【コラム】大原雄の『流儀』

私論・マイ「メディア史」(2)

大原 雄

(承前)
★ ★ 60年代〜記者ものドラマの人気〜
  
 日本テレビが新聞記者ものの連続テレビドラマ「地方記者」、「続 地方記者」で、視聴率を上げたことがある。1962年に放送された。主演は、小山田宗徳という。歴史時代小説に出てくるような、小藩の家臣のような、古めかしい名前で印象に残っていた。小山田宗徳は俳優座系統の手堅い演技で、主婦層にも勤労者層にも受けた。私の印象では、地味な脇役という感じだったように思う。
 
 新聞記者ものドラマと言っても、「地方記者」というドラマは、華々しい大都会で、社旗を立てた黒塗りのハイヤーに乗って政治家を追いかける政治記者や同じようにハイヤーに乗って大企業の経営者や財界人を追いかける経済記者でもない。
 
 いや、私が入ったのは、新聞社ではなく、テレビ局、それも総合的に報道する、NHKであったが、その後の「ココロ変わり」は、後述することにして、話は戻る。
 
 NHK東京報道局の社会部記者も、同じ報道局の政治記者や経済記者とは、感じは違っても、やはり颯爽としていた。警視庁や所轄の警察署などをチャーターしたハイヤー(通称、「まわり」と、呼んでいた。「チャーター」とも呼んだ。サツ回り、夜回りなどで、車を使用するからだろう)の助手席に乗って取材して回る華々しい社会部の記者もいた。警察担当でも、警視庁担当は、花形であり、事件記者と呼ばれた。徹夜で取材することもある記者にとって、暇を見て身体を休めるコツを見つけることは大事な健康法だと思いますね。
 そういう意味では、まわり(ハイヤー)の助手席は、貴重な臨時ベッドであったのだ。
 
 所轄署まわりの若い記者が、社旗をつけた「まわり」(「局車」と呼ばれるNHK の車か、この場合は、運転手担当は、NHK の職員。運転手も記者も、職員同士。先輩と後輩の関係。あるいはチャーター契約のハイヤー会社の社員)に乗って、後ろ座席に、ふんぞり返っていたのでは、記者修業上も、良くないということで、当時は必ず記者も助手席に座っていたものだ。
 
 さて、話を当時のテレビドラマに戻そう。同じ頃、NHKでは、そのものずばりの警視庁記者クラブを舞台にした「事件記者」という連続ドラマが人気を呼んでいた。1958年から1966年まで放送。警察などを舞台にしたスクープ取材合戦。事件事故を追って繰り広げる記者たちの人間模様。一般の市民には、新聞記者など、珍しいと思われたのではないか。
 
 一方、日本テレビは、地方の市役所や町役場の行政担当者を始め、地元の商店街や農家、酪農家、漁港で働く人たちの生活を取材する、いわゆる「地方記者」ものをぶつけてきて、評判になっていた。自然が豊か、あるいは、風光明媚な地方の名所、名産品、人情。事件記者とは違う情報を追う記者ものが当たったのである。
 
 そういう記者ものの人情ドラマにコロリといかれてしまったのが、15歳の私らしいのだ。1962年のことであった。私は、1947年生まれなので、この時、中学3年生。前号の「オルタ広場」(第85号)でも触れたように日米安保条約改定反対デモや国会周辺の騒がしさも、騒がしい世相として、肌を通じて感じるものはあっても、政治の政策論争の意味なぞ判らずに、迫り来る、いわゆる「60年安保」(1960年の安保条約改定問題)直後という社会状況。政治状況の変化の兆しに不気味なものの持つ緊迫感に恐れ慄いていたことぐらいが記憶に残っているだけだ。
 
★ 6・3付朝日新聞朝刊一面の記事。
 
 いつものような、「訂正して、おわびします」ではない。替わりにあったのは、「本社 土曜夕刊を8月から休止 」 という、極小の見出しの奇妙な記事であった。
 
 以下、その記事。この記事は、新聞社名を明記した社告であり、21面に本記を掲載している。というわけだ。
 
 「朝日新聞社は8月から、東京・大阪本社で発行している土曜日の夕刊を休止する。
 月曜〜金曜日の夕刊は引き続き発行する。」
 
 というもので、人手不足の深刻化などをおもな理由としている。
 しかし、朝日新聞を始め、大手各紙は、いずれも紙面縮小、記事の変質化をきたしているように見える。デジタル化がインターネット化を加速する。オールドメディアは、衰弱へ追い込まれる。
 
 例えば、朝日新聞の場合、土曜日の特集記事は平日の夕刊に紛れ込まされる。論説委員による大型論考や言わば「横綱・三役級」の花形か記者たちであるコラムリストは、音楽企画、新語や流行語の背景に迫るということで、 舞台裏に回されるのか。いずれにせよ。
 紙面が縮小・省力化(手抜き)されてくることには間違いなさそうだ。
 
 輝けるオールドメディアの雄・新聞紙(し)は、こうして、詰まらない新聞紙(かみ)にでも、化けるのか。いや、テレビだって、変えられてしまうのか?
 
