【視点】

異議あり!沖縄県民の本土疎開

羽原 清雅
 
 政府は対中国有事の際に、沖縄県先島諸島の県民約12万人を本土に疎開(避難)させる準備に取り掛かった。「疎開騒ぎ」はアジア・太平洋戦争以来、80数年ぶりのこと。
 国民の安全を守るいつになく早い措置、と若い人たちは歓迎するかもしれない。しかし、縁故疎開と学童疎開の経験者としては、「異議」を強く訴えたい。
 戦争下の局地的な安全を守る前に、まずすべきことはないのか。政府は、国民に軍事体制を強化し、戦争準備の心の用意をさせる一環の試みなのか。安心感を振りまくかの早手回しの対応なのだろうが、本当にそれでいいのか。
 政府がまずなすべき仕事は、外交努力だろう。台湾をめぐる中国の武力行使への警戒を重視し、防衛の名の軍事体制強化に取り組む政府だが、「疎開」の前に中国との日常的な外交の接点を頻繁化し、経済や学術、文化などの交流を実らせ、さらには双方の国民が行き交い、親密化を図りつつ、お互いの思考の違いを理解しあう交流こそが必要だろう。

 国民の生命と財産を守るという政府への信頼は、敵対する「軍事」ではなく、長期的視野の「交流」推進から生まれてくるものだ。その視点が欠けている。

 「疎開」の概要 この措置は、2022年末に策定された安保3文書にある「南西地域を含む住民の迅速な避難を実現すべく、円滑な避難計画の速やかな策定」による。
 対象は沖縄の先島諸島で、石垣、宮古島両市、竹富、与那国両町と多良間村の5市町村の住民たち約12万人。1万人程度は個人的に対応できるとみて、実質11万人という。九州・山口の8県32市町村に自衛隊、海上保安庁、民間の船舶、フェリー、飛行機により、1日約2万人を6日間ほどで届ける。福岡県の場合、4万7000人程度、鹿児島、熊本、大分3県は1万超。宿泊施設は1泊3食付きで、国費から7000円が出る。

 すでに、受け入れ先の市町村、バスやホテルなど宿泊先などの関係者は戸惑っているという。全室空室ならいいが、一般客がいたら、どうするか。通常は朝食付き2万円程度で、疎開時は3分の1ほどの支払いのよう。そのコストも問題だろう。人手の足りないバス会社も頭が痛い。要介護者同行の問題もある。地元に残す畜産のエサやりの心配もある。それ以上に「台湾有事=戦争」という前提が気がかりだ。
 
 現地の戸惑い 現地の人々に戸惑いがある。2,3の人に聞いた。80年前のアジア太平洋戦争時の生々しい思い出が蘇る、という。
 1945年3月には米軍の近隣諸島への上陸が始まり、4月1日以降は沖縄本島に上陸し、「鉄の暴風」と呼ばれる猛攻が続いた。現地の住民全員が家々を追われ、中学生までが軍に駆り出され、女性や高齢者、子どもたちは 食うや食わず、あるいは病人姿のままに島内を右往左往し、逃げ惑った。よく知られる「ひめゆり部隊」の若い学生たち。島の南部摩文仁の丘への逃避行。難行苦行のガマ(洞窟)での生活は、豪雨、灼熱、湿気、換気不能、食糧難、トイレなどの諸臭気、時に幼児殺害まで迫る兵隊の横暴など。そして飛び交う銃弾、雨中の夜間行軍。そうした苦難の日々は今も脳裏から離れず、多くの家族や近隣の人々に語り継がれる。長寿の沖縄には、この経験を持つ高齢者たちはまだ多くいる。
 先島の人々には、「本土避難」「集団疎開」と聞けば、ガマの生活を思い起こす。政府の要人らには何気ない机の上での計画が、地元の人たちには蘇る悪夢でしかない。

 往時の疎開の経緯 アジア太平洋戦争での日本の敗色が見え始めたのは、1941年末の宣戦布告から半年あまりしか経っていない42年のミッドウエー海戦の敗北からだった。その後は、徐々に敗退を重ねて、沖縄にまで迫られた。日米の資源力、生産力、軍事力は比較にならないほどの格差があった。冷静に見れば、無茶な戦争だった。
 政府、軍部の対応は鈍く、43年秋ごろから、帝都東京や主要都市の重要施設や建物、資材などの移転、人々の地方転出の方針を決め、文部省が生徒児童の「疎開」を通達したのは11月だった。10月には、戦争の人手不足から学徒動員が始まっていた。

