【コラム】大原雄の『流儀』

私論・マイ「メディア史」(5)

大原 雄

 ★ 並んだんだけれど・・・。
 
 抜けるような青空。北京。天安門広場。習近平国家主席を真ん中に囲んで、左右、後ろには数十人が連なりながら建物の中から廊下に出て来る。抗日戦争勝利記念日(9月3日)の軍事パレード。フロアの床には赤い毛氈が敷き詰められている。プーチンだけが、右手に杖のようなものを持っているように見える。人影に遮られていたが、やがて、階段に差し掛かり、プーチンも上り始める。
 
 が、一瞬足をもたつかせたかのように見えた。その後、プーチンは、姿勢を直し体制を整えて、杖を後ろの人に渡すと、何事もなかったかのように歩き出した。
 いや、私にはそのように見えたのだが、その後のニュースでは、プーチンの体調について何も伝えていないので、私だけが見た幻影だったのだろうか?
 
 いちばん、上等そうな服を着ているのは、誰かな、と思って画像をよく見ると、・・・。
 普段着なれないスーツに身を固めたという印象が濃くなるのが、北朝鮮の総書記・金正恩(キムジョンウン)ではないか? 白かクリーム色か、上品なネクタイを締めている。太った体躯を前傾させて、気忙しそうに足を急がせる。
 
 3人並んだ真ん中で上質の生地で作ったと思われる、中国独特の礼服「中山服」(ちゅうざんふく、孫文がアイディアを出して作らせ、好んで着用したスーツ)を着こなしてよく似合うのは、中国の国家主席・習近平(シーチンピン)である。いつも最高の椅子に座っている印象で、太っているが、それほど背が高いとは思っていなかったのだが、落ち着いた深緑色のスーツが、彼をいちばんノッポに見せていて、スマートな上に、堂々として見える。礼服の下のズボンは、上衣と同系の緑色だが、違っている。
 
 1945年から戦後80年を過ごした2025年は、中国では、「抗日戦争勝利80年」の年なのである。北京の秋空の下、最前列顔が青白い、ほかの二人は、日焼けがしている。ネクタイも見慣れた、赤系統のものを締めている。並んだ権力者の中で、何かが欠けているように見えるのが、ロシアの大統領・プーチンであった。生気がないように見えるせいか、いちばんの年寄りに見える。ネクタイは、いつもと同じか。
 
 4人の権力者のうち、一人でも、自分は国際会議に出席したら、各国の首脳に戦争をさせないためには、どのようにして、戦争をさせないかを具体的に提案する、と言わせたい。
 
 人口減少の中、若い男女は、ある期間は、戦場に出さない。徴兵制の逆を行く忌避兵制を実施する。戦場では、相手の兵士を殺さないなどと提言する。作戦名は、何にしようか。
 
 ざっと、思いつくまま、名前を挙げてみたのが、この4人であったというだけだ。場合によっては、特別忌避兵として、「戦争ダメ」、儲からないぞ!」と言わせるために、トランプやネタニヤフらを召集する。朝日新聞8月29日付朝刊記事(オピニオン)の最高裁判事を退官したばかりの宇賀克也・東京大学名誉教授(以下、この原稿の引用では、教授に略す)の言葉が印象に残ったので、先に引用した国際社会の権力者たちの言葉と並記しておきたいと思ったのだ。これも勝手な思い込みかも知れない。以下、引用。司法「礼賛論」かな?。
 
 ★★ 司法こそ、多数決ではなく、内容のある少数意見が優先されるべき
 
 「多数派や力のある人は、国会に影響を与えることができます。例えば、自分たちに有利な形で法律を作ってもらうこともできます。でも、社会的弱者や少数派の人々に力はありません。そういう人たちの権利を守るのが司法、特に最高裁の重要な役割です」。
 
 この様に、これは、まさに、理想的なデモクラシーの原理尊重論だが、私の連載「私論・マイ『メディア史』」で論じているメディアの理想的在り方を司法の側から論じた貴重な論点提示では無いのか。そう思うと、私は、体内から奮い立つものが舞い上がってくるような気がした。ジャーナリストと最高裁判事。同じような思いを胸に秘めながら、一人の最高裁判事は、公(パブリック)ではなく、個人の意見として判決を書いてきた、という。それが故にこの判事は、判決における「個別意見」(特に反対意見を多く表明してきた)で、自身の考えを積極的に打ち出してきたという。そういう問題意識が鋭いではないか。会議の結論(多数意見)とは、別に、こういう個別意見(少数意見)があったと記録することは大事なことだ。これこそで、デモクラシーではないか。
 
