【日本の歴史・思想・風土から】

神道入門―そのカミ観念・思想・歴史

荒木 重雄


 この会は「仏教に親しむ会」で、仏教を知的に愉しもうと、これまでさまざまな視点から論じてきていますが、仏教理解のための比較の一対象として、神道についてもいささか知っておくのがよかろうと思います。そこで今回は神道について、その大筋をお話させていただきます。

◆ はじめに

 「神道」というのは何かといいますと、なかなか難しいのですが、一言でいうと、「日本固有の民族宗教」ですね。日本人の信仰や思想に大きな影響を与えた仏教や儒教などに対して、それらが伝えられる以前からあった土着のカミ観念に基づく宗教実践とそれを支えている生活習慣を、まとめて「神道」と呼んでいます。
 その特徴としては、創始者がおらず、確定的な教典もなく、森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊をまつり、祭祀を重視する、そして、古代から豪族層による政治体制とも関連しながら徐々に発展してきて、近代には日本国家の形成にも大きな影響を与えた宗教です。

 今日はその神道についてお話するわけですが、本論に入る前に、一つお断りしておきたいことがあります。
 江戸時代の中期に、本居宣長という有名な国学者がいました。「国学」というのは、ご存知のように、儒教や仏教など外来文化の影響を受ける以前の「日本民族固有の精神に立ち返ろう」という主張を基本とする思想・学問でして、ですから、神道に一番近い、いわば神道の立場を代弁する学問ですが、その国学の代表者といってもいい本居宣長が、日本古来の神=神道の神について、こう定義しているのですね。神とは、「何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)きものなり」。なんであろうと、普通でない勝れた徳や力があって、畏れ多いもの、それが神だというのですね。これが神道の神です。

 「何にまれ」ですから、なんでもよい。バラバラです。統一的な原理や体系はありません。なんでも神になる。なんでも神でありうる。これが、まず押さえておきたい神道の特徴です。
 他の宗教と比べてみますと、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は一神教ですね。ヤハウェ、デウス、アッラーなどと呼び名は変わっても、一つの絶対的な神があって、この神しかあってはならない、他の神の存在は許さない。その意味で完成された排他的一神教です。
 では、仏教はどうかといいますと、仏教では多くの如来・菩薩・明王・天と、さまざまおりまして、一見、多神教のようですが、「釈迦が説いた悟りの境地を目差す」という仏教全体の確固とした大目標があって、その目標に向けての統一的世界の中でそれぞれの如来・菩薩・明王・天が位置づけられ、役割を担っているわけです。それに対して神道の神々は、ほとんど互いの脈絡なく、バラバラに存在するのですね。「多元的」といってもいい。これが神道の、まず第一の大きな特徴です。
 ですから、これから私がお話しますことも、論理的な脈絡がつけにくく矛盾するところも多いのですが、それはこの「神道という世界自体がもつ多元性にある」とご理解いただきたいと思います。

◆ 神道のカミと祀り

 さてそれでは、「日本の神とは何か」、という話から入りましょう。これにはいろいろなタイプがあります。まずは、森羅万象を霊的存在と見るタイプ。古来、日本人は、人間の力を越えたもの対し畏れかしこむ心を抱き、そうした心情を起こさせるものをカミと呼んできました。山、川、海。生い茂った樹木や巨大な岩。狼や烏や蛇。芽生えや実り。生物・無生物を問わずあらゆるものを、霊魂や精霊を宿す生命体と見たり、人間と同じように意志や感情を持つものと考え、それらのモノや働きをカミとしました。いわゆるアニミズムの世界観ですね。それが一つ。
 次に、死者の霊魂が昇華されてカミになるとも考えます。人は亡くなると死者の霊魂である「タマ」は、はじめはアラタマ(二通りの意味と字があります。新魂・荒魂。亡くなったばかりの「新しい魂」としてアラタマですが同時に「荒らぶる魂」のアラタマです)で、そのアラタマは周りの人たちに危害を及ぼす危険な要素を持っていますけれど、丁重に祀られるにつれてしだいにその荒々しさが薄れ、やがてニギタマ(和魂)として穏やかな性格へと変化していき、そして数十年もすると、タマの段階ではまだ持っていた個性・個別性を失って、祖先神と融合して一体になる。祖先神という目に見えない一つの集合体に同化してしまうのですね。
 この、その地域の全ての死者の霊が一体となった目に見えない祖先神の塊は、通常、人里離れた山の中や海の彼方に住み、定期的に、ときには臨時に、故郷を訪れ、村人の暮らしを見守り、手助けもするのですね。
 たとえば農村なら、山にいる祖先神が、春、山を下って里に降りてきて、「田の神」として村人の稲作を助け、秋に収穫が無事終わったのを見届けたら、山に戻って「山の神」になる、という具合です。季節ごとに、「山の神」「田の神」を繰り返すのですね。この祖先神が里にいるときの住まいが鎮守の祠や社です。

 神は物質でなく、姿・形を持たないものですから、降りてきた神は一時的に宿るものが必要になります。これが「依代(よりしろ)」と呼ばれるもので、樹木や岩などがそうですし、鏡や剣もそうですね。また、人に神が降りてくる場合もあります。人の場合は「憑坐」(よりまし)といわれて、いわゆる「神がかり」ですね。
 神に対する人々の考え方・観念を、具体的に表しているのが「祭り」です。神々を畏れかしこむ人々は、暮らしの節目ごとに神々を迎えてもてなし、畏敬の念を示し、願い事をし、加護に感謝しました。その祭りの一般的な進め方を具体的に見ますと、まず、神々を迎えるための場所を清浄に整え、神々を祀る人々も心身を浄めることから始まります。準備が整うと、聖なる時間である深夜に、あらかじめ用意された依代もしくは憑坐に神を降ろして、御饌(みけ=神に供える食物)や神酒(みき=神に供える酒)を供え、神をもてなす歌や舞いを奉納します。人々は神に対する願いを祝詞や歌で伝え、神は神意を託宣(神のお告げですね。巫女さんを通じて告げたり)、卜占(占い)で示します。それがすむと、神々と人々が共に供えた酒を飲み供えた食べ物をたべる直会(なおらい)によって、神と人との絆を強め、確かめ、神が祭りの場を去ると、禁忌が解かれて祭りは終わります。