 末尾に一言。置き土産。
 「購読料は据え置きとさせていただきます」。
 
★ 朝日の予兆?
 
 最近のことだった、と思うが、朝日新聞は、夕刊の題辞を横組に変えた。その結果、朝日新聞夕刊の上の部分が白っぽく隙間だらけになったように私は感じるようになった。また、右側の、かって夕刊の題辞があった跡の部分も、白っぽくなってしまった。活字の隙間に隙間風が、通り抜けるような気がする。
 この変化が、私には破れ障子の隙間を取り抜ける隙間風を連想させたようなのだ。その上、8月からは、土曜日の夕刊が、休刊になるという。この調子で縮小・省力化して行けば、新聞の終焉も、意外と近いのかもしれないな。p
 
 
★ 戦後政治の保守化「逆走」
 
 世の中は、戦後も15年が過ぎ去り、経済水準も戦前に追いついた。経済白書は、「もはや戦後ではない」という見出しを思い付いた。それが新聞の大見出しになった時代だ。流行語にもなった。巷の少年たちにも、60年安保、道徳教育の復活など、政治の世界は、保守派が復活し、「逆走」へ、大きく右へハンドルを切ろうとしていることぐらいは、中学生になれば感じられていた。
 
 昔(江戸時代)の中小河川を埋め立てたという狭い道筋が買い物道路になっている商店街の電信柱に貼られた政治ビラ。「警察官職務執行法」などという難しい字面だけが記憶に残っている。
 
 「ヒロポンはやめましょう」というビラも糊をたっぷりつけて電信柱にしがみ付いている。ヒロポンて、なんだろう、と思った。後になって判ったが、「覚せい剤」のことだった。今では、電信柱などは、管理が厳しくなっているので、他所の貼り紙など許していないが、当時は管理が緩やかだったのではないか。ビラと柱は、私にとって戦後を描く小道具の一つになっている。覚せい剤を家庭内へ持ち込まない運動が盛んだったのだ。電信柱が、いわば、現在のインターネットの役割を果たしていたと言えるのではないか。
 
 日本テレビの日産劇場という連続テレビドラマの画面からも、少年の目に留まるようには
 世相も、ニュースも、画像も、伝わっては来なかった。私が淡い恋心を抱いていた少女が、当時小学6年生の授業に組み込まれていた「道徳」の授業で、大人びた発言をしたことに驚愕し、尻込みをしたような気の弱い無知な少年であった。
 
★ 「道徳」教育も復活
 
 道徳などという科目があること自体が戦後教育の否定だというような批判の声が、現場の先生たちと校長など教育委員会側の先生たちとの間で「争い」でも起こしていたようで、道徳の時間改め、「ホームルーム」の時間と称して、世相のニュースをテーマにディスカッションをさせた抵抗型の先生もあり、この時の発言ぶりには、子どもたちもびっくりしたものだ。この時のテーマは、安保問題では無く、マグロ採り漁船「第五福竜丸」の被曝実験被害問題だったか、とにかく、少年たちは放課後、同級生と当時人気の時代劇の主演俳優、嵐寛寿郎が演じるところの「鞍馬天狗」(大佛次郎原作)という小説の映画化された場面の物真似に夢中になっていた。女子児童に比べて、当時の男子児童は、幼かった、という印象が強い。私の新聞記者の夢だって、どこから飛び込んできたのか。不思議でならない。
 なぜ、いきなり、新聞記者だったのか。
 
 閑話休題。当時の小学校の校庭。特に、図書館の出入口の横辺りには、どこでも薪を背負ったまま、書物を読みながら、下を向いて歩く少年の銅像が立っていたものだ。二宮尊徳の像。江戸時代の道徳教育の象徴のような立像であった。
 
★ 消える昭和の影、寂しくなる同窓会
 
 中学時代の同窓会にも、こまめに出席され、年賀状も欠かさずにやり取りして、届いていた先生がたからの年賀状も、いつの間にか、一枚も来なくなっていた。ましてや、小学時代の恩師たちともなれば、なおさらだろう。私も、大学生になっていた時代と、記憶が混在しているか、どうか。大学卒業以来でさえ、56年。半世紀以上が消え去った。
 