 ★ 例)宇賀教授が書いた少数意見(反対意見)の一部(朝日新聞8月29日付朝刊記事参照)
 袴田事件では、多数意見が「差し戻し」と判断したのに対し、反対意見を書いた宇賀教授は、すぐに再審を開始すべきだと述べた、という。
 
 教授はまた、夫婦別姓訴訟では、多数意見が、合憲としたのに対し、反対意見として、違憲とした、という。しかし、三権分立も、立法、行政、司法と分かれているように、現実の政治社会では、政治の部分が力を持っていて、司法の正義観だけでは力不足だ。市民社会の理念を実現するためには、行政や立法との力関係がある。バランス関係が難しい所以である。
 
 確かに少数意見の方が、明解でスッキリしている。メディアの記者やディレクターは、あらゆるニュースを取材するにあたって、この少数意見優先論を元に、キチンと取材して、大見出しに持って行くべく、努力すべきなのではないのか。判っているのに、なぜ、できないのだろう。
 
 メディアは、少数意見をこそ取り上げて、喧伝し、大いに述べるべきではないのか。これこそ、私が求める記者・ディレクター論ではないかと気付き始めた。デモクラシーとは、多数意見を尊重する「多数決の論理」というイデオロギーだけではなく、少数者の意見を多数意見に近づけるまで、ギリギリまで説得する努力をする「熟議論」のことではないのか。熟議も、人によって違って来るからね。
 
 ★ ある最高裁判事
 
 話は変わる。最高裁判事の一人は、弁護士出身。著作権、特に知的財産権の専門家であり、アメリカの弁護士資格もある有能な法律家である。女性としては数少ない最高裁判事になる前は、ジャーナリストの私たち同様に歌舞伎愛好家グループの集まりにも気軽に参加していた。観劇後の興奮冷めやらぬ一歌舞伎ファンとして、世代交代真っ盛りの歌舞伎役者などの評判、噂話に熱心に耳を傾けたいと歌舞伎座近くの居酒屋で開かれる集まりにも熱心に参加していた。
 
 そういう意味では、専門分野でも秀でた業績を上げる、大学名誉教授の肩書きに戻った行政法学者は、裁判官としても実績を上げて、国家・国民の権利を深掘りしてきたことだろう。教授が歌舞伎愛好家かどうかは、私は知らない。
 
 アメリカ仕込みの知的財産権に詳しい女性弁護士は、弁護士として知的な財産とは何かの概念に磨きをかけてきたようであるが、最近は、忙しいのか、私と逢う暇もなさそうである。
 
 最高裁判事は、長官の1人を含めて15人いる。出身母体は、裁判官、弁護士、検察官、行政官出身など。デモクラシーの理念である三権分立を守り、裁判所法によると、裁判官の「意見」は、表示しなければならないとしている。
 
 多数意見に自分の意見が反映されていれば、何も書く必要はないが、結論が同じでも理由が違えば、意見を述べなければ、なりません。メディアのニュース原稿でも、大事なニュースでは、要点が詳しく伝えてくるのを覚えている人も多いのではないでしょうか、という。
 
 ジャーナリストと弁護士ばかりではなく、さまざまな立場の人たちなどが、歌舞伎観劇後の興奮を秘めながら、歌舞伎座近くの居酒屋で芝居の意見を述べたり、説明をしたり、場合によっては、相手を説得したり、・・・。する人も居るらしい。
 
 そう言えば、そもそも、歌舞伎や人形浄瑠璃の舞台では、裁判物の演目も、多彩に展開されてきましたね。例えば、能から歌舞伎の演目になった「勧進帳」。義経と弁慶の、主従の物語。江戸時代の方が、庶民にとってみれば歌舞伎は、親しみがあったかも知れない。
 
 この連載も、多様性のある、違ったものの見方で、いろいろな横道、回り道を見つけては、意図的にいろいろ迷走してます。盲点を探そうでは、ないか。
 長い前書きになりました。
 
 「です、ます調」の文体も、シーンにとって、必要なら意図的に続けます。新しい時代は、少数者が頑張りますよ。融通無限の美学。それが評価される時代が来ると、良いですね。
 
 (承前)
 中学生時代から始まり、停年(定年)まで続いた私の記者志願、つまり、記者=ジャーナリスト志願の連載コラムが、この「私論」なのだが、メディアの側の動きもあるし、私の側も、単なる昔話にならぬよう、可能な限り、その動きに同伴しようと思っているので、意図的な「脱線」が続くことになるが、このまま、続けたい。
 
 では、「真意」を隠して、いつもの調子で、始まり始まり。チョーーン(柝)
 
 (AIの影響か? →→)
 
 ★★ 訂正:さて、新たに増えては、いないかな?
 