 祭りの多くは農耕儀礼と結びついていまして、年頭に豊作を祈願する祭り、春の農耕開始に当たっての祭り、夏の病害虫駆除のための祭り、秋の収穫を感謝する祭り、の四つの祭りが最も重要な基本となる祭りでした。
 人々は、竈の神や井戸の神など、それぞれの生活で必要なさまざまな神も祀りましたが、稲作社会では、一定の所にずっと住む定住性のうえに、農作業などを協働で行うための結束の強い共同体を造りだしていましたから、そこで祀られる最も重要な神は「共同体の祖先神」であり、それはその土地の守り神と考えられ、共同で祀ることが多かったのですね。ですから、神道は基本的に集団の信仰であり、後に個人の救済が求められるようになると、それは仏教に求められることになって、そこに宗教の棲み分け・役割分担が出てくるのです。この役割分担は現在まで続いていますね。

 ちょっと長く横道にそれましたが、「神道の神」に戻りましょう。
 日本古来の神は、今お話した、自然の神・森羅万象に宿る神、と、共同体の祖先神(先祖代々の霊で、山の神・田の神ともなって地域の人々の生活や生産を守る神)が最も基本的ですが、他にもいろいろあります。
 まずは、天照大神や素戔嗚尊など、『古事記』や『日本書紀』、『風土記』などの諸々の神話に出てくる神々です。次に「人物神」といいますか、皇族や貴族・豪族出身の人物や、戦国大名・武将から明治維新の志士・元勲・軍人まで、さまざまな人物が神として祀られています。

 それから、興味深いのは「御霊(ごりょう)信仰」ですね。政争で失脚したり戦乱で敗れた者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊は、怨霊となって、敵や仇に災いをもたらすだけでなく、社会全体にも災い(天変地異や疫病の流行など)をもたらします。しかし、こうした霊を名誉回復したりして鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」となって平穏や恵みをもたらす、という考え方が、平安時代に起こりました。これが御霊信仰です。
 その代表的な例が菅原道真ですね。文筆に勝れ、忠臣として誉れ高く、官僚トップの右大臣にまで昇り詰めたのですが、左大臣に讒訴され、大宰府へ左遷されて、恨みを呑んで現地で亡くなりました。すると、死後、京に異変が頻発するようになったのです。まず讒訴した政敵が病死する。次いで讒訴を受け入れた醍醐天皇の息子や孫が次々病死。ついには天皇の住まいである清涼殿に雷が落ちて朝廷の要人の多くを殺傷し、それを目撃した醍醐天皇も、体調を崩して3ヶ月後に崩御した。これらを道真の霊の祟りと恐れた朝廷は、道真の名誉回復をするとともに、京都に北野天満宮を建てて天神として祀った。これが全国各地にある天満宮=天神様の始まりですね。

 このような祟りを恐れて祀った神社は結構いろいろあるのです。たとえば、関東の豪族の武将ですが朝敵として討たれた平将門を祀ったのが、東京の神田明神、築土神社、岐阜県大垣市の御首(みくび)神社、茨城県坂東市の国王神社などですし、佐倉藩の苛斂誅求を直訴して磔になった名主の佐倉惣五郎を祀った宗吾霊堂もそうですね。
 同じようなことで言えば、祇園祭で知られる京都の八坂神社は、素戔嗚尊を祀っているといいますが、もともとは、疫病神の牛頭天王(ごづてんのう)を鎮めるための、仏教や陰陽道とも習合した神社だったのです。
 ちょっと付け足しますと、祟りをもたらす霊を鎮めるためには、強い呪術の力が必要とされ、呪力の強い仏教が大きな力を果たすことが期待され、それが神仏習合を進展させることになったともいわれています。

 さて、神道の神ですが、このように幾つかのタイプの神がありますが、それらがいろいろ混ざり合い習合しているのですね。そして、たとえば一番先にお話した自然の万物に宿る霊的なもの、たとえば稲に宿る精霊である「稲魂」も、人格化されて、保食神(うけもちのかみ)とか登由宇気神(とゆうけのかみ)とか大気津比売神(おおげつひめのかみ)と呼ばれる人格的存在とされていて、しかも、一つの神に沢山の別称がある、というようなことで、神々の世界は複雑極まりないのです。ですが、いずれもそれらは、人知を超えた恐るべき存在で、捧げ物をして丁重に祀れば人々に恩恵を与えるけれど、そうしないとひどい災厄をもたらすと、考えられていました。これが古来の日本の神、神道の神の特徴ですね。

◆ 仏教伝来と神仏習合

 さて、そういうところに、中国・朝鮮半島を経由して(百済の聖明王から仏像・経論が献上されてと伝えられますが)、仏教が入ってきました。6世紀半ばのことですね。すると、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏との間で争いが起きます。
 『日本書紀』によりますと、欽明天皇13年、仏教が伝来しますと、直ちに崇仏・排仏の議論が起こり、物部尾輿らは、「方(まさ)に今改めて蕃神(あだしくにつかみ)を拝みたまはば、恐るらくは国神(くにつかみ)の怒を致したまはむ」と排仏を主張しました。外国から来た神を崇拝すればもともとのこの国の神が怒るだろう、というんですね。それに対し崇仏を主張した蘇我稲目に仏像を預けて祀らせたところ、疫病が流行し、人々が多く亡くなった。そこで物部尾輿らは自分たちの主張の正しさが証明されたとして、仏像を難波(なにわ)の堀江(ほりえ)に捨て、寺に火を点けた。すると、天に風雲たちこめて、たちまち宮殿に災いがあった。ということが記されています。
 この話がどこまで史実を映しているかはさておき、この記述からは、仏が古来からの神々と同列に捉えられ、この見知らぬ神がどんな災厄をもたらすものか、人々が大いに不安がったことがわかりますね。先程もいったように、神は人知を超えた存在で、人々に恩恵を与えるけれど、怒れば災厄をもたらす、恐ろしい存在です。ですから、崇仏・排仏の争いがあったとするなら、いろいろな解釈はあるでしょうが、仏教の教義などとは関係なく、崇仏側が仏を招福神と見たのに対し、排仏側はこれを災厄神と考えた、というのがことの本質だ、という見方もあるのですね。

