕事であり、共産主義も資本主義も色褪せ、デジタル革命、AI進化が進むいま、次の社会をどう構想し、展望するのか、社会変革論をどう再構築すべきか、いぜん人間社会が直面する最大の課題である。
 そこに1つのヒントを与えているのが構造改革論である。プロレタリア革命をめざしたマルクスの予見は的外れに終わったが、イタリア共産党が1950〜60年代に唱えた構造改革論ー高度精密な社会を構築している先進資本主義国では社会の土台から作り変える一挙革命は不可能であり、構造的改革(structural reform)の積み重ねにより社会変革を漸進的に進めるしかない、とする考え方が改めて現実性を帯びてきているのではないか(イタリア共産党はその後主流は左翼民主党、少数が共産主義者党に変った。2006年にはジョルジョ・ナポリターノが大統領に当選、西欧初の共産党大統領として注目された)

 今日本は構造改革すべき課題が山積している。政治は自民党一党支配が名実共に破綻し、政権党の資格、能力を失っている。安保、外交では対米従属、軍事一体化、軍事大国化が進行し、中国包囲の最前線に立たされている。経済は「失われた30年」と言われるようにGDPは年々世界ランクを落とし(2位から5位)、1人当たりではアジア5位、世界38位に落ち、国際競争力でもシンガポール、台湾、韓国、中国に抜かれ38位である。賃金水準は先進国最低だし、女性の社会的地位、言論の自由などの指数も100位以下の低位に停滞していて、「日本はもはや先進国ではない」(野口悠紀雄)とまで言われている。
 最近、沖縄における米兵の性犯罪や事故多発を機に、日本社会の抱える諸矛盾の根幹として「憲法の上、国会の上」(翁長元沖縄県知事)に君臨する日米合同委員会、その根拠としての日米地位協定の不当性がクローズアップされている。多くの米軍基地、米軍の治外法権、横田空域など空の支配、オスプレイやヘリの低空飛行訓練など、やりたい放題の米軍への批判が高まり、日米合同委員会の廃止、日米地位協定の不平等是正の要求が全国知事会を含めて高まってきた。事実上の米軍による軍事占領を終わらせ、主権の完全回復と東アジアの冷戦構造の解体を目指す構造改革こそ当面最大の Structural Reform ではないのか。

 ここで検証した長洲県政は今から30年前、中央政界では敗北した構造改革の理念に基づく政治を神奈川(当時、人口、GDPでオーストリアと同じ、韓国のGDPを上回っていた)と言う地方で実践し、成果を上げた実際の記録である。構造改革の積み重ねによって社会のシステムと構造を漸進的に作り替え、換骨奪胎しながら新しい社会・政治システムを構築していく構造改革論の1つの実践例になるのではないか。(この研究成果は近く出版社から刊行される予定)
                                   
(アジアサイエンスパーク協会名誉会長 元神奈川県副知事)

(2024.9.20)
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