【コラム】八十路の影法師
漢字漫歩 音読み・訓読み 「税」
世界一の大国である米国の大統領が税を武器にして世界をかき回しています。
マスコミは株式市場における株価の乱高下を熱心に伝えるなど足元の経済活動の混乱ばかりに焦点をあてていますが、展開の次第によっては広く生活全般に及ぶような混乱をもたらすのではないかと危惧を感じます。しかし、そういう方面にはとんと暗い悲しさ、想像もつきません。
税という漢字は小学校5年生で習う常用漢字です。常用漢字表が示す読み方は「ゼイ」という音読みだけで、訓読みはありません。
訓読みのない漢字はさほど珍しいものではなく、常用漢字だけでみるとその数は全体の38%程度あります。
大雑把な言い方になりますが、漢字に訓読みがない主な理由の一つは、その漢字が伝来した当時の日本には、その漢字が表す事物、概念などがなかったということだろうと思われます。手っ取り早い例でいいましょう。わが国は自前の文字をもっていなかったために、よその国の文字(漢字)を採り入れて表記文字としました。文字がないのですから、文字という概念もないはずです。であれば文字を意味する言葉自体、存在するはずがないということになります。「字」という漢字を見、その意味を理解したとしても、それに対応する自分たち固有の言葉がない以上、その漢字のもともとの読み方(オリジナルの発音)で読むしかなかったはずです。こういうことから「字」は「ジ」と音読みされ、訓読みはないのだと考えられます。
蛇足ですが、常用漢字表には「字」の訓として「あざ」が表示されています。これは「国訓」、あるいは「字」という漢字を「当て字」として使う読み方であって通常の訓とはちがうものでしょう。
わが国の基礎自治体は市・町・村などですが、ところによってはさらに狭い区画を定めることがあり、これを歴史的に「あざ」とよんでいます。この「あざ」に当て字として「字」が慣用的に使われているために、常用漢字表では無視できなかったのだろうと思います。「あざ」は「字」という漢字本来の意味にはつながりません。
漢字伝来のころ、この国には税はなかったということか……?
あったようです。卑弥呼の時代のわが国の様子を伝える『魏志倭人伝』には「租賦(そふ)を収(おさ)む」との記述があるそうです。「租」は「年貢。田地ごとに課して、収穫の一部を穀物のまま納めさせたもの」という意で、「租賦」は「年貢、租税」の意と解されます(三省堂『漢辞海』)。
当時の日本人は「租賦」を何という言葉で呼んでいたのか……?
古語辞典には「たちから」(語義は穀物による物納、漢字は田力あるいは田租などをあてている)、さらには「みつぎ」(穀物以外の物税、漢字は調、貢などをあてる)などの語も出てきます。『岩波古語辞典』には「たちから」は『日本書紀・雄略十三年』(5世紀後半?)の記事を用例としています。卑弥呼の時代からは二百年くらい経ったころです。
7世紀半ばには大化の改新が行われ、公地公民(土地や人民を国家のものとすること)が基本の考え方となり、701年の大宝律令で租・庸・調という税・労役を課すしくみが定められます。これらは中国(唐王朝)をならってできたものですから用語は漢字で表記され、音読みされます。
田租は平安期の荘園発生、つまりは公地公民という基本の枠組みの終焉に伴って年貢といわれるようになっています。その後、時代によって呼び名が変わったりした時期もありますが、近世まで年貢の呼称は続きます。
ざっと見たところ近世に至るまで「税」の字は表に出てきません。ただ一つ、大宝律令では税を担当する役所の名前を主税寮としています。現在の財務省主税局の先祖です。その読みは「ちからりょう」、「主税」を「ちから」と読んでいます。
『忠臣蔵』の大石内蔵助の長子・良金(よしかね)の通称は主税(ちから)といいました。ずいぶん年月を経てよみがえったものです。とはいえ、蘇生の因縁はわかりかねますが……。
漢字伝来のころにはわが国に税制といえるものがあったにもかかわらず「税」という字に訓がないこと、さらに、この字が近代になるまでほとんど使われていなかったことは大いに不思議です。
またまた蛇足ですが、辞書によっては「税」の訓として「みつぎ」をあげているものがあるようです。古語は別として、この語が近・現代において税の意味で使われていた例はあるのでしょうか。管見のゆえ、わかりません。
税などもそうですが、社会的な制度の創設、展開、充実は国家の成熟と密接な因果関係があるように思えます。国の成熟度が高まるほど、ルール・仕組みは多岐にわたるようになり、また複雑にもなる。それにつれて関連する言葉も数が増えていくように思われます。
「厳格なルールがなくとも済んでいたものが、時の経過につれて、そうもいかなくなってくる。そこで法律というものができる。法律ができるとそれに違反した場合の刑罰も定められる。一方、国が豊かになれば他国からの侵略の恐れが増大する。したがって国を守るために兵を育成し軍隊をつくる。」
上のカッコ内の文中で太字アンダーラインをつけた漢字は訓読みが示されていない常用漢字です。これらの字のすべてがそうであるかどうかは確かめていませんが、訓として採用できるような固有の日本語(やまとことば)がなかったことは考えられます。
何しろ歴史の長さが違います。日本に漢字が伝わったのはおよそ千六百年前と言われます。ところが中国で漢字が生まれたのは、それよりさらに千六百年以上さかのぼる三千三百年前のことだそうです。ちなみに、『論語』には孔子(紀元前552~479年)の弟子が、師から教えられたことを忘れぬよう筆でメモするという場面が出てきます。この話は、わが国でいえば縄文時代の終わりころのことです。まだ国の「かたち」もできていなかったでしょう。こうした時間差こそは彼我の文化のレベルに差があった大きな要素でしょう。
古代国家ができたあともしばらくの期間は隋・唐など中国のあり方が「基準」となっていました。何を書き表すにも漢字しかなかった。それどころか、「仮名」ができたあとでさえも漢字が正式という時代は続いています。そんな中では税や法などといった国としての基幹的な制度にかかわる表記は漢字中心となることは自然の流れであり、したがって、日本語(やまとことば)が表に出ることはあまりなかったのではないかと想像しております。
(2025.5.20)
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