 さて、このように、日本の神と同じレベルで捉えられた「一つの神」としての仏でしたが、やがて外来の仏教は、日本古来の宗教など及びもつかない、高度で強力な宗教であることがわかってきました。インド・中国という世界屈指の古代文明の中で磨かれ、思想、教団組織、儀礼など、いずれをとっても高度に確立された仏教でしたが、同時にまたこの宗教は、建築や工芸、医薬などの最新の科学技術を伴い、律令政治体制とも緊密に結びついていました。ですから、仏教を受け入れるということは、そのまま、大陸の最新の文明を手にすることに他ならなかったのです。もはや仏教の優位は確定的であって、古来の神々は、仏に従属することによってのみ、存在を守り得る状態となりました。しかし、その際、仏教はけっして古来の宗教を滅ぼすようなことはしませんでした。むしろそれを温存し、取り込むという方法で、自らを広げ定着させていったのです。それが、神仏習合です。

 神の仏への従属=習合はどういう形で進んでいったのか。それには三つのパターンがあったといわれています。
 まず第一は、「神は迷える存在であり、仏の救済を必要とする」という考えです。これは奈良時代に始まっていまして、古来の神々を人間と同列に扱って、神々にも救いが必要だ、「神も仏の慈悲によって成仏できる」、としまして、神を救うため、神宮寺=神社の境内に神宮寺という寺院を建てて、神が成仏できるよう、神のために経を読んだり、仏事を行なったりしました。
 たとえば、『藤原家伝』という藤原一族の歴史を書いた書物に、8世紀初めですが、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)が神の願いで、越前(福井県)の気比神宮に神宮寺を建てたという記述があります。それによりますと、神が武智麻呂の夢に現れ、「吾が為に寺を造り、吾が願を助け済(すく)え。吾れ宿業に因りて神たること固(もと)より久し。今仏道に帰依し、福業を修行せんと欲するも、因縁を得ず。故に来たりて之を告ぐ」といったので、早速に武智麻呂が神宮寺を建立したというのです。
 インド以来の仏教の見方では、インドの神々は「天」と呼ばれますが、天はいまだ迷いの六道の一つ=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の迷いの六道の一つの段階にいて、いまだ輪廻の苦の枠内にとどまる存在とされるのですが、その見方が、日本の神にも適用されているのでしょう。日本の神も天と考えたわけです。

 第二の形は、「神は仏法を守護する」という考えです。これも奈良時代から始まる考えで、たとえば、宇佐の八幡神が、東大寺の大仏建立を手助けするために奈良の都に登ってきたという記事が、『続日本紀』にあります。八幡神はもともと北九州の神で、海の神とも銅山の神ともいわれますが、とくに応神天皇の霊と習合して勢力を持つようになったとされ、それがこのような形で中央に進出して、逸早く仏教との関係を深め、平安初期には「八幡大菩薩」という菩薩号を得て、僧形八幡の神像が造られるなど、仏教との関係が極めて緊密な神でして、またそのことによってさらに勢力を拡大した神ですね。
 この「土着の神が仏を助け仏法を守護する」というのも、インドで、ブラフマンという神が梵天になり、インドラという神が帝釈天になって仏を守ることになった以来の、「護法神」という考えに基づくものですね。

 第三は、「神はじつは仏が衆生救済のために姿を変えて現れたのだ」という考えでして、これは神と仏を一体と捉える、最も進んだ神仏習合の形ですね。平安中頃からよく見られる「本地垂迹説」です。「本地」はもともとの本来のあり方、「垂迹」は本地が仮の形をとって現われることでして、仏教の本地垂迹説では、いうまでもなく「本地」は仏で、「垂迹」は仏が仮に神の姿をとって現われたことですね。仏が日本の衆生を救うために、日本の神の姿をとって現われたわけです。
 それも、平安後期の頃になりますと、どの神がどの仏の垂迹であるかということが個別に確定されていきます。たとえば、吉野の金峯山で祀られる金剛蔵王権現は釈迦如来が仮の姿をとったもの、熊野三社でいえば、熊野本宮の祭神・家津御子神(いえつみこのかみ)の本地は阿弥陀如来、新宮の祭神・速玉神(はやたまのかみ)の本地は薬師如来、熊野那智神社の祭神・夫須美神(ふすみのかみ)の本地は千手観音菩薩であり、また、伊勢神宮は大日如来、日吉神社は釈迦如来、気比神宮は千手観音、厳島神社は弁才天とされました。

 仏教の影響は、神仏習合の教理の上だけのことでなく、さまざまな面に現れてきます。たとえば、神社の社(やしろ)やご神体です。
 古来の神への信仰では、神は、祭りのたびに迎えるものですから、神々が来臨する磐座(いわくら)や磐境(いわさか)=磐座は、山中の大きな岩や崖で、そこが神が降りて鎮座する所とされたのですが、やがて、岩や崖でなくても神が鎮座する所を磐座というようになります。磐境は、神が鎮座する区域ですね、そうした山中の大きな岩や、祭りが行なわれる森や山などがいわば神社であり、建物としての神社は造らなかったのですが、仏教の寺院の影響を受けて、恒久的な建造物として社殿・神殿を造るようになりました。ご神体・御霊代(みたましろ=神のみたまに代わる物)・神宝などを安置する本殿、神を祀る人々が籠って潔斎をするための幣殿(へいでん)や拝殿、それらを囲む垣、神聖な領域への入り口を示す鳥居、などと、神社の形が整いました。
 社殿の建築は、穀物倉を原型とする伊勢神宮と、住宅に由来する出雲大社が代表的とされますが、しだいに仏教の寺院の形や、皇族・貴族の宮殿の形式が採り入れられるようになっていきました。

 ご神体もそうですね。神は目に見えないものとされていましたから、仏教の影響以前は、神が来臨する祭りの場での依代や憑坐 が神とされ、神が降りる岩や巨木、鏡・剣・玉などが礼拝の対象でした。ところが神社が建てられるようになりますと、仏教の寺院から考えても、神殿に安置するものが必要になり、平安時代になって、ご神体という観念や言葉が出てきます。神体には、神々の性格に応じて、宝器・農具・武具・狩猟具など、さまざまなものが選ばれましたが、さらには仏像の影響を受けて、神を人の姿で表すようにもなりました。それが神像=神の姿を人の形で表した像ですね。本地垂迹説の影響を受けて創られた神像は密教美術の影響を受けたものが多かったのですが、平安時代後期になりますと、和様化が進んで、優美な公家の姿を借りたものが多くなりました。さらに神仏習合が進んだ鎌倉時代以降には、本地が垂迹した神の像でなく、本地の仏の像=仏像そのものを神像として祀ることも一般化しました。
 絵画の方でも、本地仏やその本地仏を示す梵字と、それに対応する神の姿を描いた「垂迹曼荼羅」が盛んに描かれるようになりました。