 久しぶりに点検すると、7月、8月は、・・・?
 
 「訂正して、おわびします。」
 (以下、「訂正して/おわび」と今後略す」)の、コーナーでは、
 次のような記事がポツポツと目立った。
 但し、全ては参照してはいないが、確かに、多いね。
 
 ▼7月30日付朝日新聞総合2面記事。
 
 トランプ相互関税、日米合意。一般関税と相互関税。税率が高い方を適用。
 なのに、合計して、41・4% 。を報道してしまった、という。
 正解は、26・4% → 誤報へ。回答:足し合せ不要だった。
 
 新聞社が、入手した情報を、記者が勝手に弄ったのだろうか。情報に疑問があれば、
 その旨、記者は関係者に指摘し、関係者に訂正させるはずだが。不思議な回答ではないか?
 
 ▼8月5日付オピニオン面「多事奏論」の記事で、(略)「国境なき医師団」とあるのは「世界の医療団」の誤りでした」。
 
 海外で活動する医療従事者の団体だが、別の組織。
 以前のように、間違った原因などの説明がなくなっている。説明しだすと、確かに、判りにくい。朝日の説明子が、パスしたのも分かるような気がする。
 
 ▼8月15日付くらし面の料理メモ。
 
 料理名「豚肉とナスの甘酢びたし」は「豚肉とナスの酢じょうゆびたし」の誤り。
 作り方「甘酢のひたし地」は「酢じょうゆのひたし地」の誤り。
 → 誤報へ。システムなどの勘違い、メモ不備などないのか? 不詳。
 へえ!こういう訂正も出すんですね。訂正記事、続く。
 
 ▼8月22日付社会面の、エアコンからの出火(略)記事で、5年間に「7人が死亡し、24人が重軽傷」の誤りとあるのは、「8人が死亡し、35人が重軽傷の誤りでした。
 
 データの足し算を間違えたものと思われるが、私も訂正を訂正しなければいけない状況になっていることに気がついた。難しいものだ。今までにも、間違いの「訂正間違い」があったのではないか。私も、気がついたら、「改めて訂正して、おわびします」。
 
 8月は、多かった。なぜ、朝日新聞は、こういう不可思議な記事が、「堂々」と記事に紛れ込んでくるのか?
 ざっと、1ヶ月のスパンで見ていると、毎週のように、一つ、二つと顔を出す月もあれば、全く出さずに、無事1ヶ月が終わる時もある。と思えば、ネジが緩んだまま、放置されているのか、連日、訂正とおわびが続く月もある。まるで、「活字」が、生きている人間にでもなっているかのようにさえ思えることもある。そもそも、「訂正」担当者は、デスククラスのベテランのOB・OGなどが、担当しておられるのではないのか?
 
 朝日新聞社は、新聞社の使命として真実をこそ、読者に伝えるべきであって、増える紙面作りの新たな訂正(ミス、特に誤字脱字の類いが、多すぎる)の実情、経緯、原因の増加などについて、「読者にキチンと知らせるべきではないのか?
 
 「訂正して、おわびします」という、立派な門構えの専用の出入り口をつくっても、門内にあるものの品質の管理がお粗末では、話にならない。
 個々の中途半端な説明だけでは、判りにくい。未消化の記事を読まされても、一般読者には、解らないのではないのか。数字がらみの誤りも、相変わらず、目立つ。
 
 ★★ 寸評! 戦後◯◯年を紐解くと、・・・。
 
 以下、序論を用意した。
 
 ◯◯戦争勝利◯◯年
 今年ほど、戦後◯◯年、◯◯年という括りで、戦後の「昭和史」が、注目されることは、もうないのかもしれない。向こう10年間で、亡くなる人も増えるかもしれない。生まれてくる人も、更に減るかもしれない。
 
