【視点】

石橋湛山と矢内原忠雄の朝鮮観

桑ヶ谷 森男

はじめに
 長年、筆者は近代化をめぐって帝国主義と植民地の関係に関心を持ってきた。それは次の二つのテーマにしぼられる。
一、資本主義の発展は帝国主義すなわち植民地獲得が必須、必然的であったか
二、植民地化された諸民族が自発的、内在的に近代化する要件はなにか

 その第一のテーマに関しては、近代日本のアジア侵略の帝国主義政策すなわち大日本主義に代わる対案、石橋湛山の小日本主義の途は選択肢にならなかったかという問いである。
 第二のテーマに関しては、外圧と内的矛盾の発展を背景に、朝鮮の近代化を目指した人物群にはどのような人々がいるか、どんな思想をもっていたかという問いである。近代化の核心は人間であり、どんな人物が存在するかにある。
 朝鮮のみならずすべての旧植民地の近代化に関しては、第二のテーマが基本的なテーマであり、第一のテーマはそれに付随する、外的条件についてのテーマである。残念ながら筆者は第二のテーマについては問題意識に止まっており、具体的に述べる力が欠けており、今回も第一のテーマに関してのものとなった。ただ、第一のテーマは、帝国主義の旧宗主国の歴史を持つ国民にとって、自らの思想を点検・総括するうえで意味がある。
 そういう問題意識から、以前論述した「新渡戸稲造と柏木義円の朝鮮観」につづき今回は石橋湛山と矢内原忠雄の朝鮮観を取り上げることにする。

一.石橋湛山と矢内原忠雄への関心
 戦前、朝鮮の独立を支持,主張した言論人は稀であった。その一人が石橋湛山である。近代日本において、日本帝国主義の領土拡大の侵略行為に反対し、植民地獲得に批判的な人物群に三つの系譜があると中野好夫が言っている。(注1)第一は幸徳秋水に代表される社会主義者の一群、第二は内村鑑三らのキリスト教者たち、第三は東洋経済新報の三浦銕太郎や湛山などの自由主義者のグループである。ただし、同じ系列でも個々に違いがあり、別のグループに分けられても例えば石橋湛山や矢内原忠雄には背景に宗教的な基盤という共通項が見られる。
 石橋湛山は、大正デモクラシーを象徴する自由主義者たちの中で、最も徹底した立場をとり、朝鮮の独立支持を明言している。朝鮮統治政策を批判しても独立まで踏み込めなかった吉野作造と比べても、突出している。(注2)まず彼は東洋経済新報を舞台に活躍した言論人としてその存在が注目される。そこで展開された湛山の思想はその後も終生一貫して貫かれたと思う。そこで新報に載せられた彼の論説を植民地問題、植民地朝鮮を中心に取り出して検討したい。そのためには、湛山の人物や思想がどのように形成されたかを知るべきだろう。
 矢内原忠雄は、石橋湛山と同時代に活躍し、無教会キリスト者の指導者として識見、人格ともにすぐれた人物であり、植民学の第一人者、のちの東京大学学長という代表的な学者、文化人であった。若き日より朝鮮にたいする思い、関心は深く、新渡戸稲造の後を継いで東京大学の植民政策学の講座を担った彼が、植民地朝鮮にどのように向かいあい、専門の研究者としてどのような提言をなし得たかを知りたい。すでに多くの先行論文があり、それを参考にしつつ、矢内原自身の言葉から、改めて彼の朝鮮観を確かめ、石橋と矢内原両者を見比べながら近代日本知識人の朝鮮観のなかに位置付けたい。

二.生い立ちと思想形成
1 石橋湛山の生い立ちと思想形成
◇幼少期に日蓮の精神が根づく
 一八八四年(明治一七)九月二五日、日蓮宗僧侶杉田湛誓(のち身延山久遠寺法主)の長男として東京で誕生。母は江戸城の畳を請け負う畳問屋石橋家の娘。湛山は、当時の宗教界の因習に従い母方の姓を名乗る。民本主義の旗手吉野作造より六歳年少。幼少期は父が住職となった寺のある山梨で過ごした。十歳のとき父の宗教上の同志ともいうべき僧侶望月日謙に預けられ、包容力のある師のもとで成長する。師日謙は、宗門教学の枠にとらわれず多宗派との交流も積極的で、その後日蓮宗管長となったが、超国家主義者の象徴として担ぎ出された日蓮理解を否定、世界へのひらかれた視野を持つ人物であった。日謙のもとで湛山の思想の基底に日蓮精神が沁みこむ。(注3)

◇中学時代にキリスト教の精神、自由主義・個人主義の洗礼を受ける
 中学は山梨県立尋常中学校(現甲府第一高等学校)に入学し、クラーク博士の薫陶を受けた敬虔なクリスチャン、札幌農学校一期生の大島正健校長からアメリカ民主主義・個人主義の教育を受ける。「私は、大島校長を通じ、クラーク博士のことを知り、是だと、強く感じたのである。つまり私もクラーク博士になりたいと思ったのである。私は今でも書斎にはクラーク博士の写真を掲げている。」(注4)『湛山回想』の解説のなかで、長幸男が湛山を訪れたときに玄関脇の壁面に、湛山の筆になる聖句「野の百合花は如何にして育つかを思え労せず紡がざるなり」が掛けられているのを見て、「聖書と政治—それは価値の世界と方法の世界の緊張に耐える政治家(ステーツマン)石橋湛山の人としての在り方を象徴するかのように思われた」と述べている。(注5)
 こうして日蓮宗とキリスト教という二つの宗教が湛山の精神的基盤となった。それは自主自立・人間の平等と博愛・ヒューマニズム・平和主義という湛山の生涯貫かれた姿勢のバックボーンとなった。

◇大学では、哲学科でプラグマティズムを学ぶ
 大学時代は早稲田大学の文学科(哲学)でデューイに師事した田中王堂からプラグマティズムを学び、その後の湛山の思考の在り方に影響を与えた。「卒業後もとくに田中氏に親近し、なみなみならぬ学恩を被(こうむ)った。もし今日の私のものの考え方に、なにがしかの特徴があるとすれば、主としてそれは王堂哲学の賜物(たまもの)であるといって過言ではない。」(注6)
 イデオロギーにとらわれず、資本主義も社会主義も人間の生活にとって有益かどうかで柔軟に対応、判断する湛山哲学は、のちの「日中米ソ平和同盟」その他世界平和構想にいたるまでの論説、政治家としての言動に示されている。

2 矢内原の生い立ちと思想形成
◇幼少期に父親から儒教を、中学でクリスチャンの教師の影響を受ける
 一八九三(明治二六)年一月二七日、愛媛県越智郡富田村松木(現在の今治市松木)に医者と農業を営む矢内原謙一の二男として生まれる。兄・妹二人・弟の五人兄弟。父は儒学を重んじる“医は仁術”の医者で、農業は祖母が営んでいた。
 幼少より聡明で勉強好き、弟妹の面倒をみる“良い子”であった。父の姿を見て育ち、人間としての基本的な心構え、「誠」「正直」「勤勉」を身に着けていく。尋常小学校(四年)、高等小学校(二年)を終え、神戸の尋常高等小学校高等科(三年)から神戸中学校に進学する。
 神戸中学校で影響をうけた人物として校長の鶴崎久米一、修身科教師の島地雷夢がいる。鶴崎は札幌農学校二期生で内村鑑三、新渡戸稲造の同級生であり、雷夢は浄土真宗本願寺派の僧侶・島地黙雷の息子であったが、クリスチャンとして知られていた。(注7)

◇第一高等学校で朝鮮との最初の出会いがある
 一九一〇年韓国併合の年一高入学。翌 十一年一月二六日の演説会で鶴見祐輔の「“The Tragedy of Corea”を読みて殖民政策の真相を思ふ」を聞き感銘をうける。カナダのジャーナリストJ・A・マッケンジー『朝鮮の悲劇』1908を論じたものである。
 一九一二年七~八月朝鮮経由の満州(中国東北部)旅行で朝鮮への関心を深め、それを「満州の旅」に書いた。「日本人の活動を見聞するにつけ植民地と経済といふ問題が非常な興味を喚起して来た。……自分は今後真面目にこれらの問題を研究して見たい。」「新附の民の教化は日本人に取って手近に横たはれたる大責任の一つである」(注8)この頃の矢内原は朝鮮・中国の人を上から見下ろして憐れむ態度を脱していない。