◆ 禊・祓いや延喜式のことなど

 さてここで、本論から少し離れて、神道の基本的な特徴にかかわる雑学的な情報を少しお話しましょう。
 まず神典(神道のテキスト)=仏教でいうお経やキリスト教でいうバイブルのようなものが神道にあるのか、というと、これはありません。『古事記』や『日本書紀』の神話が神道的な神観念を表しているとされますが、多様な広がりをもつ神道全体から見ればごく一部を表しているに過ぎませんし、祭りに際してそれらが読誦されるようなことはありませんでした。
 『古語拾遺』や『風土記』も神道にかかわる記述はありますが、しかしそれらは、古典の知識を持つ神官の間で知られていただけで、テキストというには程遠いです。まあ、神道のテキストとしてあえて挙げるとすれば、10世紀に編纂された『延喜式』に朝廷の祭祀が詳細に記されていることや、伊勢神宮の儀式を記した『延暦儀式帳』など、祭りの仕方・次第を著したものくらいです。
 中世に入りますと、空海などが書いたとされる(事実ではないのですが、空海などが書いたとされる)テキストが続々と生み出されたり、伊勢神道から『神道五部書』が出たりするのですが、それはまた後の話といたしましょう。
 庶民の間では、各神社から出されていた「神社の縁起」=その神社の由来や霊験を語る伝説ですね、そうしたものが神道を知る、神道に関わる、よすがでした。

 そういうことでしたから、思想的な深まりも乏しかったようです。宇宙観としても、神道の宇宙観は、天上の高天原、地上の葦原中国(あしはらのなかつくに)、地下に黄泉国(よみのくに)もしくは根の国(ねのくに)の三層構造を想定し、この垂直構造に、海の彼方の常世国(とこよのくに)あるいは妣の国(ははのくに)の水平的な広がりを加えたものです。この常世国・妣の国は他界=われわれの世界とは別な死者の世界ですが、神道ではもう一つ、山の中も、死者の霊魂が赴く他界ですね。
 妣の国の「はは」は「亡くなった母」のことなんですね。常世国も不老不死の理想郷の意味と同時に、死者の国、黄泉の国の意味もあります。で、この黄泉国=天上に高天原・地上に葦原中国・地下に黄泉国の、黄泉国は、罪や穢れに満ちた暗黒の世界でありますので、地上の罪や穢れをすべて黄泉国に祓い去る儀式が、神道の重要な儀式としてあるのですね。

 じつは神道で一番大事なのは「清らかさ」なのです。神道では穢れを最も嫌う。その穢れの代表的なものは、死です。それから血です。血を穢れとするから、女性の出産や月経も穢れとします。さらに、病気、近親相姦、獣姦、災厄が人に及ぶよう祈禱する蠱物(まじもの)なども穢れです。
 穢れは、それに物理的に触れるだけでなく精神的に触れることによっても「伝染」すると見なされます。穢れがつくと、その個人だけでなく、その人が属する共同体にも災いがもたらされると考えられました。
 その穢れを取り除く方法=浄化の儀式が、「禊(みそぎ)」と「祓い」です。水を浴びたり川や海に入って心身を浄める禊と、神官が御幣を振ったり、沸騰する塩水をかけたりする祓いです。
 そして、神道が人々に求めるものは、正直で清浄な心です。浄明正直=浄く明るく正しく直く、といいまして、正直は「真っ直ぐ」の意味ですが、神々の加護によって幸を得るには、人は、正直で清浄な心で神々に接しなければならない、とされます。正直で清浄な心とは、さまざまな作為を捨てた、生まれたままのような純粋で自然な心のことで、それも、禊と祓いで得られる、達せられるとされます。

 先程、『延喜式』といいましたけど、『延喜式』が著された平安中期頃・10世紀頃には、先に述べた仏教の影響もあって、神社のシステムもだいぶ整ってきていまして、『延喜式』には国家が神威(その格や霊験)を認めている全国で2861の神社が挙げられています。これらは「式内社」と呼ばれまして、後世になっても由緒正しい神社として認められていますね。
 延喜式の時代、この式内社には、祭りに際して、国の官吏である「神祇官」が朝廷からの幣帛(へいはく)を持って奉幣(ほうへい)に赴いたのですが・・・幣帛というのは、幣も帛も布のことで、幣は麻や木綿の布、帛は絹の布ですが、なんであれ、神に奉納する捧げ物のことを幣帛といいます。これは昔、中国では進物に布を用いたことからきているようですね、で、その幣帛を神に捧げることが奉幣ですが、それを神祇官が行なっていました。しかし、都から遠く離れた地では、神祇官が直接赴くのではなく、国から地方に行政官として派遣されている国司が代わって奉幣しました。で、神祇官が奉幣する神社を官幣社、国司が奉幣する神社を国幣社と呼びました。

 官幣社というのは皆さんもご存知でしょう。でも皆さんご存知なのは、この平安時代からの官幣社ではなく、明治政府が延喜式に倣って新たに行った神社の格付けですね。官幣大社とか官幣中社とか官幣小社とかありました。これは終戦で廃止されましたが、今でも神社に行くと、境内にそう刻んだ大きな石碑が麗々しく立っていたりしますね。この制度は廃止されたのですが、今でも神社庁は「別表神社」とか称して特別扱いしているようです。

 それから、国弊社については、延喜式の時代、国司は任国に赴くと、まず、国内の主要な神社に参拝して、そうしてから政務を執ることが定められていましたが、その参拝の順序が固定して、一宮・二宮・三宮の呼び名が起こり、それが神社の序列を表すことになりました。また、国内の幾つかの神社をまとめて一社に奉幣する簡略化が行われるようになりますと、そのまとめて奉幣する神社を「総社(そうじゃ)」と呼びました。
 一宮・二宮とか総社という名前は、今でも地名などでも残っていますね。