 例えば、超具体的に10年後の社会取り巻く人々を想定し、予測して戴きたい。メルマガ「オルタ広場」を取り巻く状況や関係者の皆さんは、私を含めて幸いにも、変わらずにご存命でおられるだろうか。
 
 10年後の想定をしておこうと思い、大雑把に、メルクマールを立ててみると不勉強ながら、以下のようなキーワードが脳裏に浮かび上がったが、これらはすべて未来から来た用語ではなく、過去から来た用語だったということだ。つまり、10年後は、現代に到着していないが、既に、10年後は現代に漂流しながら、私たちにわからないまま、把握されているのではないのか。足らない部分は、難問題ばかりで、想定もできないということなのではないのか?
 
 人口減少.少子化。
 食糧不足。労働力の劣化。人手不足。
 民主主義の劣化、原理の腐敗、民主主義を装った独裁者は、10年先、生き延びているか。
 世界戦争(日本の軍事費・防衛費予算は?)
 日本で、万一、軍事関係の予算を増やせたとしても、少子化で、高卒男子年齢は、減っているのではないのか。
 顕在化した防衛国家。核の平和利用・核の軍事利用。
 
 国際関係、特に、日米・日露・日中・日朝などの変化。
 地球環境の劣化など。
 
 いずれも、すでに見えている問題ばかりではないのか。
 ここは、私の想像力の貧困さを指摘される問題ばかりとは、言えない。
 ここに上げきれていない間に未知の課題として気付かされることになるのでは、ないのか。
 
 日本の歴史の近代化は、長い幕藩体制の終焉を告げるように大海の彼方から波濤を越えて、日本列島を包囲するように近づいてきた。東西から近づいてきた列強の脅しの中で変化は急速に始まった。弓を弾く抵抗の構えをしたまま、日本列島は、明治維新、日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争など、幾つもの戦争の時代を繰り返しながら広島、長崎の原子爆弾(核兵器)による究極の大破壊やら、列島本土への幾たびもの空襲による地域社会の大焼失などの果てに、敗戦を迎えた。
 敗戦後の各地には、大きな、荒廃した鍋の底が焼き抜けたような光景が広がっていた。
 
 その結果、日本という近代国家は、失敗の本質を「失敗」と素直に捉えることが苦手で、ものごとに対する弥縫策、遅れて発生したばかりの「事態」の対応策として遅れて現場へ向かうという「負けるが勝ち」の戦法にすり替えられながらも、アメリカとともに、アメリカンデモクラシー陣営の先頭グループの旗持ち役だけをいつも務めてきた。負けるが勝ちの狡知な対策は、例えば、財界には戦後の日本社会の経済倫理を築いて行ったり、戦後政治の、日本的な、保守的な、民主主義政治体制を1955年の、所謂55年体制など以降は、自由党、社会党などが、入れ替わり得る政権を構成する「連合政権」として築いて行ったりした。
 
 そこには、「勝ち、負け」を重視するよりも、敗者として負けたという「事態」を認識し、勝者に「謝罪」するという構図ができ上がって行くことになる。第三者である、として権力の中枢から遠ざけられる多数の日本国民は、差別されながら、現状としては放置され続けたのである。放置されている間に、事態も謝罪も、真意も、手垢に塗れた言葉になって、しまった。
 
 その結果、敗者は、勝者にのみ気を遣い、戦後体制を勝者の視点からのみ捉え、何回も再構築して行っても、日本の近代化が本質から変わることはないであろう。だから、戦後100年を凌駕するイメージの豊かさを示さなければならない80年に何かを付け加えなければ、空疎になりかねない90年こそが、いちばん難しいのではないか、と思うのだ。向こう10年の日本国。政治家たちは、国づくりを誤らずに進められるか、企業家たちは、国民の竃を守れるか。
 
 ★★ 「猛暑化」、「煮沸化」は、地球の自殺行為
 
 2025年。酷い夏だった。
 「命に危険な」暑さ。こういう恐ろしい情報が、毎日、毎時間のように電波メディアから、あるいはオールドメディアから、耳や目を通じて飛び込んで来る。
 それは、また。商品の宣伝のように、呼びかけられていると、喫緊の事態も、どのような事態も、いずれにしても、麻痺してくる。核兵器を所有• 配備する有力国家などの「妄想に近い(いや、妄想そのものの)権力による世界制覇志向路線、という自殺行為は、いったい、どこまで、続くのか。狂ったイスラエルに依る、パレスチナのガザ攻撃など、世界の舞台では、とんでもないことが各地で実演されているではないか。
 
