【視点】

田中角栄前首相 逮捕から50年

 ——ロッキード疑獄の後始末は
羽原 清雅  

 田中角栄前首相がロッキード事件の外為法違反容疑で逮捕されたのは1976年7月27日。半世紀50年の歳月が流れた。
 首相時代の田中は日中国交正常化を果たし、日本列島改造論を打ち出し、学歴・世襲もない庶民宰相として国民的人気をつかむ一方、お得意の衆参選挙では振るわず、金脈選挙や小選挙区制導入を決意してゲリマンダーならぬ「カクマンダー」なる利己的区割りを強行、あるいは命取りとなった金脈選挙や女性問題を文藝春秋誌に暴かれるなどした。田中内閣の総辞職は1974年12月、在任886日、2年5ヵ月だった。
 だが、50年後の今もなお、角栄人気は生き残る。

 首相退陣後も、自民党内での影響力は衰えなかった。
 田中退陣後の首相の座には椎名悦三郎裁定によって三木武夫が就き、ついで三木を倒した福田赳夫が(1976年12月)、福田を総裁選で破ると大平正芳が(78年12月)、大平の衆院選さなかの急逝後には大平派の鈴木善幸が(80年7月)、鈴木が辞めると中曽根康弘が(82年11月)、こうした宰相誕生の裏には常に田中の意向がうごめいていた。それは、田中の政界引退(1990年1月)まで続く。

 田中は、ロッキード社による全日空への航空機売り込みに伴い、5億円のリベートの受託収賄罪などで逮捕される。米議会での発覚(1976年2月)、田中逮捕(同年7月)、東京地裁での一審判決(懲役4年、追徴金5億円・83年10月)、そして死去(93年12月)。速いテンポだった。首相経験者の逮捕は、終戦直後1948年の昭和電工事件の芦田均以来で、戦後2人目。ちなみに、芦田には右翼の三浦義一が、田中にはやはり右翼の児玉誉士夫が絡んだ。

 ちなみに、筆者(羽原)は佐藤政権末期から田中、三木、福田、大平までの間、自民党を担当(平河クラブ詰)して、いわゆる三角大福時代を直接見ることができた。
 幸いなことに、田中の地元新潟支局に4年在任したことで田中の秘書官と親しくでき、また党内紛争のあった三木時代には佐藤派から一時田中派入りした佐藤内閣の官房長官を務めた保利茂と、それに保利側近ながら三木陣営に急接近した松野頼三を長く担当していたことから、反三木の陣頭に立った保利と、三木の懐刀となった松野の双方の動きを見ることができた。
 田中逮捕に続いて、田中側近の党幹事長橋本登美三郎の逮捕のころには、佐藤派時代に夜回りをしたことがあり、筆者の新聞社の大先輩でもある橋本と、その新聞社に勤めていた夫人には近づきやすく、逮捕前には橋本の談話を取りに行って、その談話をまとめると、秘書を通じて各社に回すようなこともあった。

 ロッキード事件そのものに触れることはなかったが、この事件のもたらす自民党の動揺、そして幹部議員たちの動向や思惑、政局への姿勢などを学ばせてもらうことができた。
 この事件に次ぐ大事件は1988(昭和63)年発覚のリクルート事件。朝日のスクープで火が付いたもので、リクルート社の江副浩正会長のもと、傘下のリクルートコスモス社の未公開株が賄賂として自民党のみならず野党の要人ら、文部、労働省の次官級、財界からマスメディアの幹部らなど広範に配られた。中曽根康弘、竹下登時代のことである。
 政界3大汚職として挙げれば、近年の政治資金パーティー収入の裏金事件だろう。2022年に「赤旗」紙のスクープに始まった。自民党派閥の政治資金パーティーの券を各政治家が売り、一定のノルマを超えた収益部分を各政治家がポケットマネーとして使える仕組みで、政治資金規正法では不記載、虚偽記入の罪に問われる。自民党の衆参議員100人以上が関わっていたが、法に問われたものはごく一部で、あとは党除名、閣僚辞任、議員辞職など、多くは離党勧告、役職停止、戒告などで済まされた。野党も追及したが、自民党の巧みな逃げ口上の前に中途半端にほぼ終わった。