 このように、神社の格付けも進み、社殿も立派になってきますと、本来、祭りは共同体の行事として行われるものでしたが、祭りが、華麗な催し物として行われるようになりまして、祭りに参加するのではなく、見物する人々が現れてきました。都の大きな神社などはとくにそうですね。そうすると、人々はものごとを祈願するに当たっても、自分の共同体の神社だけでなく、霊験あらたかとされる他所の神社にも参詣し、祈願するようになりました。中世に入りますと、こうした参拝が益々盛んになって、庶民の間にも広まって、中世以降、各地に、多くの参詣者を集める神社が現れてきました。
 そうすると、伊勢神宮や熊野大社などのように、「御師(おし 伊勢神宮では、おんし)」と呼ばれる、参詣者集め専門の神官が現れて、遠隔地から参詣者を募って団体で連れてくるようにもなりました。参詣者は、旅の苦労と道中の禁忌に耐えてやってきて、所願成就の参拝をしますが、目的を果たした後は、門前町の賑わいの中で精進落としの歓楽にしたり、また、参詣の印になる土産を買い求めて持ち帰って、隣近所に配りました。こうした遠隔地参拝のさまざまな習慣が、日本人の旅の仕方の原型にもなったのですね。

◆ 神道からの神道論

 さて、本論に戻りましょう。
 本論ではこれまで、素朴な神々の信仰が、仏教の影響のもとで徐々に教義を持つようになり、社殿も整い、素朴な儀礼も荘厳なものに発展してきた、ということをお話しました。
 これまでも私は、「神道」という言葉を使ってきましたが、どうも、落着かないものがありました。というのは、これまでお話してきたような神との関わり方や神の捉え方には、「神道」と呼べるような宗教として確立した論理性や体系性が認めにくいからです。確かに、「神道」という言葉自体は『日本書紀』にも見えるのですが、それが仏教と並ぶような体系性を持った宗教としてそれなり確立するのは、ずっと後のこと。平安時代とみる見方もありますが、独自の教理・思想を獲得してはじめて神道が確立したとするならば、さらに中世まで=鎌倉・室町まで下らなければならないでしょう。

 この、「神道」としての独自の思想や教理の確立は、仏教側から被せられた神仏習合、とりわけ本地垂迹説から、どう脱するか、脱して、どう独自の神道理論を打ち立てるか、にかかっていたわけです。
 本地垂迹説は、もう一度おさらいをしますと、日本の神々の本体は仏教の仏・菩薩であり、それが日本の衆生を救うために姿を変えて神として現れた、ということですね。この思想をどう覆し、神の主体性を確立するか、主張するか、です。

 「神道」という言葉を冠して、すなわち神の側から・立場から、最初と現れた神道は、「山王神道」です。これは、鎌倉初期、比叡山山麓にある、比叡山の守護神である日吉山王神社を中心に起こった神道思想ですが、山王の神は、釈迦が、日本の衆生を教化するために現れたもの、という、いまだ、本地垂迹説に依ったものでした。ただ、鎌倉末期から南北朝期になると、この中から、「本地である仏より、垂迹である神の方が重要だ」、という主張も出てきます。日吉山王神社でいえば、山王の神・大山咋神(おおやまくいのかみ)の本地は釈迦だけど、本地の釈迦より、それが垂迹した山王の神の方が重要で偉い、というのですね。
 これが天台系の神道論であるのに対して、真言系では「両部神道」が出てきました。「両部」というのは、いうまでもなく、曼陀羅の胎蔵界・金剛界のことでして、両部神道ではこの両界を伊勢の内宮・外宮に当て嵌めます。すなわち内宮の天照皇大神が胎蔵界、外宮の豊受皇大神(とゆけのおおみかみ)が金剛界に当たるというのです。密教の曼荼羅は無数の諸仏を体系づけるものでありますので、やはり、多数の神々を体系づける必要に迫られた神道にとって、曼荼羅は有効な方法を提供するものだったのですね。

 以上二つの、天台系・真言系の「仏教系の神道理論」に対して、「神道自体の自立した理論」をもって仏教に対抗しようという傾向も、同じ頃から顕著になってきます。この傾向を代表するのが「伊勢神道」や「吉田神道」です。
 まず「伊勢神道」ですが・・・伊勢神宮は、天照皇大神を祀る内宮と、豊受皇大神を祀る外宮からなっていますが、外宮の豊受皇大神は、御饌津神(みけつかみ)とも呼ばれて、御饌というのは神様の食べ物のことですが、つまり、豊受皇大神は内宮の天照皇大神の食事を用意する神=天照皇大神に奉仕する神とされて、天照皇大神より低い位置に置かれてきました。これを不満とした渡会行忠(わたらいゆきただ)・家行ら、外宮の神官たちが、『神道五部書』と呼ばれる書物などを著して、内宮に対抗し、自分たちの地位を高めようとした、その運動に、伊勢神道は始まるものです。
 すなわち、外宮の豊受皇大神を、天地開闢に先立って出現した天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)や国常立神(くにとこたちのかみ)と同じ神として、内宮の祭神である天照皇大神をしのぐ普遍的な神格=絶対神とし、さらに、「万物を養い育てる徳がある」として、食物の神から、農業をはじめ生産全体を司る神に発展させるなど、内宮に対抗して外宮の地位の引き上げを目指しました。こうした運動の中で、仏教ばかりでなく、陰陽道なども取り入れながら、神道独自の理論をつくる努力が始まったのです。
 「仏法の息を屏(かく)し、神祇を再拝し奉れ」などと、仏教排除の立場も打ち出されていますが、それは措くとして、その後の神道を貫く柱としての、「正直(真っ直ぐ)」や「清明(清く明らか)」を尊ぶ倫理観や、「大日本国は神国(神の国)なり」とする神国意識などが、既にここに、現れてきています。ここのところは注目しておきたいですね。

 この流れを汲むのが、鎌倉末期から南北朝期の、後醍醐天皇と親しかった、慈遍や北畠親房です。
 慈遍は比叡山の天台僧ですが、仏より神が勝れていると考えるようになります。なぜ神が勝れているのか、といいますと、神道は根源の純粋性の立場にたち、仏教はその根源から万物を展開して多様の世界、すなわち「迷いの世界」になった、として、神道の「原初の純粋性」に価値を置くのです。そしてその純粋性を守る者として天皇を立てるのです。
 北畠親房は、南北朝分裂の際、南朝側の指導者として転戦し、『神皇正統記』などを著した公卿(上級貴族)として有名ですが、日本を神国とする伊勢神道の理論を、天皇中心を中心に置く政治的イデオロギーと結びつけて、後世にまで大きな影響を与えています。

