【コラム】大原雄の『流儀』
私論・マイ「メディア史」
★ アメリカ・トランプ大統領は(5月)1日、公共ラジオNPR と公共テレビPBS に対する政府からの資金を打ち切るための大統領令に署名した。「トランプ氏は自らに批判的なメディアを『偏向報道』だと敵視し、圧力を強めている」という。
以上、朝日新聞5月3日付朝刊国際面記事参照。
★ アメリカ・トランプ政権、メディアへの介入懸念!
2025年4月25日ホワイトハウス記者会見。窓口:レビット大統領報道官
「トランプ大統領を取材する記者団(代表取材)のメンバーについて、『今後はホワイトハウスの報道チームが決める』と述べ、政権が選別する方針を表明した」。
報道各社で構成するホワイトハウス記者会は、「報道機関の独立性を損なうものだ」と抗議した。
大統領側:新興メディアなどの取材機会を増やすためだ、、、
記者会側:政権に批判的なメディアを一方的に排除する可能性がある、、、
(以上、読売新聞記事など参照)
このところ、このコラムでは、戦争や核兵器、アメリカ・トランプ、ロシアのプーチンなど、なんだか変でっせ?! この二人大統領たちなどを書いてきた。長引く感染症のコロナ禍も書いた。コロナ禍で舞台から遠ざかった趣味の映画、演劇、歌舞伎なども私の思うがままに、書き溜めて来た。だから、私なりの「流儀」なのであって自由奔放に書きまっせ、という宣言が込められている。その流れに沿って、書いてきている。
私は、中学生時代に将来は、新聞記者になりたいと思うようになった。
大学卒業後、実際にメディアに入社し、組織ジャーナリストの一員になり、ニュースを追いかける仕事を続けてきた。そして、定年退職後の今も、ボランティアで、フリーのジャーナリストとして、メールマガジンにコラムを連載している。近代の日本文学を背負う日本ペンクラブの活動にも加わってきた。メディアとは、半世紀以上の付き合いである。
今回から、暫くは、私がなぜ、マスコミ、マスメディア、ジャーナリズムに職場を求めようとして、生きて来たかを一度スケッチでも良いから書いてみたいと思うようになった。私は、若い頃から自分の人生は、70歳くらいで終わるかなと思っていて、親しい人には、口に出して、そう言って来たことがあるので、いつかはそれを書いてみたい、と思っている。
題して、
★ 私論・マイ「メディア史」
と、してみた。
メールマガジン「オルタ広場」連載コラム「大原雄の『流儀』」では、今回も残念ながら、お馴染みの「訂正して、おわびします」コーナーに、触れなければならない。朝日新聞の紙面から、このコーナーが、この1ヶ月くらい姿を消していたような気がするが、また、でてきてしまった。3月の紙面は、お詫びと無関係だったのか?
久しぶりに顔を覗かせて来たのは、以下の記事がそれである。勝手な引用なので最小の引用ですませたい、と思うが、指摘は続ける。いつもの調子で書くので失礼を許して欲しい。
▼(4月)18日付1面の天声人語で、1995年に橋本龍太郎通産相がミッキー・カンター米通商代表との交渉のため「米国へ飛んだ」とあるのは「スイスへ飛んだ」の誤りでした」。
ええっ!なにこれ。「天声人語」といえば、朝日新聞の大看板となるコラムではないか?
なぜ、こういうケアレスミスが朝日新聞で起こるのか?