 東条英機首相は、疎開推進の東部軍参謀長辰巳栄一を呼びつけ、「吾輩はその意見に反対だ。物量豊富な米英に打ち勝つ最も肝心なことは、日本古来の大和魂、国民精神を十分に発揮するにある。国民精神の基盤は、日本の家族制度であって、死なばもろともという気概が必要だ。家族の疎開などもってのほか」と強く叱責されたという(日本経済新聞1972年7月8日)。右翼団体も「逃避のみこれ念とする疎開政策が、わが美風を破り、国体精神を如何に阻むかは他言を要せず」「神州不滅を信ずれば、全土にこれ安心なり」と政府に建白書を出した。
 44年6,7月、「学童疎開促進要綱」が決められ、学童疎開の対象として東京のほか12都市を指定、計40万人の疎開を計画した。7月18日、東条内閣が総辞職し、学童疎開は進めやすくなり、8月に実施となる。
 政府の疎開推進に踏み切った本音には①子供、婦女子は戦闘時に足手まといになる、②当時、1億玉砕論が出ており、将来に後継の世代を残したかった、③子を失った親たちに厭戦気分が残ると困る、といった見方もあったようだ。

 疎開生活の実態 奄美大島、徳之島、沖縄、宮古、石垣の5島から、本土と旧日本領だった台湾への老幼婦女子の疎開が決まったのは7月7日の閣議だった。しかも「7月中に」の制約付きだった。
 沖縄の人には、政府の方針を受け入れがたい事情もあった。というのは、この直前に玉砕したサイパン島の状況がかすかに伝わっていた。つまり、当時の同島には、2万人余の在留邦人のうち1万人が犠牲になり、移住者の多かった沖縄の人はそのうち約6000人もが犠牲になったのだ。
 そうした迷いもある状況の中で、各学校長への親展の手紙があった。それには「敗戦的なる思想傾向に陥らしむることなき様」「疎開とは単なる避難若しくは退散にあらず 戦争完遂の為の県内防衛態勢確立強化を図らむがための措置」とある。文字通りの上意下達であり、内容は「玉砕の覚悟」を迫るものだった。
 そして、本土に8万、台湾に2万との配分が進められた。実際には、双方で6,7万の県民が疎開した、と言われている。宮崎、熊本、大分3県で児童5586人、先生付き添い979人、計6565人という資料が残っている。
 急な話でもあり、安全渡航、食糧確保、受け入れ態勢、予算の確保など、準備は後手々々に遅れたが、第1便は7月17日(8月12日説も)に、187隻(178隻説も)が那覇を出港した。沖縄―本土間では、既に米艦船に撃沈されたケースもあり直行を避け、ジグザグと迂回して進められた。

 疎開先の各地とも大事に迎えてくれたという。だが、環境は厳しかった。「ヒーサン、ヤーサン、シカラーサン」、つまり「寒い、ひもじい、寂しい」という子どもたちのアカギレやしもやけ、わずかな食料、親たちと別れた寂しさ、この思い出が頭に焼き付いている。疎開の対象は3-6年生中心だったが、弟妹の1-3年生もいた。

 悲劇の「対馬丸」事件 多くの疎開船のうち、唯一の悲劇は「対馬丸」の米艦による攻撃・沈没だった。終戦のほぼ1年前。8月22日夜10時過ぎ、那覇港を出た6000トンの貨物船対馬丸が米陸軍新造の潜水艦ボーフィン号の打った魚雷によって、10分ほどで沈没した。場所はトカラ列島の悪石島付近。戦時の疎開船では、これが唯一最大の悲劇だったという。
 乗船1788人のうち、犠牲者はほぼ8割の1418人。児童775、先生ら29、一般疎開者569、船員24、砲兵21。名前の分かった生存者は280人(対馬丸記念会調べ)。氏名不明の方が100人近くいる。
 戦火に追われ、水中に死す、まさに戦争の二重苦を負わされた。被害者、攻撃側、いずれが悪いのか、いや、戦争がなければ、この事故はなかった。やはり「戦争は悪」というしかない。