 純粋性・清明などに価値を置き、天皇制と結びつける、というのは、現在にまで至る神道の特徴ですが、そうした傾向は、この時代から始まっているのですね。 
 「純粋性に価値を置く」ということについては、神道と仏教を比べてみますと、「内容の多様な豊かさ」では神道はとうてい仏教に敵いません。それでもなお優越性を主張しようとするならば、逆に、シンプルさ、簡素さ、純粋性、清明というようなところに価値を求めなければならなくなる。ということを指摘する研究者もいます。

 この、伊勢神道や慈遍による理論化を受けて、神仏関係を逆転させ、「仏教を神道に従属させる」理論化を試みたのが、室町時代、京都、吉田神社の神官・吉田兼倶(かねもと)による「唯一(ゆいいつ)神道」、いわゆる「吉田神道」です。
 伊勢の天照・豊受の両大神が吉田神社に降臨したなどという風聞を自ら立てて神道界に君臨しようとした野心家でしたが、『唯一神道名法要集』という書物を著して、反本地垂迹説を唱え・・・反本地垂迹説というのは、仏が本地で神が垂迹というのが本地垂迹説ですが、それを逆転させて、「神が本地で仏が垂迹」とする考え方でして、吉田兼倶は、神を唯一の本地とし、仏を含む森羅万象をその垂迹として体系づけ、汎神論的世界観を構築しました。
 また、「根葉花実(こんようかじつ)論」というのを展開しまして、「吾が日本は種子を生じ、震旦(中国)は枝葉に現はし、天竺(インド)は花実に開く。故に、仏法は万法の花実たり。儒教は万法の枝葉たり。神道は万法の根本たり。彼の二教(仏教と儒教)は皆是れ神道の分化なり」と主張しています。神道が根であり、儒教はそこから生えた枝葉であり、仏教は枝先の花や実だ、というのですね。ここで明確に、「神道中心・日本中心」の立場を打ち出したわけです。
 こうして仏教の支配から脱した神道理論は、やがて近世にいたって、今度は儒教などと習合しながら多様な発展を遂げることになります。
 
◆ 儒学と国学の神道論

 このように、大きな神社を中心とする、いわば主流の神道は、仏教の影響から脱して独自性を称揚しながら政治権力、とりわけ天皇家・皇族との結びつきを強めようとするのですが、一方、庶民の間では、最初に述べた素朴なカミ信仰=山の神・田の神や、竈の神、道祖神などへの信仰が、脈々と続いていました。庶民には、神道の純粋性・独自性などということはどうでもいい、よいお恵みがあればそれでよいわけですから、仏教でも民間信仰でもなんでも採り入れ、融合させ、「日々の生活を豊かにしてくれる、より霊験あらたかなもの」にしていきます。民俗学的・文化史的にはそちらのほうが面白いのですが、それはまた別の機会に譲ることにして、今日のテーマの「主流派の神道」は、江戸時代に入りますと、大きくは、儒学と結びついた神道論と、国学の中での神道論の、二つの系統に分かれます。

 まず、儒学と結びついた神道。これを「儒家神道」といいますが、その最初は、吉川惟足(これたり)が唱えた「吉川神道」です。吉川惟足は、江戸・日本橋の魚屋の出ですが、五代将軍綱吉から公儀神道方に任ぜられるまでに昇り詰めた人物でして、吉田神道を受け継ぎながら、それをさらに発展させました。吉田神道が唱えた根葉花実論の「神道は万法の根本である」という主張を受け継ぎ、神道を宇宙の根本原理とし、宇宙の根本神である国常立尊(くにとこたちのみこと)などの神々がすべての人間の心の中に内在しているという、「神人合一説」を唱えました。そのうえ、儒教の朱子学の思想を取り入れて、神道を「天下を治める理論」とし、とりわけ、神道を「君臣の道」として捉え、皇室を中心とする君臣関係の重視を訴えるなど、江戸時代以降の神道に新しい流れを生み出し、後の「垂加(すいか)神道」を始めとする尊王思想に大きな影響を与えました。
 吉川惟足に学んだ山崎闇斎(あんさい)が唱えたのが「垂加神道」です。臨済宗の僧侶であった山崎闇斎は、その後、儒学と伊勢神道・吉川神道を学んで垂加神道を開きました。垂加神道は、「天照大神の子孫である天皇が統治する道が神道である」と定義づけ、天皇への信仰を主張し、また、「敬」を人の最も大切な徳とし、敬を全うすれば天地と合一できる「天人唯一の理」を唱えました。
 このような思想ですから、それが、水戸学の尊王論や国粋主義思想に大きな影響を与え、幕末・明治に至る尊王攘夷思想のバックボーンを形成したことは頷けましょう。

 次は、国学の中から現れた神道論です。
 「国学」とは、それまで主流であった儒教や仏教をベースとする学問に対抗して、日本の古典を研究し、儒教や仏教の影響を受ける以前の日本にあった独自の文化・思想や精神世界=これを古道といいますが、それを明らかにしようとした学問です。その中から、「復古神道」と呼ばれる神道思想が出てきました。その代表者は、皆さんもよくご存知の、賀茂真淵や本居宣長、平田篤胤らです。
 まず、賀茂真淵は、『万葉集』などの古典研究を通じて、『国意考』などの著作で「古道」の存在を訴えます。「神道つまり惟神(かんながら)の道こそ、日本古代から伝わる純粋な天地自然の大道であったが、その精神は、後から伝わった仏教と儒教によって混濁させられた。国学者の責務は、古典研究によって神道の純粋さを取り戻すことである」、と主張するのです。
 その薫陶を受けた本居宣長は、当時すでに解読不能に陥っていた『古事記』を研究して大著『古事記伝』を著し、古事記や日本書紀からみいだされた「神の道」を示して、日本固有の神道の復活を目指します。
 平田篤胤は本居宣長の書に啓発され、古代史を明らかにし、「皇道(すめらみことのみち)すなわち天皇が行なう政治の正統性」を天下に主張する一方、死者が赴く幽冥界は大国主命が司る世界だという「大国主命幽冥界主宰神説」を展開しまして、この「大国主命が幽冥界を主宰する神であるとする説」は、篤胤以降、復古神道の基本的な教義となり、近代以降の神道、とりわけ「古神道系」と呼ばれる神道に大きな影響を与えています。