以前は、記事のミスについては、この「訂正」コーナーを担当しているデスクあたりのベテラン記者だろうと思われる責任者が、「記者が、資料を読み間違えました」とか、説明を聞き間違えました」などと、言い訳を載せていたが、最近は、堂々たるものですね。言い訳はしない。
多分、当時の新聞記事も資料も参照せずに、「天声人語」を書く大新聞のトップクラスの大記者の筆が滑ったのであろうか。それにしても、単純な注意散漫なのか、どうか。大臣の外交的な交渉の記事で、その行き先を間違えるなんて、考られない。記事を書いたコラムニストが間違えたとしても、校閲など記事や表現をチェックするラインに多数いるであろうプロたちは、何をしていたのだろうか? SNS登場以降、マスメディアの世界では、デジタル化が激しい勢いで変化しているだろうことは、容易に推測される。なにかが崩れ落ち、なにかが潰されている、のではないか。
朝日新聞4月17日付朝刊「社会・総合面」。以下、訂正記事。
▼16日付朝刊社会総合面「よつ葉乳業のバター自主回収の記事で、対象製品のうち「セブンーイレブン・ジャパン」のプライベートブランドとあるのは「セブン&アイ・ホールディングス」の誤りでした。
これでは、読者の生命と生活に影響するかもしれない、大事なニュースで、企業名を確認しないのは、問題だ。これではミスリードをしかねないかもしれない。
ここで、取り上げたいのは、実は次の記事なのである。
朝日新聞4月15日付朝刊「社会・総合面」に以下のような記事が載っていた。
俎上に載っているのは、「◯◯◯◯のメディア私評」。◯◯は、人名。元共同通信の記者で、通信社を退社した後、現在はニューヨーク在住ジャーナリストという肩書きで、マスメディア批評などを書いている女性記者だ。フリーなので、性差別の問題などもフリーハンドで健筆を振るっておられ、それを売りにしているようだ。今回の素材は、「AP通信に取材制限」というタイトルだ。アメリカ・トランプ大統領とホワイトハウスの記者陣との報道の自由をめぐる論争を取り上げている。副見出しは、「米政権の仕返し 『知る権利』蹂躙」と、オーソドックスである。
本記自体は読者のほとんどが 目を通しているであろう既報の記事だ。初発の記事同様この批評記事は、報道の自由や国民の知る権利を蹂躙したアメリカ・トランプ政権の横暴ぶりを追及する形で取り上げられていた。報道の自由は、国民の知る権利を基盤とした憲法原理を説明するもので、原理としては、よほどの独裁者か、権威主義者、中世紀の絶対君主でもない限りこれを否定・反論する政治家なんて、表立ってはいないだろう。独裁者だって、民主主義を装う。
その良識的な記事が「訂正して、おわびします」で、取り上げられたのだ。誤報か? まさか、朝日新聞が、トランプ派に乗り換えたのか。そんなことはないだろうがーー。
女性記者は、ミスを指摘されているではないか。ならば、以下、記事を書きとろう。
彼女は、アメリカで最も取りにくい記者証として「ホワイトハウス記者会(WHCA、無党派の独立団体、とは何かーー引用者注)」記者会、記者協会という原文として「ホワイトハウス コレスポンデンツ アソシエーション」、ともいう名称を挙げている。ほかでは、ホワイトハウス記者協会とも翻訳している。会でも協会でも変わらないのであろう。
変わらないとすれば、私の目には、記者会は、きちっとした組織では無く、いわゆる「記者クラブ」そのものに近いものというイメージにグーンと近くなるのでは、ないか。継続的に、持続的に取材をするために記者たちの側が立ち上げた「任意組織」。私が長年職場としていた記者クラブである。ホワイトハウスにも、これと同じ体質の任意組織があるならば、トランプは、記者クラブにこびりついた垢をいち早く見抜いていたのだろう。だから、記者クラブに対抗心、闘争心を燃やし、既成大メディアを敵に回しても、利害の一致が多い(保守派、右翼的、などの論調らしいー引用者注)」新興メディアと手を組んだ方が得するチャンスが大きいと判断したのではないか。
マスメディア、ノンセクトのフリージャーナリストたちだと、説明しているのだろうから、これは「誤りでした」と、訂正子は指摘する。
「ホワイトハウス内の取材に必要な記者証には、ホワイトハウスが発行しています」と、長めに掲載する。二段記事で、2行分見出し、6行の訂正記事である。
重箱の隅をつつくようなことをやっているようで、嫌になるが、同じ土俵の上なのでお許し願いたい。もう一つ、WHCA、先にホワイトハウス「記者会」とされていた固有名詞が、ここではホワイトハウス「記者協会」となっている。こういう場合の翻訳は、統一されていないか? それとも両者とも、通称として、通用してしまっているか。