◇高等学校・大学時代に新渡戸稲造、吉野作造、内村鑑三に学ぶ
 一九一三年東京帝国大学法科政治学科に入学。新渡戸稲造の植民政策講義、吉野作造の政治史講義を熱心に聴講。吉野からはヨーロッパの社会主義の歴史について学び、マルクス、サン・シモン、プルードンにも触れている。内村鑑三の聖書研究会に出席するようになる。内村の朝鮮観は日清戦争の前後で変化(戦争肯定を反省し非戦論へ)を見せ、在日本東京朝鮮キリスト教青年会の人々と親交があり、朝鮮人への敬意を持ち、多くの朝鮮人の信頼を得ていた。しかし、日本組合教会の朝鮮伝道、一九一九年の三一独立運動、一九二三年の関東大震災における朝鮮人虐殺など具体的な事件には見解を示さず、柏木義円との違いがある。(注9)

3 湛山と忠雄の思想形成に思う
 石橋湛山と矢内原忠雄両者の思想形成について比べてみると、湛山は日蓮宗の信仰を持ち同時にキリスト教からも学び、自分のものとしており、忠雄はキリスト教の信仰を持ち、マルクスなど社会主義を社会科学として受け入れている。一見相容れないような思想を主体的にいいものはいいと選び取る点で両者は共通している。柔軟で、自分自身を偽らない精神の持主になっていく。
 社会人となってから湛山はジャーナリストとして、忠雄は学者としての道を歩む。湛山は内外の政治経済について健筆を振るい、忠雄は植民政策学の業績を積んでいくが、植民地朝鮮に関して両者の論点が交差し、焦点が合ってくる。両者の辿った足跡を追跡し、朝鮮観に絞って述べてみたい。
 
三.ジャーナリスト石橋湛山
 湛山は一九一一年(明治四四)、二六歳で東洋経済新報社に記者として入社して以来、一九四六年(昭和二一)社長を六二歳で辞任するまで、大正デモクラシー、昭和ファシズム、アジア太平洋戦争を経ての三十五年間、東洋経済新報を舞台に論説を揮った。
 彼は『時論』、『新報』社説においてその時々に日本が直面する問題を取り上げ、その視野は広く鋭い。大正デモクラシー時代は、国内政治については普選論を唱え、護憲運動など実践活動にものりだす。対外問題においては、帝国主義的対外進出・軍備拡張の大日本主義に反対、辛亥革命後の中国への干渉に反対、満州放棄論を唱え、日本移民排斥問題では「我に移民の要なし」と対米移民不要を論じている。第一次世界大戦が始まるや、参戦反対、青島領有の不可、対華二十一カ条要求批判、シベリア出兵反対を唱える。

 本稿に関連しては、かねてより植民地放棄論を経済、政治、国際関係、軍事など各方面で解明しつつ、説得力をもって展開した。それは具体的には当然満州放棄論、朝鮮植民地放棄論となる。朝鮮植民地問題では、パリ講和会議の一九一九年に起こった三・一独立運動について「凡そ如何なる民族と雖(いえど)も、他民族の属国たることを愉快とする如き事実は古来殆どない。……朝鮮人も一民族である。彼等は彼等の特殊なる言語をもって居る。多年彼等の独立の歴史をもって居る。衷心から日本の属国たるを喜ぶ〔朝〕鮮人は恐らく一人もなかろう。故に〔朝〕鮮人は結局其独立を回復する迄、我統治に対して反抗を継続するは勿論、而かも〔朝〕鮮人の知識の発達、自覚の増進に比例して、其反抗は愈(いよい)よ強烈を加うるに相違ない」(五月一五日社説「〔朝〕鮮人暴動に対する理解」『全集』三)ときっぱりと自説を鮮明に述べている。

 第一次世界大戦後の不況期には金融論、とくに金解禁論争で名を馳せ、戦間期にはワシントン会議などに論陣を張った。本稿の主題である朝鮮植民地放棄論については、一九二一年に『新報』社説に掲載した「大日本主義の幻想」において徹底して論じており、植民政策学者矢内原の朝鮮との関りを述べる次の項の後、改めてその要点を取り上げる。
 
四.大学人矢内原忠雄
 矢内原にとって朝鮮の存在は、高等学校、大学の在学中益々大きくなり、生涯をかけて取り組む課題となっていた。そして、大学三年生時(一九一六年)頃から、朝鮮で働く可能性を模索している。新渡戸稲造にも「真に朝鮮人の為につくすのには如何なることをしたらよいでしょうか」と尋ねている。それにたいし新渡戸はフィリピンのために働くアメリカ人の話をしたという。その年の五月に内村鑑三の聖書研究会で、東京朝鮮YMCAの初代総務・金貞植(キムジョンシク)の証(あかし)を聴いて感動し、「われ朝鮮人の為にこの身を捧げんか」という希望を持つ。金貞植は独立運動のため三か年獄中にあり、そこで聖書をよみ、朝鮮をキリスト教によって救わんと決心したと述べる。獄衣の一部で装丁した紺色の聖書を示して語る彼の話に、矢内原は感動している。
 矢内原の朝鮮に渡り朝鮮人の友になろうとする決意は、同年一月二三日エッセイ「柏会所感」、二月二七日「十字架を負ふの決心」、五月七日「余の最初の聖書」、六月二二日「試験前後」、十月九日「就職に就いて」に現れている。(全集二七巻)しかし、朝鮮で働く道を模索し、政治学の教授・小野塚喜平次に朝鮮銀行への就職を依頼するも実現できなかった。郷里の祖母、弟妹の生活に責任を感じていたので、一九一七年住友に入社、別子鉱業所に勤務した。彼の大学人としての歩みはその三年足らずのうちにやってくる。
 一九二〇年、東京帝国大学に新設された経済学部の助教授となる。その年に二年間欧米留学をしている。ドイツでレーニンやルクセンブルクなどを研究し、植民論の骨格をつくりあげる。帰国後、植民政策の講義・演習において、ヒルファーディング、ローザ・ルクセンブルク、レーニンらの帝国主義論を取り上げ検討している。矢内原は経済理論としてマルクス経済学を取り入れていた。(注10)一九二三年帰国すると植民政策講座担当の教授となる。

 教授として最初の研究旅行地として朝鮮を選び、一九二四年九月三〇日から十月二十九  日まで一カ月、朝鮮・満州調査旅行を行う。当時の朝鮮は三・一運動後の斎藤総督のいわゆる「文化政治」の段階にあり、同時に朝鮮の労働者、農民が成長してきた時期にあたる。この旅行での矢内原の姿勢は、①総督府の世話にならない。②植民地朝鮮の実態を要領よく視察し、三一独立運動を学ぶ。→同化主義の失敗と自主主義の必要性を知る。→彼の植民論の正しさを朝鮮で確認する。③キリスト教集会をもつ→憲兵政治の形態をかえた警察政治の制約の中で朝鮮人社会の実態を把握する。—というものであった。(注11)
 この旅行中、十月六日三郷で二、三の朝鮮人部落を巡回し、夜は万歳運動につき聞いており、十月十四日京城の鐘路青年会館(YMCA)で福音講演会を開いている。この集会に関し、妻恵子宛に「この青年会はいわゆる不穏分子の巣窟とみられており日本の政治にたいする敵国の観がある処ですが、ここにて日本人が講演をしたのは一九一六年以来の出来事だということでした」(妻恵子宛 全集二九巻四六頁)と文を送っている。
 この旅行はその後の矢内原にとって大いに意義のある実りあるものとなった。それは、論文「朝鮮産米増殖計画について」・「朝鮮統治の方針」・「植民および植民政策」に反映、結実している。