 私の薄れた記憶では、その少女は、道徳の授業時間に、新聞記事になった原水爆実験に伴う放射能被害の恐ろしさを訴え出したのである。それは、教室内に閉じ込められるような閉塞感を日々感じていた私の胸をゾロリとひと撫でしたような不気味さを感じさせてくれたように思う。世の中には、個人の感じ方に関係無く、例えば、きのうまで何ら変貌したものがなくても、いや、あったとしても、どこかから突然飛び込んできて、気付かれないうちにひと撫でする怪奇物のようなものが、教室だろうと廊下だろうとトイレだろうと潜んでいるものがあると感じたことが私にはあったのだ。
 
★青春の海へ
 
 あの時代、あの頃、あの地区で、地域の小学校を卒業して同じ「学区」(当時の公立高校の受験制度)の中で、公立中学校に進学するというのが普通の、勤め人や商店街の商売人の、家庭の子息が、船団方式で一斉に中学生になって行くような時代の、学区の子どもたちであり、家庭であった。こうした地域や家庭の環境の中で、少女は、数少ない中学校から私立の女子中学校へ進学していったはずである。彼女たちは、どこの私立高校だったのだろうか。
 
★ 「記者さん!頑張(れ)」〜別れと再会〜
 
 同じクラスで、私学へ進学していった男子児童は居なかったと記憶するが、女子児童は2人いた。一人は、跡見学園の中等部か、もう一人の女子は十文字学園の中等部に進学して行った。一方、成績優秀な男子児童は、区立中学校から学区内に残っている昔の東京「府立」、つまり、旧制中学変じて生まれた都立の新制高校を経て、国立大学の最難関コースを狙って、受験することになる。私の所属する学区の進学校では、小石川高校、北園高校(旧制・東京府立九中)などであり、それぞれ、クラスで2、3人が名門高校の受験をし、大学受験では、東京大学、旧帝国大学系の国立大学、理科系の雄・東京工業大学(現在の東京科学大学)、早稲田大学大学、慶應義塾大学など私学の雄たる名門大学に入学して行った。中学校では親友になった旧友と学部は別れても、また、同じ大学の帽子を被るということで友情復活とはなっても、それぞれ、キャンパスも異なれば、生活基盤も違う。新しく友人になった地方出身の友人たちとの会話が面白く、やがて、旧友との友情は徐々に薄れていったように思われる。小学生時代、中学生時代と、わんぱく時代を一緒に遊び暮らした同級生の姿は、高校時代の3、4年間のうちに消えて行く。卒業式の記念として、互いの名前や寸言を書き合ったサイン帖は、どこに消えたのか。ある親友は、私に散々、吹聴されたせいか、次のような言葉をサイン帖に書いてくれた。
 
 「記者さん! 頑張(ガンバ)」。
 
 また、国語担当の女性教師は、ジャーナリストの心得として、
 
 「モノを見る目を育てなさい(あるいは、持ちなさい、だったか)」。
 
 と、書いてくださった。
 
 事象をおもてから見るだけでなく、事象の持つ真相を見抜く力をつけなさい、とでもいうことだろう。中学生に助言するにしても、随分、難しいことを教えて下さったものだ。
 
 竹内貞子先生!
 記者の座右名として、この言葉を大事にして、少年は、ジャーナリスト一筋に生きてきましたよ。
 ありがとうございました。
 
 いつだったか、中学の同窓会で、サイン帖に激励の言葉を書いてくれた杉崎健三君にであった時にあの頃の各クラスの担当教諭は、。皆さん、亡くなった、と聞いたよ、ということであった。往時茫茫の世の中。
 
 さて、大学では、
 私は、政経学部新聞学科や、学生新聞を発行する学生たちの新聞部に入ることは、やめた。政治学徒になっていた。
 事象から理念探究へ。私の関心は、メディアよりもマスコミュ二ケーションに移っていた。
 
 西洋政治思想のゼミが面白かった。藤原保信専任講師。後に、政経学部政治学科教授。私も
 政治学の英語や独語の原書を幾つも読み続けた。藤原保信教授は、その後、亡くなる。
 