◆ 明治政府の宗教政策

 明治元年の3月、というより、明治に元号が変わるのは9月ですから、まだ慶応4年の3月ですが、この年の年明けとともに始まった明治維新政府は、この月、早々に、「神仏判然令」を出して、神仏分離を促すとともに、翌月には、平安初期、律令制度が崩れるとともに廃止された「神祇官」制度を復活させます。新政府がいかに宗教政策を重要視したかがわかりますね。
 これは、儒学や国学、またそれと結びついた復古神道などが、尊皇攘夷や倒幕運動の思想的基盤となったことを先程申し上げましたが、そうした運動の上に成り立って、「王政復古」「祭政一致」=「天照大神を祖神とする万世一系の天皇による、神武の御代に倣った祭政一致の統治」を理想に掲げた新政府にとっては、必要不可欠のことだったのですね。

 「神仏判然令」そのものは、仏教伝来以来の長い神仏習合の歴史の中で、神だか仏だか分からなくなっているものを、判然とさせ、分離させよう、というもので、具体的には、神社でありながら仏像をご神体にしていたり鰐口・梵鐘など仏具を使用していた神社から、それらを取り除く。多くの神社にあった神宮寺を神社と分離する。八幡大菩薩とか熊野権現・金毘羅大権現のような本地垂迹説に基づく呼び方をやめる。神社を管理したり神社の儀式を執り行たりしていた僧たちを、還俗させたり、神官に変わらせる。などということでした。ところがそれが、仏像や仏具・経典を打ち壊し焼き捨てる、地域によっては寺院じたいを打ち壊し火をかける、「廃仏毀釈」にまで繋がったのですね。地方の神官や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院に管理され、寺院や僧に反感を持っていた民衆がこれに加わったようです。

 一方、明治政府は、神祇官の復活と併せて、伊勢神宮を頂点に置いて、大・中・小の官幣社と別格官幣社、同じく大・中・小の国幣社、その下に府県社、郷社、村社、無格社という、神社の格付けを復活させ、そして、官幣社と国弊社を官社(国家経営の神社=具体的には内務省神社局の管轄)とし、そこに仕える神職を神官という官吏(国家公務員)にしました。この制度はその後、幾度も複雑に変わるのですが、先の神仏分離と併せて、明治政府が図ったのは、「神道の国教化」=神道を国の宗教にすることだったのです。

 ところが、西欧諸国との交渉が深まる中で、キリスト教の解禁や信教の自由を求める外圧に抗し難くなり、また、浄土真宗を中心とする国内の仏教勢力からの内圧もあって、大日本帝国憲法では、限定つきながら信教の自由を認めることになって、「神道国教化」は断念せざるを得なくなった。そこで考えたのが、「神道は宗教ではない」、とすることでした。
 少し細かく言いますと、神官が奉仕する官営の神社(官幣社と国弊社)で行なわれる行事は、「宗教」ではない、それは「宗教を超えたもの」である。とすることでした。官営の神社で行なわれる皇室の儀礼や国家の祭祀は「宗教ではなく、宗教を超えたものである」から、日本国民たるものは、己の宗旨に関係なく、すべからく参詣し、崇敬しなさい、と、なったのですね。
 「神道国教化」に匹敵する、あるいはそれ以上の、神道への国民の動員ですね。これを「国家神道」と呼んでいます。

 ちょっと付け加えますと、明治政府は神官が葬式(神葬祭)を行なうことを禁止しました。葬儀をしない、これを神道が宗教ではないことの根拠にしたのです。今、「結婚式は神式で、葬式は仏式で、日本人の宗教的いい加減さ」、なんて言いますが、葬式が仏式に偏った理由の一つはこれですね。 それから、今、神社での拝礼の仕方は、「二礼二拍手一礼が作法」、なんて言われていますが、本来は二拍手とは決まっていなくて、神社によって三拍手、四拍手、五拍手、八拍手もあったのですが、それを全国どこの神社でも同じに統一というのも、この「国家神道」化の中で決まっていったことなのです。

 一方、こうした国家と結びついた神道(国家神道)と別に、帝国憲法の「信教の自由」の次元での宗教は、神道、仏教、キリスト教に大別されまして、宗教として活動を許された神道があります。これは、幕末期に起こり、明治政府に公認された、神道系の新宗教教団のことでして、「教派神道」と呼ばれ、当初14団体ありましたが、途中で1団体が離脱し、13団体で定着しました。ですから「神道十三派」とも呼ばれます。
 これらは、復古神道系、富士信仰や御嶽信仰の山岳信仰系、禊系、儒教系、教祖の体験と教えに基づく黒住教・天理教・金光教などの純教祖系、に分類されます。現在は天理教が抜けて大本が加盟しています。大本は一般には大本教といいますが、教をつけない大本が正式の名前ですね。

 ということで、明治期から終戦までは、国家神道と教派神道の二本立てできていましたが、当然ながら、国家神道が主流として尊重され、教派神道は傍流に置かれてきました。ときには弾圧されることもありました。
 国家神道の流れの中で、天皇は現人神(あらひとがみ=人の姿をして現れた神)となり、それが統治する日本は神国(神の国)であり、中国や東南アジアへの侵略は神兵(神の兵)による聖戦(聖なる戦い)であり、そして国民は日々、神社に参詣し、植民地にも、明治天皇と天照大神を祭神とした朝鮮神宮、台湾神宮、南洋神社などが建てられて、植民地の人々に参拝を強制したのです。
 
◆ 現在の神道界

 さて、1945年、敗戦の年に、GHQは、国家と結びついた神道の廃止と信教の自由の実現を命ずる指令を出しました。いわゆる「神道指令」です。これが、戦後の宗教行政を大きく変えることになりました。神社はそれぞれが宗教法人となり、またその多くは連合して「神社本庁」という組織をつくっています。神社本庁についてちょっと触れますと、「神社本庁」などというとなにやら官庁のようですが、宗教法人法にもとづく包括宗教法人の一つです。包括宗教法人の一つではあるのですが、まあ、気分は旧内務省の外局・神祇院の後継的存在のようでして、伊勢神宮を本宗として、約8万社ある日本の神社のうち7万9千社以上が加盟していまして、包括下にある神社の管理・指導や、神職の養成、神道の宣揚や広報活動に加え、政治運動として、元号法や国旗国歌法の制定などを働きかけたほか、皇室の男系継承の維持、首相の靖国神社公式参拝の推進、などを行ない、また、神道政治連盟や日本会議といった団体を通じて、自民党を中心とした一部の保守政治家に強い影響力を持っています。現在のターゲットは憲法改定ですね。
 他方、教派神道系とされる天理教・金光教・大本などの新宗教も、伝統的な神々の信仰を受け継いで、活発な活動を展開しています。