五. 湛山の「大日本主義の幻想」に見る朝鮮論
 ここで、本稿の主題である朝鮮に言及した湛山の論考「大日本主義の幻想」(注12)を見ることにする。この論考は、大正十年(一九二一)七月三〇日・八月六日・十三日号東洋経済新報社説に掲載された。(注13)
 官民こぞって帝国主義的海外膨張政策すなわち大日本主義に没入している当時の状況にあって、それと対峙して冒頭に真っ向からズバリ主張を打ち出す。
 「朝鮮台湾樺太を棄てる覚悟をしろ、支那や、シベリアに対する干渉は、勿論やめろ。これ実に対太平洋会議策の根本なりという。吾輩の議論(前号に述べた如き)(注14)に反対する者は、多分次の二点を挙げて来るだろうと思う。」その二点とは―
 (一)これらの地域を抑えておかないと、日本は経済的にも、国防的にも自立できない。少なくとも、脅かされる虞(おそれ)がある。
 (二)列強は、いずれも海外に広大な植民地を持っているか、さもなければ米国のように国自体が広大である。そしてその広大な資源豊富な地域に障壁を設け、他国民が入ることを許さない。日本だけ植民地を持つなというのは不公平だ。
 この二つの駁論に対する湛山の答えは、(一)は幻想であり、(二)は小欲にとらわれ、大欲を遂げる途を知らないものであるとする。
 まず(一)に対する反論は、朝鮮台湾樺太そして満州を支配下に置き、支那シベリアに干渉することは、国益にならないことが、経済と軍事両面で考察すれば、明らかだと言う。

1 大日本主義は経済的に不合理である。
 まず経済面での利益がどれほどのものか、論考前年の大正九年(一九二〇)の貿易の数字で示す。 
      移  出       移  入        計 
朝鮮  一六九、三八一千円  一四三、一一二千円   三一二、四九三千円
台湾  一八〇、八一六    一一二、〇四一     二九二、八五七
関東州 一九六、八六三    一一三、六八六     三一〇、五四九 
計  五四七、〇六〇    三六八、八三九     九一五、八九九
(備考)朝鮮および台湾の分は各同地の総督府の調査、関東州の分は本邦貿易月表による。
 三地域の貿易は合わせて九億円に過ぎない。それに比べ、米国との輸出入合計十四億三千八百万円、インドとは五億八千七百万円、英国とは三億三千万円である。これを見ると、朝鮮・台湾・関東州それぞれとの商売は英国とのそれに及ばない。米国との商売は朝鮮・台湾・関東州三地域合わせたものより五億二千余万円多い。したがって、「米国こそ、インドこそ、英国こそ、我が経済的自立に欠くべからざる国と言わねばならない。」(注15)
 貿易総額ではなく、その地域に算出する品物についても、国民生活に必須なものは、朝鮮・台湾・関東州にはないと言う。「我が工業上、最も重要なる原料は綿花であるが、そは専らインドと、米国とから来る。また我が食物において、最も重要なるは米であるが、そは専ら仏領インドと、米国とから来る。その他石炭にせよ、鉄にせよ、羊毛にせよ、重要という程の物で、朝鮮・台湾・関東州に、その供給を専ら仰ぎ得るものは一つもない。」湛山はさらに鉄についても、前年の日本の輸入総額が二十億五千万斤を超えていたのに対し、朝鮮・台湾・関東州からの輸入は約五千七百万斤と九牛の一毛だと言う。この三地域からの米の移入できるのは、合わせて二,三百万石としている。

 「これくらいの物のために、何故我が国民は、朝鮮台湾関東州に執着するのであろう。吾輩をして極論せしむるならば、我が国がこれらの地を領有し、もしくは勢力範囲とした結果、最も明白に受けた経済的影響はただ砂糖が高くなったことだけである」さらに樺太については、領有以後すでに十余年になるのに何の経済的利益ももたらしことが出来ないのは、遍く人の知るところだという。
 中国とシベリアへの干渉も、相手国民の反感を呼び、その地域における日本の経済的発展の大障碍を作り出す。湛山は中国との貿易についても朝鮮・台湾・関東州と同じく、米国、インド、英国との貿易と比較して、干渉による利権騒ぎをする必要なしと主張した。朝鮮・台湾・樺太の領有、関東州の租借、中国、シベリアへの干渉をする理由に「えらい利益を得ておる如く考うるは、事実を明白に見ぬために起こった幻想に過ぎない。」

 海外領土の経済的利益は、結論として貿易の高と性質で計量することができるとして、資本の技術と企業脳力(資本輸出)でいかなる事業を先方で営もうとも、その結果は直接間接必ず貿易の上に表れて来るはずだと、湛山は述べている。朝鮮を勢力下に入れて十五年、その実情を見ても経済的利益を求めて得ることは少ないと数字を挙げて論じた。

2 大日本主義は軍事的にも不合理である。
 「しからばこれらの土地が、軍事的に我が国に必要なりという点はどうか」と続く。軍備については、日本の本土を護るためには必要なく、余計な海外領土を支配するところから増強することになるとし、これまた領土拡張論の矛盾を突いた。彼は言う。「これ(軍備)を整うる必要は、(一)他国を侵略するか、あるいは(二)他国に侵略せらるる虞(おそれ)あるかの二つの場合の外にはない。……政治家も、軍人も、新聞記者も異口同音に、我が軍備は決して他国を侵略する目的ではないと言う。……他国を侵略する目的でないとすれば、他国から侵略せらるる虞のない限り、我国は軍備を整うる必要のないはずだが、一体何國から我が国は侵略せらるる虞があるのかということである。」(注16)
 日本に侵略する国は、前にはロシアと言い、今は米国だとしているらしいが、もし日本を侵略してどこを取ろうとするのかと、湛山は問う。日本の本土は誰も貰い手がないくらいであって、侵略する虞があるとすれば日本の海外領土であろう。「戦争勃発の危険が最も多いのは、むしろ支那ママまたはシベリアである。」ここを縄張り争いすれば戦争が起こる。戦争が起これば海外領土も本土も、敵軍に襲われる危険が起こる。中国やシベリアへの野心を棄て、満州・台湾・朝鮮・樺太も入用でないという態度に出れば、戦争は絶対に起こらない。これらの土地を国防上必要だと言うが、実はこれらの土地を勢力範囲にしておくことで、国防の必要が起こるのであると、湛山は考える。
 「いかなる国といえども、支那人から支那を、露国人からシベリアを、奪うことは、断じてできない。もし朝鮮、台湾を日本が棄つるとすれば、日本に代って、これらの国を、朝鮮人から、もしくは台湾人から奪い得る国は、決してない。」これが湛山の見識であった。

3 移民不要論
 湛山に対する大日本主義の主張には、日本からの海外領土への移住、即ち人口問題解決のために領土拡張を求める者が多いと言う。それについても、数字を挙げて説得する。例えば、朝鮮の在住日本人三十三万七千人はじめ台湾十四万九千人、樺太七万八千人(以上大正七年末)、関東州を含めた全満州十八万一千人、ロシア領アジア八千人、支那本部三万二千人(以上大正八年六月)、総計八十万人に満たない。これに対して日本の人口は日露戦争当時(明治三十八年)から大正七年までに九百四十五万の増加である。人口増加にたいして海外領土在住日本人は八・六パーセント弱に過ぎない。一人でも多く送り出そうとして払う様々な犠牲を払うより、他の道を探せという。海外領土で利益を得るのは労働者の移住ではなく「悪く言うなら、資本と技術と企業脳力とを持って行って、先方の労働を搾取(エキスプ)する(ロイット)。もし海外領土を有することに、大いなる経済的利益があるとするなら、その利益の来る所以は、ただここにある。さればたとえばインドを見ても、英国人はいくばくも行っていない。一九一一年の調査を見るに、総人口三億一千余万のうち、欧州人およびその同族なるものは二十万人足らずしかない。英人は、またその一部であるのである」(注17)ここの文脈では湛山は資本輸出を奨励しているのではなく、移民政策を否定しているのである。

4 植民地は独立を志向する
 湛山の「大日本主義無価値論」に納得できない者へ、彼は別の視点を提示する。これまで述べたことが仮に誤りであり、国土膨張の大日本主義が日本に利益ありと想像しよう。しかし、それが今後到底遂行できない事情があると言う。それは被侵略地住民の独立心だという。昔とは違うインドやアイルランドの民情を例として挙げ、「思うに今後は、いかなる国といえども、新たに異民族または異国民を併合して支配するが如きは、到底出来ない相談なるは勿論、過去において併合したものも、漸次これを解放し、独立または自治を与うる外ないことになるであろう。」と見通した。「独り我が国が、朝鮮および台湾を、今日のままに永遠に保持し、また支那や露国に対して、その自主権を妨ぐるが如きことをなし得よう。朝鮮の独立運動、台湾の議会開設運動・・・既にその前途の何なるかを語っておる。吾輩は断言する。これらの運動は、決して警察や、軍隊の干渉圧迫で抑えつけられるものではない。」(注18)これが湛山の世界観の核心にあっものであり、歴史がその正しさを証明した。 

