【コラム】八十路の影法師
漢字漫歩 国訓 その二 (あずける、あずかる)
日本銀行は政策金利を引き上げ0.5%程度にすると1月の会合で決定したとのことです。これにより政策金利は17年ぶりの水準に戻るらしい。大手銀行は早速に普通預金の金利を現行の年0.1%から0.2%に引き上げることを発表している。他の銀行も追随する流れのようだ。
この国では長いこと「ゼロ金利」が続いた。預金通帳には、ときたま利息として一桁の数字が印字されていた。その数字が倍になったとしても何の感慨も起きないだろうなあ。
銀行に大きなお金を預けるほどの余裕もない身でありますから、金利・利息などによってどうこうするなどということもありません。そこで、というわけでもありませんが、預金という言葉に含まれている「預」という漢字を眺めてみました。
「預」は小学校五年生で学習する漢字に割り振られています。常用漢字表によれば音読みは「ヨ」、訓は「あずける」、「あずかる」です。使い方の例として、熟語は預金と預託の二語をあげています。普段の生活で目につく言葉としては「預金」くらいのものでしょう。活躍の場が少ない漢字と言えますが、ほとんどの人はなじんでいる字です。そのくせ正体がよくわからない漢字でもあります。
そもそもなぜこの字が生まれたのかがわかりません。
漢字はひとつづつ固有の意味をもつ表意文字です。基本的には、物や事象(精神活動などを含めて)などがあって、それを特定する言葉が生まれる、その言葉を表したものが文字(漢字)のはずです。ところが「預」という漢字は何を表すための字なのかがよく分っていません。一部には「安らかなさま」、「やすんじる」、「たのしむ」といったことを表す字であったと説明をするものもありますが、そうした意味でこの字が使われたことを示す具体的な例がありません。今、わたしたちが文字の意味(字義)を認識するのは、その字がどんな風に使われてきたか、その来歴に依るのであって理屈ではありません。つまりは、この説明は根拠が曖昧なのです。
はっきりしているのは別の漢字の通仮字(つうかじ)として使われていたということです。通仮字とは、字音が同じ漢字に、同じ意味で置き換わって使われる文字だそうです。古典の文書では、ある漢字を同音の別の漢字にあてるという例があります。
古代中国の思想家・孔子の言行などを中心にまとめられた『論語』という書物がありますが、この中に「女」という字は延べ二十回ほど現れます。この字は、一か所だけを除き、あとはすべて「なんじ」と訓読されます。「女」という字がサンズイのついた「汝」(漢字音はジョ)の通仮字として使われていたことがわかります。蛇足ですが、残る一つの「女」は文字通り女性を表しています。「ただ女子と小人は養い難し」という悪名高きフレーズに見えます。
「預」は二つの漢字の通仮字として使われていたようです。予定、予備などの「予(豫)」と与党、関与などの「与(與)」の二つです。このため現在わたしたちが使う辞書には「預」の字義として ①「前もって準備する」などといった「予(豫)」がもつ意味と、②「参加する」、「かかわる」など、「与(與)」がもつ意味とが挙げられています。これらに加えて、漢字本来の字義を外れてわが国だけで通じる意味・使い方(国訓)である「あずける」、「あずかる」が出てきます。
通仮字というのは漢字の母国である古代中国の慣習で、現代のわが国にはこれはありませんので、日本の教科書、公文書などでは「預」はあずける、あずかるの意味だけを表すようになっています。ところが『日本国語大辞典』(小学館)は「あらかじめ推測していう」意味の「よげん」に「予言」だけではなく「預言」も併記しています。『広辞苑』では「預言」を別項目として立てています。しかし、この「預言」はキリスト教聖書における特殊な用法で、漢字熟語としても疑問がある言葉です。
日本人は「あずける」、「あずかる」という言葉を古くから使っていました。
「今は昔、竹取の翁(おきな)といふ者有りけり」で始まるかぐや姫のお話、『竹取物語』は日本最古の物語文学といわれていますが、成立したのは9~10世紀頃(平安時代)と推定されています。その初めの部分ですが、かぐや姫を手の中に入れて家に持ち帰った翁(おきな)はおばあさんに姫を「預けて養わす」という語句が使われており、「あずける」という言葉があったとわかります。
しかしオリジナルの漢字の中には「あずける」、「あずかる」といった意味をもつ字はありません。そこで、どんないきさつであったかは別として、日本人は「預」にこの意味をもたせたのでしょう。
実は、漢字がなかったというより、「あずける」、「あずかる」に相当する言葉(単語)は、わが国以外には無いかもしれないと思っています。第一、当たり前のように口にするわたしたちさえ明確な説明は難しい概念ではないでしょうか。
コンビニなどで「千円からお預かりします」などの言い方は間違っているように思いますが、銀行にお金を預けるというのもちょっと首をかしげたくなる表現です。そのほかにも「台所をあずかる」、「この件はわたしがあずかろう」、「ご相伴にあずかる」、「下駄をあずける」……いろいろな展開をもつ概念です。
悩ましい問題もあります。ちょっとの間、用事で出かけるとき、親しい人に幼い我が子を預けるなどというような例です。好意・善意で成り立っている行為に、不幸・不都合な結果が起きてしまったとき、預けた側・預かった側、それぞれの義務・責任はどのように考えればよいのでしょう。
親しくしているご近所さんに預けた我が子が農業用ため池で溺死したことから訴訟事件までに発展したいわゆる「隣人訴訟事件」(1977年)などが思い起こされます。
国訓に注目してみると、本来の字義と日本人が考え出した独特の意味付けとの間のギャップに驚かされたり、あるいはそこに日本人の思考のユニークさを見るような気がしたりで、案外、面白さも感じられます。
(2025.2.20)
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