★ ・トランプ大統領 対 (の)プーチン大統領
さて、ここは「アメリカ(省略)・トランプ」大統領と「ロシア(の)プーチン」大統領、
と、いう具合に、息を吐きながら発音して戴きたい。この二人大統領の処遇は、メディアの、思い込み路線の落とし物か? どうか、私には解りあえる気がするからだ。この二人を
早くなんとかして欲しい、と思っている人は、アメリカでは、半分半分ではないのかな。どのくらいいるのか。一方で、人類は、こういう政治家に、なぜ、強く惹かれるのか。
この文章の流れを追ってここまで読んできて、私はメディアの原理からすれば、これはニュースとして新しさを感じなかった、ということだ。つまり、意味を伝えることより、苦手な発音は、飛び越えてしまおうという話法なのであろうか。
先輩の女性記者の記事は、冒頭、次のような文章で始まっている。その一行(ぎょう)に、私の脳の中にあるメディア意識が、ピピピピ、っと反応。つまり、私の記者根性に感じたのである。その一行とは、こうであった。
★ 「これ、持っていた方がいいよ」。
事件現場が、ニューヨークの、彼女の自宅に近い、らしい。薬局のショーウィンドーのガラスが破られて処方薬が盗まれたという、奇妙な事件だ。処方薬というものは、医師の診察結果に基づいて患者個人の症状に合わせて処方される。薬剤師も、厳しい資格が必要だろう。極めて個人情報的な薬であろうし、仕事であろう。
病名との整合性もチェックせずに強奪した薬を持ち逃げして連中にメリットは何になるのだろうか。容疑者たちの中に薬剤師でも混じっていたのだろうか。お仲間が、処方して、分けておいたか。
そんな馬鹿なことはあるまい。
アメリカの繁華街ニューヨークで起きた処方薬の強奪事件。続報ゆえ、犯行が行われた時間など書いてない。
さらに、既製薬なら、販売薬として、目立つ箱入りの薬と言っても、違和感はないだろうし、ショーウインドーの中に山のように積み上げられて、いても不思議じゃないだろう。しかし、飾られている薬が「処方薬」というのが、何とも違和感を誘い出す。私独特の奇妙な感性のなせる業(わざ)でしょうかね。私は、国内向けの記事を書くことが多い社会部系で育った記者なのでアメリカやそのほかの外国も多数の各国へ行ったわけではない。ヨーロッパ、アジア、アメリカなどの各国に行ったくらいだし、幸い外国で病気になり医療機関で医師や看護師、薬剤師などの世話にならずに帰国しているので、処方薬が、日本のように袋に入れて出される、のかどうかも知らない。
この文章も、やっと、「これ」に手が届くところまで来た。と言っても、「これ」は、クスリ(ヤク、薬)ではありませんよ。
ところで、「これ」と、現場で彼女に声をかけたのは、ニューヨークを取材拠点とするカメラマンらしい。記事の筆者は、フォトグラファー(カメラマン)という写真記者のことを、そう呼んでいるのだろう。事件発生の第一報を警察無線などで傍受し、奇妙な事件になるのではないか、といち早くオフィス(取材拠点、事務所・オフィス)を飛び出してきたのではないのか。慌てていたカメラマンは、自分も忘れそうになったので、現場で出会った知り合いの同業者の誰かにコレ(前述の「これ」のこと)を貸してやれば良いだろうと、そのまま余分にコレを持って出てきたのではないだろうか。その問題のコレとは、取材現場を黄色いテープで区分する警察などの取材規制(同時に、警察の捜査区域保護)のための、聖域(サンクチュアリ)宣言である。メディアも立ち入り禁止という訳だ。
取材現場の区割り形成に当たって、警察とメディアは、最後は共通の利害に基づく妥協点、いや、妥協線か、それを認め合う。そして、一般の市民を取材規制区画から追い出すことになる。私も長らく、報道現場で社会部の記者を10数年やった。警察取材は長くは無かった。「遊軍系」と呼ばれるプロジェクト企画など独自テーマの取材を得意とした。その後、メディアの報道セクションの区画内にデスクを与えられて、ほかの、あるいは若手の記者が書いた原稿に手を入れる、「デスク」(取材指揮役、取材まとめ役など)の場合は、職責を表す名称となるような仕事をを10年ほど勤めた。
このニューヨーク在住の女性記者は、きっと現役のジャーナリストとしては、デスク昇進を断り、現場に強い女性記者という看板を掲げて第一線で活躍してきたのではないのか。
第一線で取材する彼女が有益に活用していたのは、なにか?