六 矢内原の東大植民学テキスト「植民及植民政策」のなかの朝鮮
 一九二六年に出版された矢内原の「植民および植民政策」(注19)は、東大での講義案をまとめたもので、植民地論が体系的に記述されている。その中で朝鮮に関する視点として

 次の諸点が見られる。
1 朝鮮を植民地であると認識すべきと説く(外地などとごまかすな)
 学問上の概念では朝鮮は植民地である。一視同仁のタテマエで政府は「外地」という語を使い、一方朝鮮民衆は植民地と称せられることに大いなる侮辱を感じ、大正八年三月一日の独立宣言書にもその憤慨が披歴されている。しかし研究者は事実関係を以て植民地として研究対象とするより外ない。(注20)

2 韓国併合は力による併合である(併合の本質を暴露する)
 「強制的併合(戦争の結果たる講和条約によるもの)は勿論、相互の任意的協定によると称せらるゝ場合と雖も、自発的自由意志に基くは稀にして、必ずや力による圧迫の作用する処大である。[中略]任意的併合の好例として称せらるゝ所謂『日韓併合』は、やはり併合にして合邦にあらず、[中略]条約文言の如何に拘らず、この併合談判の発議者はいづれの当事者たりしかは歴史に明らかなる処である」(注21)
3 同化主義について批判し、植民地議会開設を唱える(同化政策の実際は原住者を圧迫、反乱を招く)
 植民地政策には三つの方針がある。①従属主義②同化主義③自主主義である。
 ①の従属主義は、本国の露骨な搾取で「植民地を疲弊させ、あるいは原住者の反乱を招く」。②の同化主義は、タテマエは「本国と同一の権利、同一の保障、同一の自由を賦与する本国の延長となる」というが、実際には植民地の「社会群の特殊的存在の事実(独自の言語、歴史、伝統を持つ民族の実態—桑ヶ谷)を無視するが故に、その成績は却って不良にして、原住者の社会生活に対する圧迫によりその不満不平を醸成するの結果を」招いた。それにたいして③の自主主義は「植民地の特殊性を尊重し、その自主的発展を目的とするものにして、論理的終局は植民地に対する本国の領有支配関係の消滅に至る」(注22)
 同化主義を採るならば植民地議会を開設せよという。朝鮮に対し内地人と同じ扱いをする同化主義=『内鮮同治』の方針をとり、単に『文化的政治』というだけでなく、民意を伸び伸びと発揚させる『民意暢達』をするならば、「日本の朝鮮統治政策は朝鮮人による完全なる参政の方向にあるものと論理的に結論せられねばない。」(注23)本国議会に代表を送るか、植民地議会を設置するかの問題があるが、前者の場合は少数の植民地議員では植民地住民の利益保証はない。「植民地議会の開設を以て住民参政の最も合理的なる解決とせねばならない」(注24)
4 原住者政策について批判する(植民地の民衆の生活を破壊し、軍警の暴力による支配と言語・教育・文化の収奪をしている)

 以下のような具体例を挙げて批判する。
 ⅰ.朝鮮人の満州及びシベリア移住の動因は、「政治上の不平等と経済上の圧迫である。…内地人の山林業者に対する林野払下による火田の廃止、内地人の農業者による耕地の所有経営は、それぞれ北鮮及び南鮮の移民を促す有力なる動因であろう。…朝鮮人の境外移住は、内地人植民の必然的結果というべきである。」(注25)
 ⅱ.「大正八年の独立万才事件に際し軍隊及び警察のとりたる行動の如きは、その或もの例へば水原郡発安((マ)場(マ))面堤岩里(チェアムニ)事件の如きは之無かりしを以て可とすること勿論である」(注26)
   万歳運動に参加したキリスト教徒・天道教徒三十人を堤岩里教会に閉じ込め、集中射撃をし、さらに教会に火をかけて虐殺した事件。詩「或る虐殺事件」を書いた斉藤勇、柏木義円、秋月致らも糾弾している。
 ⅲ.「私は朝鮮普通学校の授業を参観し朝鮮人教師が朝鮮人の児童に対し日本語を以て日本歴史を教授するを見、心中落涙を禁じ得なかった」(注27)「政治的目的の為めに利用せらるる宗教又は教育は往々『人民の阿片』であり、そはあらゆる社会的害悪中の最大害悪となる」(注28)そこでは官幣大社朝鮮神社の造営が引用されている。

 〈矢内原のテキストにたいする諸家の批評〉
 大内兵衛、幼方直吉、楠原利治、高崎宗司、四者に共通する評価は、当時としては最もすぐれた植民学の総括的研究であり、社会科学の成果であり、日本人の朝鮮認識の深化に貢献したとしながらも、時代的制約として総督府統治への政治的批判の甘さもあると指摘している。すなわち、その後の歴史的諸事実により検証されるべき基本的文献であるという。細川嘉六の批判は厳しい。科学の世界に空々漠々な神の世界へ昇天している、他国領土奪略論の仲間入りをしている。ブルジョア式簿記法によって、犠牲者に対する資本家的新使用法をも計上していると言う。(注29)
 韓国人として洪以燮(ホンウイソプ)の批判がある。(注30)それは―統監府の残忍性を語らず、満州・シベリアへの朝鮮人の移住を総督府の政策として見ていない。殖民地に対する民族運動に触れていない。「朝鮮人による完全なる参政の方向」(植民地議会―桑ヶ谷)という提案は当時の朝鮮人の考えを誤解したものである。土地調査事業の本質を見ていない。殖民地的所有を既成事実化している。(注31)―というものである。
 
七 矢内原の朝鮮関係論文
 矢内原は石橋湛山とくらべ、朝鮮への思いは強く、終始念頭に置き、朝鮮人との交わりも熱いものがあった。しかし、『帝国主義下の台湾』を著したのに、朝鮮については『帝国主義下の朝鮮』というような全面的な真正面からの著作はない。そこで朝鮮関係の主要な論文を選び、朝鮮観を見る。