 自民党は権力の座に長く、法網をかいくぐる術を知り、また多数党の利点を発揮するなど、逃げ、かわすことで生き延びた。政界と「カネ」、権力と「カネ」の問題は尽きることはない。世論も一過的な怒りを見せるが、飽きるのも早い。攻める野党も調査機能が甘い。ただ、自民党の体質にはもっと厳しく、また党自体に正道を守る気迫が必要だろう。
            
 そんな一環として、かつて田中角栄の金脈問題について書いたことがあり、ロッキード事件をめぐる角栄を読み取る一助にでもなれば、と思い、メルマガ編集部に再録をお願いした。

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 田中角栄 「疑惑」の残照

 以下は、メールマガジン「オルタ」の2012年3月号に書いたものである。

 経済学者の伊東光晴先生(京大名誉教授)が2月15日、日本記者クラブの講演中に心筋梗塞で倒れた。筆者はたまたま、「原子力発電の経済学」をテーマとする講演を聴きに行った現場でのことであり、予想外の事態だった。声も表情も84歳の年齢を思わせることなく、話の内容も蓄積ある論理で、歯切れのいい批判だった。ただ、顔が紅潮して相当ハイテンションだった、とあとからそんなことを感じさせたのだが、その講演の冒頭での、柏崎刈羽原発を巡る「新潟日報」の報道がきっかけになって、この稿を書きたくなった。

 じつは筆者が新聞記者の第一歩を踏み出したのは新潟で、1963年の大豪雪、翌64年の新潟大地震、65年の発覚時の新潟水俣病、塚田十一郎知事の選挙がらみの贈賄事件など、4年間にわたって災害、事件、政争など全国紙の一面、社会面を飾るような記事を取材する立場に恵まれた。トロッコにも至らない記者生活のなかで、「新潟日報」は毎朝、恐い存在だったことも懐かしい。
 柏崎刈羽原発の建設計画が発表されたのは69年、ひそかに土地売買の動きが始まったのはそれ以前のことであったが、筆者が東京に転勤して間もない時期だったので、知る由もなかった。

 伊東先生の話はこうだ。東京電力が柏崎刈羽原発を建設する際に地元選出の元首相・田中角栄に4億円のカネが動いた、これを書いた新潟日報はエライ、というのだ。どういうことかなどくわしいことには触れず、約40分後に倒れたのだが、筆者はこのカネをめぐる事実を知らないでいたので、興味をそそられた。

 それは、2007年7月の中越沖地震によって、この原発7機全部が停止した際、新潟日報社が1年間にわたって紙面企画を続けるなかで掘り起こした事実だった。ちなみに、この企画は『原発と地震-柏崎刈羽「震度7」の警告』(講談社)にまとめられている。
 東電が「活断層」の存在を隠し、「安全神話」をカネとともにばら撒いていたことなど、福島原発事故に先立つこの警鐘を、なぜ早くから予知しようとしなかったか、どうしてその内情を掘り起こして、さらに広範な世論に出来なかったか、報道に関わってきた者として申し訳ない気分である。さらに、こうしたウラの動きが安全の確認を黙殺した結果、被害の拡大につながったとするなら、政治家とカネの昔ばなしにとどめるわけにもいくまい。
 ただ、ここで取り上げたいのは原発自体のトラブルではなく、伊東さんが指摘した「角栄の政治献金」、正しく言えばウラガネが動いたことについてである。

 2007年12月13日付の同紙は、「柏崎原発用地の売却益 4億円 田中元首相邸へ
 総裁選前年 ヤミ献金流用か」との見出しで大きく報道している。これは元首相の地元筆頭秘書で『国家老』といわれた実力者本間幸一(当時85歳)が、同紙記者に明かしたものである。情報としては、第一級品の事実といえる。

 同社の記事をもとに簡単にまとめると・・・。
 かつて柏崎は、地元からスタートした日本石油(現新日本石油)や理研(理化学研究所)関連企業などを軸に石油の街、機械工業の地を形成して繁栄していたが、戦後は廃れる一方で、広い砂丘地帯でつながる隣接の刈羽村とともに、過疎化・豪雪・財政難にあえいでいた。どん底状態から抜け出す発案が原発設置の誘いであった。
 1969年に両市村の議会が「地域開発促進に貢献する」原発誘致を決議するとすぐ、東電は9月に砂丘地での建設計画を発表する。だが、その裏ではすでに建設用地の売買が進行していた。刈羽郡越山会会長で刈羽村長から県議になった木村博保が言うには、東電中津川第1、2発電所の建設に尽力した先輩県議に誘われて、東電本店で筆頭常務に会い「原発がないと日本経済は持たない」と理解と協力を求められた、と述べている。