それこそが、「これ」であったのではないか?
彼女は、現場に行くと、さっそく、カード状のもの(パスか?)取り出して、例えば、一般市民は締め出すが、メディアの記者やカメラマン(写真記者)には、例えば、融通(通行黙認)を図るかもしれない。見て見ぬふりをしてくれるかもしれない。いや、マスメディア嫌いの警察官なら、職務により、キャラクター的にも職務原理に忠実に対処するタイプかもしれない。ゴリゴリ、と誰より厳しく対処(規制)するかもしれない。警察官も、いろいろいますからね。
★「記者証」って、なあに?
私の体験で話すと、記者たちは給料をくれる所属する組織の一員だと証明する身分証明証と名刺は持っていたが、踏み込んだ身元を示す記者証などというものは、持ったことがなかった。名刺も、組織から給付されたのは、初任地だったかどうか、定かではないが、入社後、何年か経ってからではなかったか? 名刺は、メディアの都合で記者などの身体が使うものであって、会社が使うものではない、という意識が優先された様に思う。そういう時代でもあった。
大きなイベントと取材で、イベント取材側の要請で写真付きで登録したものを取材先から配布されたのは、現在に続く主催者側の事情によるものだった、と思う。記者証、取材証とか、取材パスポート、報道パス、プレスパスなどと呼んでいたが、相手側の分類化に寄与こそすれ、私たち取材者には、あまり役立ったようには思われなかった。
女性記者が、現場で受け取った「これ」とは、これのことだろうと思われる。
イベントなら、開催当事者側から発行される取材陣の一員を証明するカードのようなものである。
彼女が取り出したのは、いわゆる記者証である。これは、NYPDというもので、ニューヨーク市警が許可した記者証だったという。ニューヨーク(シティ)ポリス デパートメント。ニューヨーク市警察部門、とでも訳せるか。市民のために法の執行や捜査を行う。
彼女に言わせるとその時、現場では、皆が同じ記者証を持っていたか、首から付けた紐で記者証をぶら下げるようにして持っていたという。
「彼女は、説明をする。記者証があれば警察が証拠を集めた後、立ち入り禁止テープの中に入るチャンスもある」(前掲同紙参照)という。ならば、この記者証って、なにかにつけて便利なものなのだろうな。
当時の記憶が正しければ、官庁の記者証は、その官庁での取材体験が証明されないと発行されなかった、と彼女は言う。当時のアメリカでは、政府や公的な機関に自由に出入りをして、しかるべきポストの人に取材できるチャンスが与えられる記者証は、記者個人の報道実績に基づいている、と言うのだ。
権力に抑圧されることなく報道ができる権利は、アメリカも日本も、憲法で保障された国民の権利として保障され、国民の知る権利を源泉として、人類史を守ってきたのである。・トランプのしでかした100間は、そう言う日々だったのではないのか。
★ 「訂正して、 おわびします」
もう、1年になるかな。半年くらいかな。朝日新聞の社会・総合面の片隅に毎月2回ほど不定期ながら掲載される記事がある。