1「朝鮮産米増殖計画に就いて」(全集第一巻所収)
 一九二〇年(大正九)に始まった朝鮮産米増殖計画は、当初十五年間に約四十万町歩の土地改良によって約九百万石の産米増加を計るもので、公費一億二千万円を予定した。矢内原は一九二五年二月号『農業経済研究』に発表したこの論文に於いて、この計画が朝鮮農民を没落させ、日本人資本家の利益を図る資本主義的植民政策であると痛烈に批判している。
 この「計画」の背景には一九一八年の米騒動以後の米穀不足、米価騰貴を緩和するため、植民地朝鮮の米穀を増産して低価な米穀を流入し、日本国内の低米価=低賃金の維持をはかるねらいがあるとする。この計画実行の主力として、朝鮮土地改良株式会社が設立され、東洋拓殖株式会社などが株主となった。すなわち朝鮮で活動する日本人資本家の営利会社であり、土地改良工事、土地の売買・経営、地方地主からなる水利会社の設立と委託など、公費はこの線に注がれる。
 矢内原は十年後の内地の米消費量を計算し、一千万石を他から移入する必要があり、そのうちの約百万石を台湾から、残りの九百万石を朝鮮に求めなければならないとした。その九百万石は、当時すでに朝鮮から入っていた四百万石に加え、この増産計画の増産分八百万石のうちの五百万石を当てる。朝鮮に残るのは三百万石である。その結果、朝鮮の人口増もあり、朝鮮内米消費一人当たりが六斗五升で内地の一人当たり消費額一石一斗に比して著しく少なくなる。朝鮮では米以外の雑穀を食せということである。「(朝鮮)自らは外国米及び粟を移入して自己の食糧問題に対することを知った」(注32)
 朝鮮農家は高い朝鮮米を売り、安い外国米と粟を買い、農家がこの交換で得た貨幣は、内地及び朝鮮の製造業者と商人の持ち込む商品に支出される。さらに税と水利組合費に支出される。この論文で京畿道内務部社会課吉田正広が統計表に添えた文を引用している。
 「秋収物は直ちに幾多の使途に消費され、辛うじて二月(旧正月)迄自給することになって爾後は雑穀を主として食用するが、それでも秋迄食続くる事の出来るものは少ない」では農民はどうするか。前借・出稼ぎ・減食である。「先づ労銀の前借或は農繁期に出役すべき約束で有力な農家から食料又は金銭を前借りする。又堤防の修築や農場への出役或は其の他の賃取に出稼し、時としては牛その他物資を二三市場に転売する仲介鞘取を為すものもある。然し心掛けの良い農民は代食や減食を行う者もある。食事の回数を減じ又は草野菜の粥を食することがある。窮民仲間の生活は実に言語道断の哀れなもので、稀には如何にして生活するか、寧ろ奇怪に思ふ事さへある」(注33)
 矢内原はこの計画で利益を得る階級として、米粟の貿易商、肥料農具の商人と製造者、土木業者、政府から低利資金を受ける金融業者、地主をあげている。ただ地主については、公課の負担・工事の費用に苦しみ、負債もあり、土地を手放すことになり、「事実上土地(・・)が(・)朝鮮人(・・・)の(・)手(・)より(・・)有力(・・)なる(・・)内地人(・・・)の(・)手(て)に(・)移転(・・)する(・・)傾向(・・)」になる。「而して朝鮮農家は…土地を売り放つことによりて経済的独立の基礎を失ひ無産者化すること、小作人は水利組合費其他の土地改良費を転嫁せらるゝ虞あること」と述べ、この計画は、一、日本人資本家階級の直接の利益に帰する。二、過渡期的には、朝鮮に食料問題を生み出し、また、朝鮮人の生活は向上せず、それどころか無産化すると結論した。(注34)
 矢内原の植民地観の根底には、次の二点がある。第一は、朝鮮やインドの植民地の産業革命は、現地住民の経済的発展の内面的必要から生まれてきたものでなく、宗主国のために外から持ち込んだものである。その二は、産業革命による生産組織の変化、土地所有関係の変更の結果、勢力を占める新興資本家階級は、事実上原住者ではなく植民者たる英国人若くは日本人である。したがって、植民国=宗主国の必要、植民者の利益のための植民地産業革命というのが特徴であるという視点があった。(注35)

〈この論文についての諸家の批評〉(注36)
 楠原利治の評:正面から総督府の植民政策を批判した唯一のものであり、今日においてもこの計画を論ずる者にとって「古典的」というべき論文である。しかし、この計画そのものは適当とし、その善意を疑わないとして、植民地統治とその経済政策の改善の可能性を展望している。したがって当時の時代的、研究史的制約を脱していない。
 高崎宗司の評:朝鮮人の犠牲においてなされている日本の帝国主義政策の著しい事例であることを実証した。いわゆる文化政治の本質を暴いた見事な一文である。しかし、この計画の朝鮮農民と朝鮮納税者への影響を論ずる代議士のいることを望んでいるが、良き代議士一人出たところで改正さるはずもなく、朝鮮農民が望んでいる解決方法を誤認した。
 幼方直吉:朝鮮人の犠牲においてなされている日本の帝国主義政策の著しい事例であることを実証した。

2「朝鮮統治の方針」 (全集第一巻所収)
 一九二四年の朝鮮旅行中、現地で三一独立運動について聞いていた矢内原は、一九二六年六月十日京城に起こった六・一〇反日運動(注37)を知るや『改造』(一九二六年六月号)に『朝鮮統治の方針』を発表する。一九一九年の独立への意志を表明した三一独立運動は軍隊と警官で鎮圧されたとはいえ、「この事件は朝鮮民衆の勝利であった。総督府の敗北であった。サーベル政治の破滅であった」。そして総督府の武断政治が文治主義に変革された。その文治主義の総督政治も武断政治同様の試験すなわち、今回の六・一〇反日運動に遭遇したと断じている(注38)   
 この論考の趣旨を整理すると以下の如くである。
(1)文治政治では、内地から持ちこまれた資本主義的経済によって朝鮮人は財産、土地を売り無産化している。農民離村により多くの朝鮮人はシベリア及び満州へ移住した。あるいは又、周知の如く内地に移住し労働している。
(2)文治政治による教育の下で政治的自由の価値を知ったにもかかわらず、朝鮮人には参政権が与えられていない。学校卒業生には十分の社会的活動の地位は開けていない。その結果は不安、絶望、無光明。 
(3)植民地政策の一般的理論として、従属政策、同化政策、自主政策がある。そのなかで自主政策をとるべきである。従属政策は原住民の絶滅か反抗に終わり、同化政策は強制すなわち圧迫となり、反抗を生む。本国議会に植民地の議員を入れても植民地側の利益を護れない。フランスとアルジェリア、英国とアイルランド・カナダ・豪州・ニュージーランド・南ア連邦の例をあげて、植民地人の参政権を認める自主政策を推奨する。
(4)朝鮮議会を開設すべきである。朝鮮人自ら参政し、自分たちのための政策を実現しなければ、朝鮮人の利益は得られない。「朝鮮人は参政希望を有せずと。かく言う者の顔をば私は眼をまるくして見つめるであろう。朝鮮に行って見よ。路傍の石悉く自由を叫ぶ。石はいくら叫んでも警官に睨らまれないから。要するに朝鮮民衆に対して参政を認めざるは、政府が之を欲せずという以外何等積極的の理由は存在し得ない」(注39)朝鮮人の朝鮮統治に対する参与は朝鮮議会の開設によらなければならない。これが「朝鮮統治の根本方針、その目標たるべきものである」(注40)

 矢内原は、自主政策は植民地を放棄せよと言うのではなく、独立を「予想しない」という。(注41)しかし朝鮮人自身が実力をつけて独立するようになれば、それは歓迎すべきではないかとも言う。「仮に…我国統治の下に於いて活力を得、独立国家として立つの実力を涵養することを得ば、之れわが植民政策の成功であり、日本国民の名誉ではないか。朝鮮統治の責任を完全に果したるものとして満足すべきではないか」(注42)

〈この論文についての諸家の批評〉  
 肯定的評価は、同化政策にたいする本質的な批判であり、旧植民地主義の研究として今日なお最もすぐれたもの(幼方)。朝鮮の集団的人格尊重を説くことは当時においては最も進んだ考えであった(楠原)。
 批判は、植民地主義の歴史的把握に欠陥をもっているが、当時としてはやむをえない歴史的制約であろう(幼方)。朝鮮人への支配ないしは指導者意識が見られ、朝鮮人自身の独立運動そのものを評価していない。六・一〇運動を「陰謀事件」と呼び、独立運動に現れた朝鮮人を「もとより力弱き朝鮮民衆」と呼び、朝鮮人の自主的な、力強い独立運動の意志を把握していない(楠原)。