 ★★ 濁す言葉
 
 出版社が曖昧に言葉を濁していいのか。
 晴明で、解りやすい言葉で作品を読みたい。
 
 「新潮社、コラム、事態、謝罪、真意」など、という言葉の連想によって、自由自在に浮かんできたものである。あるいは、筆者の強引な連想のなせる技か。
 
 トランプ、プーチン、習近平、さらに、イスラエルや北朝鮮の権力者たちの顔が浮かぶ。
 それとは、別に、文藝出版の・新潮社も、元・新聞記者を引き連れて、以下のシーンに登場してきた。
 
 東京・新宿区の新潮社の前では、「差別コラム」掲載で抗議のため、60人がスタンディングを行ったという。「生活ニュースコモンズ」という、新聞社などマスメディアで働いてきた、いわば、報道現場のスタッフ。男中心の職場では、これまで「黒衣(くろご)」役的な存在だった女性たちが、横断的に女性たちをまとめて活動し始めた、という。差別されていた女性たちの反乱である。
 
 ★★ 新潮社の差別コラムに女性「黒衣」の反乱
 
 新潮社の連載コラムの[騒動」の経緯は、新聞では珍しい取り上げ方をされたようである。社説から一般記事が始まった。これは隠れたテーマになるか。それ故に、今月は、これを追いかけようと準備していたら、作家ら数十人も差別語抗議に賛同してくれて運動の輪が、大きくなったようだ。
 
 格調高い朝日新聞、毎日新聞の社説、韓国系(朝鮮系も)名前を巡る差別発言問題の関係者となった双方がそれぞれ開いた記者会見など、断片的ながら、継続的に新たな情報が提供されたこともあり、反響が大きかったのではないか、と思う。また、問題提起した作家が、日本ペンクラブに差別の実態を訴え出るなどしたこと、この問題が日本ペンクラブのうち、複数ある委員会の中でも、「言論表現委員会」という世相の言論や表現の有り様をチェックする委員会に持ち込まれたこと。私も、当該委員会の委員の一人だが、ほかにもいるジャーナリスト、編集者、評論家などが積極的に動けたことが、大きかったと思う。
 
 中でも、日頃からメディア雑誌の特集に従事している某雑誌の編集長氏が日本ペンの委員会活動の軸になって、編集活動を活性化させたことが大きかったのではないか、と私は思った。
 
 その結果、この問題は、雑誌の方でも、節目節目の記事は、その後も読むことができるようになっていると思う。ネット検索、雑誌のバックナンバーなど、いろいろ読めるようになっていると言えるのではないか。この問題に関心のある若い人は、日本ペンクラブの活動には、注目していると、今後とも興味深い情報が、時折り、舞い込むのではないだろうかと、お薦めしておく。
 
 その挙げ句、大手文藝出版社の新潮社は、この出版社の命運を賭ける「週刊新潮」の連載コラムを終了することになったと、突然発表した。大人の雑誌「週刊新潮」らしく、上手に「逃げ」を図ったのではないか。
 
 大山鳴動鼠一匹ではないが、こちらは、大きなネズミが飛び出してきたものだ。
 
 朝日新聞8月20日付朝刊社会総合面記事参照、一部引用した。
 私は、既に年老いたフリーのライターであり、今回の事案も現役時代のように自由に取材ができる立場でもないので、新聞や週刊誌、ネット、テレビの記事・報告、などほかのメディアが取材した情報の二次利用の中で、事案を丁寧に読み解くことで情報の幅を広げたい、と思っている。しかし、ネットの情報は、清濁合せ飲む感じが強く、読む力が絶えず、試されているから、怖い。新聞、テレビ、ネットなどから、残された情報にも興味深いものが往々にして、結構隠されていることもある。
 若さに拮抗できる、深読みの能力を高めたい。
 
 「保守的な」偏見(へんけん)を売りに週刊新潮に連載されていたコラム「変見自在」。
 書き手は・産経新聞記者出身であるコラムニスト。私は、週刊新潮は、今回の件で、数回のコラムを拝読したに過ぎない。
 