 神社は、今、明治以来数十年の特殊な時代が終わった後、伝統的な信仰の中心として人々に親しまれ、結婚・受験・交通安全などの祈願を行なう場になっていますが、教説や教団組織の乏しいものが多く、それはそれでいい、神道は本来はそういうものですから、それはそれでいいと思うのですが、祭りを支えていた地域社会が近代化の中で解体していく中で、新たな対応が模索されているというところがありますね。それから他方、神道的な儀礼が、宗教行為に属するのか、民俗的な習俗であるのかを巡っては、信教の自由や政教分離、また、かつて神道が国家との関わりで果たした役割の記憶などもあって、国民の間から絶えず問題が提起され、裁判で係争中のものも少なくありませんが、これも、克服されなければならない課題ですね。

 さて、最初に言いましたように、「何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)きもの」が神道の神でして、なんでもありですから、複雑混沌極まりないのですが、一応、次のような形に整理すると理解しやすいかと思いますので、最後にそれをお示ししておきたいと思います。

 まず一つは皇室神道(宮中祭祀)。これは皇居内の宮中三殿を中心に行われる皇室の神道です。
 次が、神社神道。これは神社を中心に、氏子・崇敬者などによる組織によっておこなわれる祭り(祭祀儀礼)を中心とする信仰形態です。
 次に、民俗神道。民間神道ともいいまして、古来から民間でおこなわれてきた信仰行事でして、山の神・田の神・竈神・道祖神などを祀り、仏教や道教などとも習合している場合が多いです。修験道などもこの系列に入ります。
 私たち庶民に馴染みがあるのは、先の神社神道と、この民族神道ですね。
 教派神道(神道十三派)。これは教祖・開祖の宗教的体験にもとづく宗教です。結束の固い教団をつくります。
 古神道あるいは原始神道。江戸時代の国学によって、儒教や仏教からの影響を受ける前の神道が研究され、復古神道・古道・皇学・本教などと称されました。国学色を排除して、純神道・原始神道という場合もあります。
 国家神道。これは先程お話した、明治維新から第二次世界大戦終結まで、国民の統合と動員を目的に、国家の支援のもとに行われた神道を指します。

 以上の六つですが、ちょっと特殊なのが靖国神社ですね。靖国神社は、幕末維新の志士や、戊辰戦争・西南戦争の政府軍側戦死者を祀った東京招魂社(ご存知のことと思いますが、同じ戊辰戦争や西南戦争での戦死者でも、政府軍と戦った側の戦死者は祀られていません。同じ国民でも賊軍側は駄目です、官軍側のみ)、で、この招魂社を、明治天皇の命名で「靖国神社」と改め、その後の日清戦争・日露戦争から、日中戦争・太平洋戦争までの軍人・軍属の戦死者を祀った神社でして、まあ、国家神道の中核といってもいい神社ですが、A級戦犯を合祀していることや、戦前からの皇国史観を今なお強硬に主張し続けていることなどから、ときにいろいろ議論が起こりますね。
 靖国神社には何人ぐらいが祀られていると思いますか? 国のために殉じた「英霊」として246万数千人の戦死者が祀られているのですが、これはとくに、その内の213万を超える太平洋戦争での戦死者に顕著だと思いますが、その大半は、英雄的に戦ってというより、飢えや病気で、悲惨な状況で亡くなっているのですね。いずれにせよ多くの若者が、異郷の地で、思いを残しながら、望まない死を強制されたわけです。そう考えますと、そういう非業の死を遂げた若者たちの霊が祀られている靖国神社って、いったい何だろう、と思いますね。むしろ反戦の砦であって然るべきではないか。

 さて、今日はこのあと、お二人の方からそれぞれ伊勢神宮と出雲大社のお話をしていただくことにしていますが、なぜこの二つの神社なのか、ということを少しご説明しておきたいと思います。
 『古事記』や『日本書紀』にはじまる古代日本の神々は、大きく二つに分けられます。天津神と国津神です。「津」は「の」という意味ですね。「神祇」といいますが、「神」は天津神、「祇」は国津神です。天津神というのは、天の神、すなわち高天原の神と、高天原から降りてきた(天孫降臨した)神と、その子孫で、いわば天皇勢力ですが、その代表は天照皇大神ですね。それを祀ったのが伊勢神宮です。国津神というのは、地の神で、天孫降臨以前から、この地域に土着して、国土を治めていた神で、その代表が大国主命。大国主命を祀るのが出雲大社です。いわば、天から下ってきたとされる侵入勢力と、地でそれを迎え撃った在地勢力・土着勢力ですね、という対照的な性格を持つ二つの神社です。ついでに言えば、神宮(じんぐう かみのみや)と呼んでいいのは本当は伊勢神宮だけ。大社(たいしゃ おおやしろ)と呼んでいいのは本当は出雲大社だけ、といわれるほど、この二つは対照的に日本を代表する神なのですね。
 それからまた、こんなこともありました。明治時代、日比谷に、国家神道のセンターともいうべき、「神道事務局神殿」というのを設けるに際して、その祭神を巡って神道界に激しい論争が起こりました。伊勢神宮派が多い事務局は、天地開闢に際して現われた造化三神(天之御中主神 あめのみなかぬしのかみ、高御産巣日神 たかみむすびのかみ、神産巣日神 かみむすびのかみ)と天照皇大神の四柱を祀ることとしたのですが、それに対して出雲派は、大国主大神を加えた五柱にすべきだと主張しました。収拾がつかなくなって明治天皇の勅裁を求めましたところ、明治天皇いわく、大国主はいらん。ということで、造化三神と天照皇大神の四柱だけを祀ることに決まって、出雲派が敗北した、というんですね。出雲派の敗北も含めて意味深長なライバル関係ですが、そんなことも踏まえて、伊勢神宮と出雲大社の立場にたってのお二方のお話を聞こうという趣向です。

 (元桜美林大学教授・仏教に親しむ会代表・オルタ編集委員)

※この稿は2011年10月に創設され毎月例会を開催している「仏教に親しむ会」の第60回(2016.9.13)での講演を文章に起こしたものです。


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