3「朝鮮統治上の二、三の問題」 『国家学会雑誌』一九三八年一月(全集四巻所収)
  この論文では、日本の植民地統治政策の特色である同化主義(内地延長主義)を(1) 財政問題(2)産業奨励問題(3)教育問題の三点について批判した。
(1)財政問題とは、朝鮮統治のための行政費補充金、軍事費の負担である。一九一〇年(明治四三)併合以来一九三一年(昭和六)までの朝鮮統治のために負担した一般会計の支出五億七千二百万八千円(行政補充費二億六千四百九十二万八千円 軍事費三億七百八万円)という統計数字を挙げ、朝鮮統治の財政独立は出来ていないと指摘。
 警備費では治安維持が憲兵警察から総督府警察に替わり総督府警備費が増加した。(注43)産業奨励の経費によって産業を発達させ、それによって財源増加を目論むものの効果が薄く、朝鮮財政の独立は困難になっている。
 (2)産業奨励の問題とは、農業と工業のいずれもその目的を達せられないことである。
 農業においては、米が主産物であり、台湾の砂糖と比べて財政を潤さない。砂糖産業は農業部門と工業部門とが連結する混合企業であるが、米は単純な農業部門である。全体としては旧来の封建的な生産関係と生産方法が存続している。台湾の砂糖産業に比べ資本蓄積、所得増加で劣り、したがって財源を殖やし確保する点で劣る。
 流通面においても、台湾の砂糖は日本内地に競争生産者がなく、外国糖にたいする高関税で保護され、内地市場で独占的地位を享有する。それに比べて朝鮮米は内地産米の不足を補充するものとして扱われる。内地市場において米の供給過剰が起これば朝鮮米の移入に圧力がかかる。一九三四年には産米奨励計画も中止となり、移出も統制を受けている。朝鮮産米奨励によって財政を潤し財政独立の支柱にすることができないでいる。
 工業については、在来の家内工業の保護と資本家的企業の奨励との二つが含まれる。家内工業は七万戸を越え、かなり広範囲に残存している。しかし保護奨励策は資本家的工業に集中する。
 資本家的工業の発達は二期に分けられる。第一期は(第一次)世界大戦、第二期は満州事変である。第一期は、大戦後の好景気で朝鮮紡績株式会社、朝鮮製糖株式会社、小野田セメント、三菱の兼二浦製鉄などが創設された。中小企業も簇出したが、その後の不況で衰微する。しかし日本内地の金融資本が高度化し、資本輸出の投下先を求めるようになり、第二期の満州事変以後の軍需インフレーション景気によって、朝鮮鉱工業が活気を帯びる。朝鮮窒素肥料(三菱コンツェルン)、小野田セメント、日本穀産工業、東洋紡績(仁川)、鐘ヶ淵紡績(光州)その他の建設を見る。鉄鉱、硫化鉄、特殊鉱物資源も開発投資として注目される。
 但し朝鮮工業は内地や満州に市場を見出せず、朝鮮内市場と外国市場に依存する。台湾の主要工業が内地市場において独占的地位を有するのに比して、資本蓄積、財源涵養上見劣る。総督府は今後も財政上補助金を交付していくことになり、工業資源の調査開発のために経費が増加する。したがって歳出が重なり、工業においても総督府財政の独立を約束することにはならない。そして、矢内原は次のように断定した。
 「内地資本の朝鮮進出は資本的に朝鮮を「同化」したるものであり、朝鮮の資本は内地資本の「延長」たるものに外ならない。…政治と資本とは相提携し、相互的に保護奨励し合って、朝鮮統治の資本主義的機構を固めてゐるのである。」(全集第四巻三二〇―三二一頁)
 (3)教育奨励の問題とは、日本語教育による朝鮮人同化政策である。日本語による普通教育は、日本官僚による統治の徹底、質の高い賃金労働者の獲得、朝鮮人を日本化し異民族支配の特質を除去するために、進められる。併合当時の普通学校(小学校相当)の数は官公私立合わせて百に過ぎなかったが、一九三五年(昭和一〇)には官立二校、公立二、二六九校、私立八七校、合計二、三五八校、生徒数六八三、七三四人になった。また一九三四年に簡易学校(修業年限二年)を公立普通学校に付設して未就学児童に対し簡易な初等教育を施している。しかし、この同化政策の最有力手段としての日本語教育は、停滞、頓挫している。日本語を解する朝鮮人の数は、一九一三年(大正二年)の二九、一七一人より一九三四年(昭和九)の八三三、六一二人に増加しているものの、朝鮮人全人口の三・三%にすぎない。今後言語の同化が行なわれても、それを以て直ちに民族意識の同化とみなすことができないことは、アイルランドの例でも明白である。そのうえ同化的植民政策は、経済的、社会的生活で本国人と同じようになっても、政治的権利の同化は拒否する。近代化で植民地人の政治的意識が目覚めていくのは必然であり、同化主義植民政策は矛盾点に到達する。
 産業及び教育にたいする父権的保護政策は、軍隊と警察によって補強されることになる。ここにみる朝鮮統治にかんする軍事費と行政費補充金が本国負担となり、同化政策の費用であると考えられるから、朝鮮統治の財政独立は期待できない。
 以上が矢内原の論点である。この論考にたいして楠原利治は次のように批評した。

ⅰ.朝鮮の産業の主となるものは農業、その主産物は米であり、台湾は砂糖を独占的に生産して財源涵養上遜色があるのを「自然」なことと受け止めている点は、日本帝国主義の政策の結果であることを見逃している。
ⅱ.朝鮮内の工業から財政援助の数倍、數十倍にのぼる利潤が得られており、それが財源涵養の妨げになっているところに、植民地産業、植民地財政の特色があるのではないか。
ⅲ.矢内原のこの朝鮮財政についての研究から多くの点で学ぶべきものがあり、古典的なものとして尊重されるべきであるが、その視点については修正されるべき欠陥を含んでおり、今後の朝鮮近代史研究の課題である。

4 新しい世代への期待を語る文章
 民族・国家の近代化は、独立なくして達成しない。その民族の中から近代化を担う思想と人物が生まれなければならない。一九三一年六月随筆「小なる感情と大なる感情」(全集二三巻)で「朝鮮人の間より朝鮮に於ける社会的発展の事実に関する学問及び論究の興らんことを希望する」(前出三四〇頁 傍線 桑ヶ谷)「新しき社会は朝鮮人の自ら建つべき社会である。故に朝鮮人にとりて必要なるは自立の精神である。…民衆に自立の気力を鼓舞するものが、朝鮮人の真の愛国者である。朝鮮はかくの如き指導者を求て居る」(三四二頁)と述べている。文明の諸物も、内在的、主体的民族の土壌に根を下ろして近代化が成し遂げられるのであり、この短い随筆の中身は重要である。
 一九三七年朝鮮に帰国する一人の女子学生との対話を個人誌『通信』四三号(一九三七年四月)に載せている。朝鮮がイエスやパウロの時代のローマ帝国の属国であったユダヤと同じ状態に置かれているとし、「聖書をよく解る地位に置かれて居る民族は朝鮮人である」と語っている。日本へ憎しみから反抗するのではなく、キリスト者として民族を甦らせるべきだ。「朝鮮が他国を掠め侵略したことはないとしても、朝鮮国内で同じ朝鮮人を掠めて来たでせう。それが朝鮮民族の罪です」と言うと、その女学生は「ああそうですか」と言って、頭を垂れた。民族としての政治的社会的自由を回復することさえ不可能ではないと、神が智恵と力を与えてくださると彼女を励ましている。ここで日本人が朝鮮人に「憎しみから反抗するな」と言っていることに問題はないか。 
 
5 『嘉信』での朝鮮の状況紹介
 矢内原は『嘉信』に朝鮮の状況を掲載し、読者に関心をうながしている。一九四〇年三月号では、創氏改名・朝鮮語抹殺政策・志願兵制度・神社参拝の強制を紹介し同化政策の何たるかを示した。高崎は「戦時下の抵抗として高く評価されてよい」と述べている。一九四〇年九月号随筆「海(ヘ)雲(ウン)台(デ)にて」は、趙鎔学(チョヨンハク)が神社参拝に抵抗して投獄され、出獄してまもなく死んだことを聞いて書いたもので、趙鎔学は一人でないと述べている。

八 第二回の朝鮮旅行(一九四〇年)
1 伝道者として朝鮮へ
 矢内原の朝鮮観にとって朝鮮旅行の重要性は、彼の朝鮮人との直接の交流を示すものであるからである。そこには体を張って友として朝鮮人と関係を深めようとした行動があった。
 一九三七年十二月、反戦的国家批判により東大より追放された矢内原は、月刊誌『嘉信』を創刊、無教会キリスト者として伝道活動に努力を傾けていく。持ち続けていた朝鮮への思いに動かされ、一九四〇年九月に京城で聖書講習会を開く機会をえて、第二回の朝鮮旅行を行う。太平洋戦争前年のこの時期、朝鮮においても自由はなく弾圧による「皇民化」が進められていた。こうした状況下で総督府に睨まれていたにもかかわらず、矢内原は旧来の信仰の友、朝鮮無教会キリスト教の指導者金(キム)教(ギョ)臣(シン)主催の聖書講習会での伝道を目指していた。金が総督府の監視下にあるので旧友の総督府財務局税務課長の村山正雄に事前に次の問合せをして、準備した。「(一)講習会は可能なりや。(講義はロマ書、会員(聴衆)は内鮮人共自由に来られること)(二)講習会開催の実行方法。(主催者、会場、日取等)」(全集二九巻一九〇頁)