★ 地方出身の新しい親友たち
 
 政治学科には、地方出身の学生が多かった。
 地方出身の友人たちの生活。特に下宿生活の話は、自宅で、親と同居している身のこちらには、悔しいが体験できないだけに、「匂いを嗅ぐだけ」で、我慢せざるを得なかった。1年生の外国語の語学教室(英語、ドイツ語専攻)で、たまたま、席が近くになったというだけで、宿題のカンニングなどを助け合ったりしているうちに、仲良くなると大学の4年間など、あっという間に過ぎ去り、再び、我々も、地方の各地に引きずられるように散り散りに就職して行った。地方出身者との付き合い、地方への関心・興味などは、後述の予定。
 
 そういう関係の中に、地方記者というキーワードとなる単語も私の体内のどこかに隠れていたのかもしれない。あの頃、就職試験受験期を迎えたジャーナリスト志望の青年たちの何割かは、地方勤務を憧れていたように思える。新入生の地方出の大学生、新人記者の都会出のジャーナリストが、私の中でクロス・チェンジする。
 
★★ なぜ、「地味な」地方記者希望になったのか
 
 地方記者への関心は、テレビの影響は、否めない。すでに触れた NHK の記者ものドラマ「事件記者」と民放の記者ものドラマ「地方記者」を比較したことは確かだろう。
 警察の捜査陣と同じような推理で犯人を絞って行って、警察の動きを察知してトクダネ原稿を狙う事件記者と新聞の片隅で涙を流しながら庶民の人情原稿を書いている日陰の地方記者。今から考えると、私は、弱い立場の人に代わって、取材で託された人たちの思いを記事に書こうとしていたようである。それが、地方記者に託した私の思いの原点ではなかったか。
 
 地方記者ものドラマは、普段は、なかなか日が当たらない。今回だって、日本テレビのことだから、巨人戦のナイター放送が雨天中止の場合の「控え番組」という位置付けであった。まあ、普段は観ることができない世界を描くという辺りが、テレビ会社の編成から見れば、ユニークなポイントになったのだろう。
 
★ なぜ、地方記者ドラマは大衆に受けたのか
 
 なぜ、地方記者は、本として、そして、テレビとして、大衆に受けたのか。
 地方記者は、朝日新聞社が版元になっている。さえない表紙カバーの付いた記者ものエピソード集ともいうべき本で、筆者の名前は明記されていない。朝日新聞通信部編と書いてあるだけ。売らんかな精神の乏しい本の作り(体裁)ではなかったか、と思う。
 
 私は、自宅近くの地元の商店街にある小さな書店の書棚で見つけた。
 「地方記者」初版1961年。60年安保の翌年。
 その後、日本テレビで、テレビドラマ化、1962、1963年放送。
 それでも増刷されたせいか、「続 地方記者」も、刊行。初版は、1962年。
 
 朝日新聞の単身地方勤務「通信部記者」の体験記集。小山田宗徳、水木麗子が、主演の夫婦役で、味を出していた。日常的には、一人で車を運転し、取材に奮闘する夫。時には、夫の運転する取材車に乗り、通信部記者を手助けする妻。そういう初々しさも、若いジャーナリストの心を燃えさせた。現在ならなんというのか。通信局勤務の記者。「通信局長」という肩書きこそあるものの自宅で一人勤務。あるいは、各社の記者たちは、市役所の記者クラブに毎日のように通い、抜きネタを探したり、ユニークな話題ものを探したり、していた青春の思い出。
 
 新聞記者ものドラマのデータ:
 ★ NHK「事件記者」 1958年ー1966年 (定時放送)
 ★朝日新聞社「地方記者」1961年 (初版)
 ★朝日新聞社「続 地方記者」 1962年(初版)
 ★ NTV 「地方記者」 1962年ー1963年 (ナイター雨天中止の控え放送)
 ★ 小山田宗徳(主演)1927年ー1986年(没)
 
 59歳。小山田宗徳は、還暦を目前に亡くなってしまった。
 
 小山田宗徳のドラマ放送後の悲劇は、絶えざる病魔である。
 
 1968年、脳溢血で倒れる。
 1971年、脳出血/左半身麻痺。
 1986年、くも膜下出血。
 不遇な晩年を過ごしたようだ。
 
 いつの間にか、忘れられたような、小山田宗徳の存在感が、後ろ姿のまま、薄れて行くようだ。
 
 
 ★ 水谷豊が主演で、30年ぶりリメイク版作成。
 1993年から2003年放送。
 
 「地方記者立花陽介」が、タイトル。
 
 日テレ系で放送。番組の骨格は、ほぼ同じ。
 
 私は、水谷豊の地方記者ぶりは、観ていないが、それでよかったと思っている。
 了)
 
 ジャーナリスト

(2025.6.20)
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