 島残留者の苦境 島に残ったのは、満17歳(のちに15歳)から45歳まで間の男性で、ほぼ強制的に軍部の戦闘要員に組み込まれ、婦女子、高齢者は本島北部に疎開することになった。とはいえ、島の南部、つまり首里、那覇から島尻地域に人口が集中しており、そのまま残り続ける人も多かった。
 沖縄陥落前の43年10月10日、米軍機の空爆によって首里、那覇をはじめ本島は大打撃を受ける。しかも11月になると、大本営の命令で6月に増強されたばかりの第32軍下の第9師団が台湾に移駐されてしまう。すでに9月頃には、県民の現地徴集が始まり、12月には各地に緊急特設挺身隊が結成された。
 年が明けると、島田叡新知事が赴任し、直ちに台湾での食糧確保に動く。2月には県民の島北部への疎開が始まる。満17-45歳の成人男子、約2万5千が防衛召集され、学徒動員が徹底される。戦闘が激化すると13-60歳の男性が動員された。2月、「戦闘指令」が出され、市町村単位の国土防衛義勇軍が編成された。3月下旬になると、中学、師範学校、農商水産学校の生徒らは鉄血勤皇隊や通信隊など、女子学生らは看護などにあたるひめゆり部隊などに組み込まれた。県民総動員が、沖縄での死者が増大する一因にもなった。
 大本営は45年1月のレイテ島敗退後、「本土決戦」「沖縄防衛強化」などの作戦を練り、「軍官民共生共死」「一億玉砕」の方向に動き出した。しかし、それは作文的計画にすぎず、空回りの強気でもあった。

 「疎開」の現実 このような戦時下の実態を知っての、今度の政府方針だったのか。怪しげな机上だけの作文ではなかったか。
 筆者は終戦時、縁故疎開を経て、小学校入学早々、1年生で栃木市の寺に送り込まれた。そこで、なにがあったか。食糧難のなか、弁当は密度の高いおこげが好評で、これを楽しみにしていたところ、上級生に盗まれ、べそをかいた記憶がある。「いじめ」もあった。その名前も忘れられない。「加藤」「山川」なる6年生が、4年か5年生のちょっと動作の鈍い「葛城」にどんぶりにいっぱい入った水を飲めと命じていた。その鮮明な記憶が残る。思えば、生涯最初の怒りだったか。

 政府は何をなすべきか 疎開の措置は「政府はいざという時に備えて、国民をよく考えてくれている」と思えるかもしれない。だが、その「だまし」に乗ってはならない。現実はそんなものではない。
 政府は、中国が台湾征伐に乗り出す前提で、沖縄周辺の軍事体制に力を入れる。財源も説明せずに、資金を投入しつつある。
 では本来、どうすべきか。それは冒頭に触れたように、「外交」の徹底的な強化である。外交関係者はもちろん、政財界から文化関係まで、広く交流を強め、話し合い、「戦争」「死滅」を避けることに全力を尽くすべきだ。政府要人が北京に行き続け、むこうの幹部らと率直に言葉を交わし、互いの相違点を話し合い、知り合うことだ。観光でもいい、民間の交流を頻繁化して、双方の違いを、理解を持ち合う努力を重ねる。これしかあるまい。
 だが、今の政治は首脳らの会談すら何年かに一度といったわびしさだ。幼稚なようにも見えるが、「話し合えばわかりあえる」のだ。

 「戦争は悪」の前提に立とう。戦前の兵隊の遺体すら、まだ半数しか回収できていない。戦争で命を奪われた人々はもちろん、その家族親族たちの長い歳月の悲しみ、苦しみはいかばかりか。そうした思いを、為政者はなぜ抱かないのか。
 こうした思いの結集が政治を動かし、外交努力を高め、双方の一般国民同士の深い理解こそが真の平和を生み出すのではないか。「疎開」を考える以前に、初心に返ろうではないか。 
                        (元朝日新聞政治部長)

(2025.5.20)
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