2 旅程
 一九四〇年八月二十二日から九月十六日まで矢内原伊作と藤井立同伴の講演旅行である。まず、釜山日本基督教会で「キリスト教の論理と倫理」講演。慶州・仏国寺、大邱をめぐり、平壌で金教臣司会のもと監理教会堂での講演(エペソ書二章十一~十二節)の際には責任者が警察に召喚され、刑事が旅館に来ている。その後、京城・咸興・赴戦山荘・咸興をめぐる。以上八月。九月初日の午前は咸興での金英五(キムヨンゴ)方集会で講義(マタイ伝五章)、午後は興南工場見学、夜は興南メソジスト教会でマタイ伝十二章講義。翌日二日から六日にかけ羅津・清津を経て元山で外金剛・万物相を見物、元山の港内視察。
 京城に着き村山道雄方に一週間滞在。その間貞陵里金教臣方集会で「キリスト教の論理と倫理」講義、歓迎会(京城キリスト教会)、組合教会で講演、神戸一中同窓会、京城キリスト教青年会で「ロマ書」講義開始、培花女学校で講演、「ロマ書講義」、京城帝大法文学部訪問、梨花高女で講演、学生講演会、京城キリスト教青年会で「学生と基督教」講演、夜「ロマ書」講義、九月十四日送別会、京城―釜山―下関―福岡、嘉信読書会(松尾方)―下関—神戸—大阪―東京 (全集二十九巻年譜七六九頁)

3 旅程の中心「京城聖書講習会」の内容
 九月九日より十三日まで五日間、午後七時から九時まで京城基督教青年会ホールにおいてロマ書をもとに講義が行われた。定員七〇名にたいして一五〇名近くの申し込みがあり、三分の二が朝鮮人、三分の一が内地人であった。北は鴨緑江、南は釜山まで朝鮮各地から参加している。
 講義内容は、ロマ書の文章そのものの解釈を中心にした聖書講義の形態をとり、現実問題にかんする意見は極力おさえていた。それは当時の社会環境からくるものと推察される。個人の救と民族の救の関係を論じ、朝鮮、中国、日本の諸民族の間に民族的差別があるべきでなく、それぞれの民族はそれぞれの民族愛を有し(全集八巻一七〇,一八〇頁)いかなる民族も平等である(同二一二頁)とし、とくに朝鮮、中国をあげている。
 また国家権力の批判も行い、そこでは必ず朝鮮のことが引用されている(同五四―五五、二五一、二八四頁)。これらの民族の救いの発想は、一九三七年ファシズム民族論批判として書かれた「民族と平和」ないし「民族と国家」(ともに一九三八年発禁)と弁証法的な関係があり、それらの論考とかかわって民族の救論が出てきたのではないか、それは朝鮮人には「皇民化」運動にたいする内面的批判として受けとられたのであろうと、幼方直吉は論じている。(幼方「矢内原忠雄と朝鮮」『思想』四九五号 一九六五・九) 

4「京城聖書講習会」の自己評価
 帰国直後は、今回の旅行の目的である講演が無事成功したことを、神と支えてくれた朝鮮の信仰の友へ感謝し、ロマ書全体を心ゆくまで講義したと述べている。(「朝鮮の旅」全集二三巻三五一—三五二頁)
 戦後矢内原は、当時、キリスト教の伝道が弾圧されていた朝鮮に、自らも総督府から歓迎されない人物であるにもかかわらず、身の危険を冒して朝鮮に渡った決心を述懐している。
 「警察政治の弾圧下にある朝鮮の人々に対し、個人の救と民族の救についてキリストの福音を宣べ伝えることに圧倒的な使命を感ぜしめた。それ故に私は『異邦人の使徒』と自ら称したパウロのロマ書を携えて、朝鮮海峡を渡ったのであり、五日間にわたってこれを講じた時、私の血管の中の一ドランコの血液もキリストの熱心に燃えざるものはなかったのである。」
 そして戦後の朝鮮については、「世界の情勢は一変し、朝鮮は独立して韓国となり、日本は今日あるが如き状態となった。人は自由と希望を求めて喘ぎ、民族は復興と解放を求めて叫んでゐる。この秋に当たり個人と民族と人類の救の原理を明らかにしたパウロのロマ書を学ぶことは、我々にとり大いなる力であり、慰めである。」(一九四八年九月 ロマ書講義の序 第八巻三—五頁) 自分の使命は達せられたかの感—(桑ヶ谷)

 〈幼方評〉 帰国直後と戦後の評価の表現の違いは、戦前と戦後の時代の空気を生々しく反映している。この意味で、京城講義も、たんに聖書講義としてではなく、そのファシズム批判としての社会的意義が今後研究される必要があろう。
 〈関連事項〉矢内原を京城にみちびいた朝鮮の無教会キリスト者、金教臣は一九四二年独立運動の故に逮捕され、矢内原はその安否を友人村山に問い合わせている。(第二九巻二二五頁)一九四四年、矢内原の個人雑誌「嘉信」の発行も次第に困難になり遂には停止される。

九 戦後の矢内原と植民学者としての評価
 第二次世界大戦後、矢内原の朝鮮に対する発言が途絶える。朝鮮が解放され、その後分断された状況に対して、沈黙をしたのはなぜか。「私は、もと植民政策論という講義をやっていたでしょう。その植民政策論の名称をどうしようかといいますから、私は、日本はもう植民地はなくなったし、植民政策でもあるまいしといって、植民政策論の講座を国際経済論という講座に変えた」(東京大学新聞、一九五八・一・一二)という矢内原の記事を田中宏一橋大学名誉教授は引用し、旧植民地出身者である在日朝鮮人の存在に関し、矢内原が発言したものを見つけることはできないでいると述べている。(「戦後日本の『植民地主義』を考える点と線」平和フォーラム/原水禁・News Paper 二〇二一・一一 掲載)幼方も矢内原の沈黙を社会的地位の多忙だけからだけでなく、戦前に完成された彼の学問的内容に関わる問題ではないかと述べている。(前出「矢内原忠雄と朝鮮」)戦後、朝鮮が分断国家になった根本要因に日本の植民地であったことに思い至らなかった訳ではあるまいに。
 戦後、朝鮮に関する発言、論説は途絶えたが、人との絆は切れなかった。敗戦直後、一九四五年九月、解放を前にして病死した信仰の盟友金教臣を追悼し、個人誌『嘉信』に「金教臣氏を憶ふ」を発表するなど、『嘉信』などを通じて韓国のキリスト者との交流は終生つづいた。矢内原は一九六一年十二月五日に逝去したが、一九六二年一月二十日、韓国での矢内原追悼式に百余名が参加したという。また韓国人による回顧、称揚する文が書かれている。(注44)
 矢内原については、多くの研究者がその先駆的な、他の追随を許さない学問的価値のある植民地論、朝鮮論を著し、朝鮮に深い同情を抱いた学者であったことを認めると同時に、今日的にみれば訂正されるべき点もあると指摘している。良きサマリア人として朝鮮(人)に寄り添い、社会科学者(植民学者)として向かいあい、信仰、朝鮮、研究者とが混然と一体化していた。思想史家家永三郎は日本思想史上の矢内原忠雄について①キリスト教とマルクス主義の科学とを主体的に統一することにより、日本の現実に鋭い自己批判を加えた ②日本の植民地統治に対し、科学的根拠に立脚した、周到かつ仮借なき批判を加えることができたのは、彼の他に多くの例をみない ③太平洋戦争期の暗黒時代に圧迫に屈せず思想的抵抗をつづけ、多くの知識人が進退をあやまったこの時期、日本人の良心のともしびの吹き消されるのを守りぬいたと評価している。(全集四巻 月報七) 
 それにしても、名著「帝国主義下の台湾」を著した矢内原が、「帝国主義下の朝鮮」として著作をまとめなかったのはなぜか。戦後、朝鮮=韓国=在日朝鮮人について沈黙して発言が途絶えたのはなぜか。なお問うてみたい、考えて見たい課題がある。なお、この論稿は矢内原の朝鮮に関する点にのみ論じたものである。