 だが、その木村はすでに2年半前の66年8月、建設予定地の一部52ヘクタールの砂丘地を北越製紙から買い取っていたのだ。そこにも、利権がらみのにおいもするが、そこまでは追いかけていない。そして、その所有権は3週間後、角栄の土地ころがしの際にいつも登場するユウレイ会社「室町産業」に移る。
 それが、5ヵ月後にはまた登記錯誤として木村のもとに所有権が戻されていた。当時村長だった木村は、砂丘地はモモの栽培など農業振興のための入手で、ほかから買われそうだったので、信用金庫から借りた私費を投じたが、金利が持ちこたえられず、角栄に購入を頼みこんだ、ところがそのころ、幹事長だった田中はやはり地元で問題化していた「室町産業」の信濃川河川敷の買い占め問題(後述)を国会で追及され、これ以上角栄に迷惑をかけられないので、戻してもらったのだ、そうである。木村が約2000万円で買い取ったこの土地はその後、木村から東電に20倍の約4億円で売却されている。
 木村が砂丘地を買い取った66年ころには、東電進出の話はすでに流れており、不動産業者、建設会社、地元有力者らが辺りの土地を買いあさっており、これは登記簿が証明しているという。土地値上がりを見込んだ投機であり、東電はこの高騰分を電力料金なり、政府からの助成金などでまかなえばよく、要はこのツケは国民の負担に回されたわけだ。

 では、「室町産業」が登場する背景として、田中はどう関わったのか。地元選挙区、ということ以上の関わりがある。新潟日報は婉曲ながら、「理研」がらみと見る。田中は戦前、田中土建工業を興して理研コンツェルンの理研工業などの仕事で収益を上げるとともに、理研グループを率いた大河内正敏に引き立てられた経緯があるが、田中はその理研ピストリング工業(現リケン)会長で東電顧問、電事連副会長だった松根宗一との接点があった。また松根は、1963年という比較的に早い時期に柏崎市長小林治助に原発誘致を勧めている。小林はもともと田中に近いうえ、原発の受け入れ推進に政治生命をかけたといわれた人物だった。
 田中首相の時代になった1974年6月には、電源三法が成立する。これは小林市長の発案とされるもので、原発立地を受け入れた自治体には多額の交付金を配分しようという「アメの政策」だった。

 角栄がどのような関心と関連を持ったかは、今となっては解明できそうにない。
 ただ、結論として、角栄の地元代行者でもあった前述の本間幸一が1971年、木村と一緒に東京・目白の田中角栄邸を訪ね,現金で4億円を渡した、という、まさにその当事者の証言で理解できよう。さらに木村によると、田中邸に届けた4億円のうち2-3割がのちに田中側から戻されたという。いわば、利息や手数料などの必要経費が返却されたということだろう。

 田中角栄のこのような錬金術は、各方面で行われている。
 筆者がはじめてこの問題に接しえたのは、1964、5年の新潟県議会での社会党県議小林寅次、志苫裕、木島喜兵衛らが追及した新潟市郊外にある鳥屋野(とやの)潟の土地・水面買収工作の件である。この鳥屋野潟付近は、今では公園、野球場、図書館、さらには団地や住宅街などができて、大きな憩いの場になっているのだが、その裏には犯罪になり得なかった歴史的な大疑惑があった。だが、そうした事情は語り継がれることもなく、地域の変貌と同じように、すっかり忘れられている。
 この鳥屋野潟と隣接の蓮潟一帯は信濃川の葦の生える遊水池で、付近には人家も少なくさびしい土地だった。170ヘクタールほどの土地・水面は農民たちの共有のものだったが、地元不動産業者が坪5、60円で買いあさり、1961年ころに、その4割が日本電建によって2億円で買い取られた。このころの日本電建のオーナー社長は田中角栄自民党政調会長で、この会社はのちに角栄の刎頚の友小佐野賢治に譲られている。そしてまもなく、蓮潟地区などの一部が、2億数千万円で新潟県と市に買い取られている。当時の新潟県知事は、田中の政界進出時に手を組んだ塚田十一郎(元自民党政調会長、郵政相)。社会党県議らの県議会の追及ではシッポはつかめなかったが、明らかに疑惑は残された。一方、鳥屋野潟地区については、日本電建から「新星企業」「関新観光開発」「浦浜開発」といった角栄ファミリー企業というかユーレイ会社の手を転々としたあげく、1981年新潟県は県立公園を建設することを決め、この地の所有者たち、つまり大手の角栄がらみ企業などに巨額のカネを支払うことになった。