新聞朝刊は、朝日が上らない真っ暗な内に、つまり夜のうちに読者の元に届けられる。誌面は、朝日新聞の場合、社会・総合面。たまたま見つけて、読み続けているコーナーである。それが、朝日新聞の「訂正と詫び」というコーナーだ。私流に勝手なことを書くが、反朝日派の読者ではない。子どもの頃は、父親が読むのは、読売新聞だった。なぜ、私の父親は読売新聞を読んでいたのだろうか。毎月の集金の際に子どもが喜ぶようなお土産を持ってくるとか。子どもにもニコニコしていて、愛想が良いとか、そんな理由で、毎月のように新聞を取り替えていたように思う。
まあ、そんな理由で新聞をコロコロ変える。そんな親父だった。こちらが、連載記事を楽しみにしていても、そういうことには発想も及ばない。
★ トランプとメディア
・トランプが、良いのか、の)プーチンが、良いのか?
この問題は、暫く続く。
★私の夢だったこと
このコラムでも時々書いているトランプやプーチン、習近平(敬称略)など、世界の政治的な指導者。メディアの情報を元に書いていると、私は鬱陶しくなる。
ロシアの、いわば宰相であるプーチンとは、存在圏を異にするパラレルワールドの生物とでも相対しているような、届きそうで届かない生物と対抗しているような奇妙な感じに捉われてしまう。姿は見えるが、スタンスが違う、違和感に包まれているように感じられる。
アメリカの、トランプは、ガラス越しに人間としては認知できるが、あるいは、テンポが私とはずれているロボットのようにも見える。私とは存在感が違う、というか、価値観が対極的に違うように感じてしまう。トランプのおもちゃのように関税が弄ばれ、世界の経済が右往左往している。トランプのカードが、関税ゲームをしているようだ。やばいぞ!
中国の習近平は、まだ、私にも理解が可能な気になれる人類と言えるような気がする。同じ人類だが、一緒に暮らせるかというと暮らせないだろうなと思わせる暗闇を抱えている人ではないか、という気がする。
なぜ、このようなことを書いているかというと、このコラム「大原雄の『流儀』」では、ここ暫くは、私の人生の航跡を現代の社会状況の中で振り返ってみようと思ったからである。
題して、「私の夢だったこと」。
★ 夢と空蝉
私は、現在、78歳の誕生日を超えて4ヶ月も生き続けている、ことになるという。自分でも信じられない。他人に確かめないと信じられない。来年の1月には、79歳になる。さらに1年経てば80歳、つまり、「傘寿(さんじゅ)だというから、よけいに信じられない。
私は、中国の詩人たちが好きである。例えば、中国の唐時代。西暦で言えば、◯年から◯年の時期である。特に、杜甫。中国の官僚機構では、出世しなかった役人である。人が良く、酒好きで、執務外の時間は、飲んだくれていたらしい。ときどき、酔いから覚めたように鋭い詩を書いた。
例えば、
漢詩「曲江(きょくこう)」。曲がりくねった大河の地形を利用して、池を作り、名園を創り上げた。その一行。七言◯句。
酒債尋常行処有。
(訳)
酒の借金なんて、あって当たり前。俺なんざ、役人人生で転勤続き。あちこちの任地には
借金ばかり残っている。
あまり、パッとしない。
次の一行のお陰で、急に燦々と輝き出すのが、この漢詩の凄いところ。中国の懐の深さだ
燦々と耀く。習近平の時代になっても、習近平のスタートラインのスタンスが、プーチンやトランプよりも優遇されていると私が思うポイント。
人生七十古来希(稀)。
(訳)
人間の寿命は短い。七十を生きるなんざ。人間ワザじゃないやね。
皆、生きちゃいないよう。
七十過ぎても、高齢、孤立、独居!