まとめ
 石橋湛山と矢内原忠雄を並べてみると、両者共に日本の朝鮮統治政策を批判していながら、直接独立を承認せよという石橋に対して、矢内原はいずれその時が来るまで忍耐せよという立場を取っている。前者はジャーナリスト、後者は国立大学の教授という立場の違いによるとも考えられる。また前者は日本人を対象としての論説であり、後者は直接朝鮮人の多くの友人知人との接触があり、その及ぼす影響に慎重を要したのだと思う。共に帝国主義の植民地支配を実利と人道の両面で否定しており、前者は言論の人であるのに対して、後者は学者、大学人であると同時に伝道者でもあり、朝鮮人との交流が密であった。心情のなかに朝鮮の占める比重は矢内原の生涯を通じて大きかった。

   
<参考文献>
石橋湛山『湛山回想』岩波文庫 一九八五
石橋湛山『石橋湛山評論集』松尾尊充編 岩波文庫 一九八四
増田弘『石橋湛山』中公新書 一九九五
鴨武彦編『大日本主義との闘争 石橋湛山著作集三』東洋経済新報 一九九六  
長幸男『日本資本主義におけるリベラリズムの再評価』『思想』四三七号 一九六〇. 十一
長幸男『石橋湛山の経済思想』東洋経済新報社 二〇〇九
松井慎一郎「“有髪の僧”としての石橋湛山」『銅鑼』六六号 校倉書房 二〇一七.一二
『矢内原忠雄全集』岩波書店 特に一巻・四巻・二十三巻・二十七巻
幼方直吉「矢内原忠雄と朝鮮」『思想』四九五号 一九六五.九 
楠原利治「矢内原忠雄の朝鮮関係論文について」『朝鮮研究』四十三号 一九六五.九
高崎宗司『「妄言」の原形』木犀社 一九九〇
高崎宗司「矢内原忠雄と朝鮮・覚え書き」 『三千里』十三号 一九七八.二
赤江達也『矢内原忠雄』岩波新書 二〇一七
山中健司「〈研究ノート〉矢内原忠雄の朝鮮観」キリスト教学研究室紀要八号 二〇二〇.三 
岡崎滋樹「矢内原忠雄研究の系譜-戦後日本における言説」『社会システム研究』二十四号二〇一二.三

<注>
注1:中野好夫「小国主義の系譜」(『新沖縄文学』一九八〇・三/中野好夫全集第四巻所収)
注2:松井慎一郎「「有髪の僧」としての石橋湛山」(銅鑼 六六号)一四頁
注3:松井慎一郎 前出
注4:『湛山回想』三十頁 岩波文庫
注5:同右 解説 三九五⁻六頁
注6:同右 七十八頁
注7:赤江達也『矢内原忠雄』 八頁 岩波新書
注8:『矢内原忠雄全集』第二十七巻 一〇五⁻六頁、一三三頁 高崎宗司『「妄言」の原形』一八七頁
注9:高崎宗司「内村鑑三と朝鮮」『思想』六三九号 一九七七・九
注10:「帝国主義研究」(全集四巻)。キリスト者として学問にマルクス主義を取り入れた学者には大塚久雄、今中次麿などがいる。
注11:〈訪問地・参観・集会など〉 
傍線は学校 傍線は集会 斜体は街・村 その他は殖産関係・名所見学 日付〈四〉は十月四日
 大邱:女子普通学校・男子普通学校・市場・片倉製絲工場参観 〈四〉
 大田-三郷:夜集会〈五〉、翌日朝鮮人部落巡回、夜万歳騒動につき聞く〈六〉 
 木浦:夜、日本基督教会で集会(詩3)聴衆満堂 
 大田:大田朝鮮興業会社近藤を訪問〈九〉
 京城:総督府殖産局・商品陳列館・景福宮・京城帝大・漢江・竜山訪れ、夜修養団に講話〈一一〉
 仁川見物、夜集会〈一二〉内務局長・調査課・住友林業出張所・ベネディクト修道院をたずねる、
 〈一三〉、宇津木宅で祈祷会、鐘路青年会館で福音講演会〈一四〉、総督府社会課・東拓・殖銀・三井物産をたずねる〈一五〉
 平壌:海軍練炭工場・朝鮮電気興業会社・大日本製糖・乙密台・牡丹台訪問〈一六〉、箕子陵・鮮人染色(足ブミ、資本金3万円)・機織(合名会社、資本5万円)・靴下ゴム靴工場(資本5万円)・鮮人町見学〈一七〉、公立普通学校・モフェフト宣教師関係学校(プレスビテリアン派)・崇実大 学・中学・普通学校・神学校、妓生学校見学〈一八〉
 奉天:場内宮殿・普通学校見学〈一九〉
 撫順:撫順炭鉱で大山坑・モンド瓦斯発電所・露天掘見学〈二一〉
 大連:満鉄本社に石川鉄雄を訪問、地質研究所・中央試験所・窒業試験所見学〈二三〉、満鉄で「朝鮮旅行雑感」講演〈二四〉 
 (全集二九巻年譜八二六頁) 幼方直吉「矢内原忠雄と朝鮮」『思想』四九五号 参照
注12:『石橋湛山全集』第四巻所収。 松尾尊兊編『石橋湛山評論集』所収 岩波文庫 鴨武彦編「大日本主義との闘争-石橋湛山著作集三」所収 東洋経済新報社 
注13:この年はワシントン会議で、米英日帝国主義国家間の対立矛盾の調整が、海軍軍備制限および極東・太平洋問題をめぐって展開された時期であった。
注14:「一切を棄つるの覚悟」大正一〇年(一九二一)七月二三日社説 前出注12『評論集』に所収
注15:前出『石橋湛山評論集』一〇三頁
注16:同右一〇六頁
注17:同右一一〇頁
注18:同右一一三頁
注19:『矢内原忠雄全集』第一巻一九二六年 
注20:同右第一巻第二章「植民地の概念」三九頁 
注21:同右第五章「植民地の成立及終止」一〇三頁
注22:同右第第十章三「植民政策の概念」二四七—二五〇頁 
注23:同右第十一章「統治政策」二八四頁 
注24:同右二九二頁 
注25:同右第十二章「原住者政策」三〇六—三〇七頁 
注26:同右 三〇七—三〇八頁 
注27:同右 三二五頁 
注28:同右 三二七頁
注29:細川嘉六「現代植民運動における階級利害の対立」『大原社会問題研究所雑誌』一九二七年三月号
注30:洪以燮「韓国史における『二十世紀前半期』の規定問題」一九七一年、のち『韓国近代史』所收          
注31:前出高崎『「妄言」の原形』一九五―六頁→高崎の批評:洪以燮の批判は、正しいといえる。彼の指摘した誤りは、一言でいえば朝鮮の独立運動を理解できないところからくる誤りであった。
注32:『矢内原忠雄全集』第一巻六九八❘七〇六頁
注33:同右七一二頁 
注34:同右七一三頁
注35:同右七一九頁
注36:文末参考文献
注37:大韓帝国の最後の皇帝純宗の大葬の日を期して起きた独立運動。学生と社会主義者たちが中心となって展開された。
注38:全集第一巻七二六—七頁
注39:同右七四〇頁
注40:同右七四三頁
注41:同右七三五頁
注42:同右七四二―三頁
注43:「殊に満州より所謂不逞鮮人の潜入を防止するための国境警察の強化を必要とし、満州国成立後は匪賊の侵入に備ふるため、一層厳重なる国境警察を要したのである。」(全集第四巻三一一頁)
注44: 李禺(イウ)鍵(ゴン)(李志成)「良心의기둥」(『聖書研究』一九六二年二月)、金(キム)鐘(チョン)吉(ギル)「마음의師父・矢内原先生」(『聖書研究』一九六二年四蘆(ノ)平(ピョン)久(グ)「月)、矢内原先生と韓国」(『矢内原忠雄全集』月報六 一九六三・八)、劉熙(ユヒ)世(セ)「世界의福音」(『聖書研究』一九七一年三月) 以上高崎「妄言の原形」一八五—一八六頁

*筆者のご厚意により、朝鮮問題研究会の「海峡」31号から転載させていただきました。https://x.gd/yM0gy

(2025.2.20)
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