 変見自在(へんけんじざい)が8月20日発売号を最後に終了(連載中止)するという展開になった。偏見は、変幻(へんげん)自在なのかもしれない。いやいや、まだ、私の身辺をグルリと回り、浮遊しているような気がする。
 
 このコラムを巡っては、記事に登場する在日コリアンの作家が、コラムニストから日本も日本名も嫌いなら日本名を使うななどと名指しで差別されたとして、発行元の新潮社に文書での謝罪などを申し入れたという問題である。
 
 騒がれたニュースなので、私は、多くは語らないが、記事で紹介された新潮社の会見(説明)で多用された言葉が、気になったので、私は、この一点を取り上げてみようと思ったのだ。
 
 ★★ 3つの用語(事態、謝罪、真意) の使い方
 
 連載コラムの表現活動の中で、差別という「事態」が、発生した。
 その事態は、ここでは「差別」として、捉えられた。問題の所在を私は理解した。
 その差別を説明するのが「謝罪」という言葉であった。平身低頭、ともいうかもしれない。いつの時代でも、しぶとく生き続ける「差別語」。近代日本でも、現代でも存在する差別は、判りづらいという「真意」が、今回の問題の核心部分にあるはずの「差別」だと思って私は、双方の文書を読んでいた。真意は、本音か?
 そしたら、なぜか、いつの間にか、コラムを掲載した新潮社と連載コラムを書き続けたコラムニストたちは、差別の追及は、しなくても良いという認識や、判断になったのか、論争から焦点がずれて放置されてしまったのかもしれない。姿が見えなくなったようである。コラムニストが、大きなマントを拡げて、差別を抱き抱えて、隠してしまったかもしれない。
 
 さて、件のコラムニストは、その後、どう対応されたのか?
 
 差別したとされる大手文藝出版社は過去にも、同社が刊行した別の雑誌で、似たようなトラブルを起こしたことがあるという。ならば批判を受ける「事態」は、出版社の企業風土、編集者の体質、ライターであるコラムニストのキャラクター、などに原因がある、という辺りが、出版社の自己認識なのかもしれない。そろそろ、店じまいの潮時かな、とでも、勝手に判断しているかもしれない。
 
 今回の連載コラム、当該コラムを巡っては、出版社の社内から、連載の継続を疑問視する声も出ていた、というから、出版社にも、少数派かもしれないが、真っ当な意見を述べる社員も残っている、ということなのだろうか?
 
 コラムは、開始以来、今回で連載1146回(当時)。20年以上も続いてきた、というから、辛口コラムとして、読者には、人気があったのかもしれない。固定客というような読者もいたのだろう。
 
 さて、記者会見をした新潮社側の説明で気になった言葉がある、と申し上げた。私の認識では「事態」、「謝罪」、「真意」、である。
 
 事態とは、こういう事態(シチュエーション)、つまり、やるべき日常業務ではない、非日常的な、つまり、マスコミ対応のような業務を生み出した「余計なこと」、ということなのだろうと思う。厄介者というニュアンスが強くはないだろうか。
 
 事態への責任は、記者会見などの進行役を務める出版社の幹部らしい社員にあるのであろう。
 彼らは、出版社として、組織人として、客観的には、企業責任があるだろうが、直接的な編集責任ではなくても、管理責任という、他人事(ひとごと)責任だと肚の中では、思っているかもしれないのではないか。そういう事態発祥の連帯責任は、異論がないと思う。
 
 次に、発言しないように見えるコラムニストの真意が、私には、最も気にかかる。コラムニストの元・産経新聞記者の真意は、出版社の幹部社員、あるいは、週刊誌編集部の編集長らの真意とは違うのか?その後の情報では、コラムニストは、新聞記者よりもコラムニストに適性があるとご本人は、感じておられるようだ。最も、元・新聞記者は、出版社側の一員として、話をするときには、問題になった差別語を意図的に使用しているらしいのであるが、私も確認したわけではないので、こちら側も、偉そうには言えない。
 
 あるいは、確信犯的に差別をしたコラムニスト(事態への動機、連載やめれば、それで良いのか)と、うっかりと差別語を見逃した編集部(謝罪、平身低頭)、被差別感に敏感な作家や読者(差別されてきた痛み・真意)が、対話の骨格として浮き彫りにされてきた、ということであろう。
 