 この類似例が、前述した信濃川河川敷問題である。
 問題の「室町産業」は1964、5年ころ、長岡市の73ヘクタールもの信濃川の河川敷、民有地と国有地占有権を5500万円で買収した。田中が池田、佐藤両内閣の蔵相を経て念願の自民党幹事長になったころである。洪水になれば水につかるような土地で、利用しにくい地区だったが、買収後に流量を調整するための堤防(かすみ堤といわれ、堤防に枝状に切れ目を設けて洪水時にはそこから遊水池に水を逃す仕組み)が造られることになり、さらにその工事中に本格的な堤防(高さ3メートル、延長2キロ)に設計が変更されたのだ。しかも国道8号線のバイパスが通ることになり、1971年に完成すると、この広大な土地は高騰、さらに河川敷としての指定から外され、一部は長岡市の公共用地として処分されるが、その一方で角栄ファミリー企業の長鉄工業、室町産業に巨額のカネが流れ込んだ。

 このほかにも、国会などで疑惑が追及されたケースは少なくない。
 *新潟大学移転用地問題 1961年、日本電建が買収した土地を、新潟市開発公社に4倍強の価格で売却して、のちに問題化
 *千葉・稲毛公務員住宅用地転売問題 この問題をめぐり、田中首相と小佐野国際興業社主との関係が国会で追及 
 *辻和子邸用地の国有地化問題 ファミリー会社・新星企業取得の新宿区内の土地が田中と親密な辻名義となり、さらに国有地に転売されて国会で追及*大阪光明ヶ池用地高騰問題 日本電建がらみの日本住宅公団用地(大阪・和泉市)の湿地が、1年半で10倍に高騰したとして国会で追及
 *虎の門国有地の安値払い下げ問題 時価30億円という国有地が田中蔵相時代に、小佐野国際興業社主系列の企業に11億円で払い下げられて国会で追及

 ここに挙げたのはおそらく、ごく一部であり、ほかにもまだまだあると思われる。
 田中は国会に当選して間もない1949年、法務政務次官のとき、炭鉱国家管理疑獄で逮捕されるが、獄中立候補で再選、51年6月に無罪となっている。これが、法網に引っかからないための慎重さを身につけさせることになったに違いない。また、戦前の土建業経営の手腕、一級建築士としての知識は、緻密に戦略を練ることに役立っていよう。もちろん、そこには政治家として、政権と与党の幹部としての肩書きがモノを言っている。

 田中角栄の「うまさ」を見ていくと、わかることがある。

1.早め早めに格好の「情報」をつかみ、物権自体の付加価値を読み込んで収益を増し、さらに「節(脱)税」策を考える。
2.持ち込まれる多方面からの情報がいかがわしいものであっても、まずは排除せずに親しく接し、事情を掌握し、かいくぐれる道があるかどうかを検討のうえ、取捨選択する。
3.手をつけるにあたり、こうすればああなる、という多様なシミュレーションを考える。
4.相手の弱み、本音、期待を調べ、妥協点を見出して、打診をする。
5.税制、法的手続きなど各面での専門家筋に当たり、法律に引っかからない「第三の道」を編み出す。
6.時間がかかる問題でも、将来的に展開可能かどうかを読み、着実な手を打っていく。
7.みずからが介在しないような、複雑な仕組みを考え、口の堅い代行者を置くか、事情を知らずに動く人物を使う。
8.ユーレイ的会社による物権ころがし、カネとヒトによる複雑なころがしを組み立て、周辺に気づかれない手法をとる。
9.収益の配分には気を配り、恨みを生まないよう独占することなく、相手側も納得するだけの対応をする。
10.要所要所に信頼の置ける人物を確保し、情報のアンテナとして確度をつかむ。
11.狙いの物権は概して公共に関する大規模なものとし、関係官庁内の情報と人脈をつかみ、法的な問題の有無、将来の計画や展望などをひそかに調べる。
12.問題が生じた場合、関係官庁などによって正当性が保証されるよう手を打つ。
13.批判が出るような状況や党派、関係者などをある程度つかんでおき、その弱みや妥協材料を考えておく。また、問題化しないよう、あるいは問題化してもいいように、司法関係も含めてニラミの効く幹部らを配置、ポストや処遇などの彼らの希望などを先読みしておく ――といった点である。