★ ラジオの時代
小中学校の時代に遡る。
小学生の頃は、まだ、各家庭にはテレビは無かった。家で、ラジオで、大相撲中継を聴くのが、楽しみだった。母の友だちの弟が、福島県出身の信夫山で家族で応援していた。信夫山は、双差しが得意で双差しになると強かった。関脇まで上がった。「りゃんこの信夫」という渾名。リャンコは、「双差し」という意味だ。我が家は、りゃんこが、家族統合のシンボルになった。そう言えば、今も毎朝NHKで放送しているラジオ体操は、昭和天皇即位式記念で始まったという。ラジオは、国民統合のメディアとして使われた。
★ テレビの時代
世は、プロレスの試合で、フィーバー。フェイクなショーだったが、テレビの持つ中継という利点を日本テレビがテレビ局経営に活用して、生中継した。東京・新橋駅前の街頭テレビや家庭のテレビ画面に人々は一喜一憂した。なかには、脳の血管に無理がかかり、脳卒中などを引き起こし亡くなった人が出たりした。テレビメディアが、今の、SNS並にフィーバーした時代だった。さらに、私個人としては、当時、流行ったテレビドラマ「地方記者」「事件記者」などを観て将来は報道の記者になりたいという夢を持ち、都内の公立中学校、旧制ナンバースクールから生まれ変わった新制都立高校に入学・卒業した。当時、学校関係者は、この高校を新しい校名ではなく旧制で呼んでいた。「府立九中」。先生たちも、予備校や、大学の講師をしていた人気者先生もいた。私が親しんだ先生は、日本史の中世の史観を変えた網野善彦、宮中歌会初めの詠み人の坊城俊民、辞職覚悟でモスクワ留学した二辺文彦、漢詩の藤塚◯先生など。
小学生時代は、勉強は学校でするものであった。成績は、小学校に入学した頃から良かったので、学校で勉強していれば、親は何も言わなかった。友だちが塾通いを始めたので、母が近所に下宿していた大学生の部屋へ通わせた。中学3年生に進級する時期だった。その頃、私は民放のテレビドラマで「地方記者」、NHKのドラマで「事件記者」を見て、新聞社の社会部記者か、テレビ局の報道記者になりたいと気付いた。テレビは、我が家を始め、近隣の家々にも進出してきた。国民は社会全体で共通の生活時間を送るようになった。家族は共通の記憶を持つようになり、世代を超えた会話が浸透し、家族間のコミュニケーションが拡充した。テレビは、家庭内を文化的に統合した。
★ 早稲田大学へ
ジャーナリストの卒業生が多い早稲田大学か東京大学の現役合格を目指していた。早稲田大学では、第一政経学部政治学科に現役合格したので、早稲田に進学することにした。藤原保信専任講師(後に、教授)のゼミ1期生として、ヨーロッパの政治思想を研究した。学部卒業時、学業に目覚めた(?)ことと就職試験を受けた新聞社の「内定」の条件が希望通りにならなかったので、大阪本社の役員面接で意向が合わず、物別れとした。
★ 大学院進学
学部の残り半年間を学問に燃えた挙句、当時では珍しい、大学院に進み、再度チャレンジすることにした。東京都立大学の大学院(社会科学研究科政治学専攻)では、合格一人枠の試験を通過した。大学院では、政治学で、升味準之輔教授、日本現代政治史で、伊藤隆助教授の指導を受けて修士課程取得を経てNHKの取材職(記者)内定となる。
十五の夢のゴールに滑り込み、1971年、記者見習いとなり、初任地として、大阪中央放送局報道部に赴任した。
次回以降は、前・記者時代とも言うべき、青春の物語から私論を書き進めて行きたい。
(続く)
ジャーナリスト
(2025.5.20)
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