 したがって、「疑惑」を持たれて追及されても、「法廷」にまでは至らないですんできた。
 ただ、海外のカネであったロッキード事件については、そこまでの事前の配慮や準備が届かなかったのだろう。そのぬかった点では、無念であったに違いない。

 角栄的手法は「カズ・カネ・情報」といわれる。数の力は、多数派を形成することで権力と発言権を握らせ、支配体制を維持させる。カネは手元にとどめず、右から左に流す。もちろん、みずからも握るのだが、カネが広範に流れるほど影響力をますし、擁護的共犯意識を持たせる。この独り占めしない「気前のよさ」が、皮肉にも被害者でもある庶民を酔わせるのだ。情報はカネの道を開くだけではなく、組織の維持に役立ち、情報と配分を求めてひとが集まり、また支配の方向やノウハウを教える。組織的な「秘密保持」の機能を備える。そこに、田中角栄の独特の才覚が生かされてくるのだ。

 ところで、田中角栄に対する見方は、礼賛型と非難型に二分しているように思える。政治記者でも、礼賛型の本を書き、論評する人が少なくない。ただ、そうした礼賛に傾いた「角栄伝説」が歴史的に語り継がれ、定着していくことには抵抗がある。政治の根底には一定の倫理観が息づいていなければならない。法網をかいくぐるかの金脈作りは、「犯罪」とはならなくても、またロッキード事件で断罪済みであっても、国民にツケを回す土地ころがしなどの事実は切り捨てるべきではない。おなじように、田中時代の政治自体についても、それがどうであったか、どんな影響、結果をもたらしたか、プラスとマイナスの両面から見定めるべきだろう。

 筆者も、田中元首相の才覚と実力が抜きん出たものであったし、魅力ある政治家であるとは感じている。創造的な智恵、相互利益のための工夫、広範な思考力、国民へのアピール手法などが、劣化した昨今の政治家群には全く見られない力量があった。ある意味では、今日のような学歴と「枠」にはめ込まれなかったことによる独自の努力と自己開発が、田中を作り上げたのかもしれない。小沢一郎の手法をもって、田中の後継者風に見るムキもあるが、錬金術的技法は類似していても、決してそのレベルではない。メディアは小沢について、その器(うつわ)の買い被りというか、枯れ尾花におびえるというか、冷静とはいえない。

 政治記者になりたてのころ、佐藤派の末端を担当し、また幹事長番の手伝いとして、目白の田中邸に通って、ご本人の話をじかに聞くチャンスがあった。秘書の報知出身の早坂茂三は筆者が新潟支局経験だったことで、また共同通信出身の麓邦明、そして佐藤首相秘書で産経出身の楠田實は筆者の担当していた保利茂とも親しかったことで、それぞれに駆け出しの筆者に体験談を話すなど、良く接してくれていた。その後は、田中と保利の政治的スタンスが対立したこともあって、保利側の取材に集中したのだが、田中の魅力は記憶に良く残っている。
 それでも、彼の所業については、礼賛に傾いてはならない、という印象が強い。
 伊東先生の講演は、もういちど政治家の根幹のようなものを考えさせてくれたようだ。幸い、先生の手術は成功され、意識は回復し、おしゃべりも出来る状態だという。原発の抱えた問題点について、残された部分のお話をまた伺いたいものである。(2012年3月号「メールマガジンオルタ」掲載)

<元朝日新聞政治部長>

(2026.8.20)
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