 今回のテーマ。やはり、歴史的にも、とり残された差別意識。なぜ、差別は無くならないのか。人格権の侵害としての、差別は続く。差別が厄介なのは、権力者が差別をするだけでなく、国民も差別をする、ということだろう。さてさて、差別なき民主主義社会は、まだまだ、道遠しなのだろう継続すべきテーマという認識で、いろいろ情報をチェックしたい。i
 
 取り残された作家の悩みとは、なにか?
 例え、差別されたと出版社を批判した作家は今後、こういう事態をどう改善したいのか。
 連載をやめさせた場合、どうしたいのか、などである。
 
 コラムニストは、どうしたいのか。
 新潮社に絶縁状を突きつけた作家は、どうしたいのか。
 
 そう言えば、作家が出した要求書には、二つの要求が盛り込まれてたはずだ。
 この件については、8月22日付で、出版社は、やっと、回答を寄越した。
 
 ①要求:差別を認め、文書で謝罪すること。
 出版社の回答は、そういうものにはならなかった。
 回答:決裂である。やはり、名前を巡る差別は、根が深いという。考えれば考えるほど、目の前にある課題は、大きいのではないか。
 ②要求:連載コラムを掲載していた当該週刊誌にページを提供し、作家に自由に書かせること。
 作家側が合計で8ページを要求したのに、出版社の回答は?
 回答:2ページのみであったという。
 
 これを受けて作者側は、出版社との出版契約の破棄を申し入れた、という。新潮社という出版社の賞を受賞し作家デビューした深沢潮という女性作家は、新潮社と最後まで対立したままであった。絶縁状に未来をかけたのである。
 
 ほかの媒体で改めて問題を提起したい、ということであった。
 
 ★★ 戦後と抗日の80年
 
 1945年は、日本社会から、戦争が終わったことを全世界に向けて宣言させた、画期の年である。戦後日本社会の社会規範、現代日本のあらゆる決め事の中枢原理、人権、治安、政治、経済、歴史、戦争、被爆、平和、文化、芸術・芸能、健康、自然、地球環境などなど(順不同)
 
 ★ 戦前、戦後の主な基準軸(例:参考)
 
 1945年(◯◯80年)憲法 被爆、日中(多数、あるだろう)
 1935年(◯◯90年)
 
 1925年(◯◯100年) 治安維持法  
 
 私の父親は、1920年、大正生まれ。明治と昭和に挟まれた大正年間。母は、1922年、
 生まれ。父母の青春は、どうであったのか。戦争に抑圧された青春だったのか?
 残念ながら、聞きそびれた。二人とも、亡くなってしまった。
 
 1955年(◯◯70年) 55年体制の崩壊
 
 戦争のことは、ほとんど語らなかった父母。ふたりとも子どもに対しては
 戦争を語る口は重かった。若い男女たちと、その青春時代。
 当代の「氷河期よりも、冷え冷えとしていたかもしれない。
 
 ★★ そこ退け、そこ退け。ナニ様が、通る(参る)
 
 「偏見」を逆手に取って、国際的な、歴史や社会、地政学、文化を「自在」に切り結ぶスタイルを売り物にしてきた元・産経新聞記者。ユニークな視点からオチを捻り出す。
 コラムの視点として継続的に世相を定点観測できれば、良いですよ、とでも、言われて良い気になって、国際報道の道を肩で風を切って歩いていたジャーナリスト出身のコラムニストが韓国籍から日本国籍に変わっても、普遍的な女性作家という視点を堅持してモノを書いてきたご同業の作家に足元を掬われ、すってんころりんと尻餅をつかされた、とでも描写すれば判りやすいのか もしれない。
 
 ★★保守主義の「語法」特に差別
 
 朝日新聞オピニオン面8月11日付社説が、この問題を取り上げている。大手出版社による、いわば「創始改名」、名前の差別の問題である。この問題は、現在のマスメディアが、全体として抱えているメディア状況の普遍的な問題の一つである。朝日の社説は、この問題に斬り込んだ。毎日新聞ほかが社説で取り上げた。
 
 平均点的に見てバランス良く丁寧に取り上げていると思えるので、参考にしたい。
 
 まず、どういう問題かというと、マスメディアのオピニオン層の論客たちが、トランプ大統領の起死回生の根本姿勢を踏まえてメディアの意見をまとめて論争すると、こういうことに皆なるだろうな、という論争になっていると言っても、大過あるまい。
 
 今、この文章の着地点は、考えていないので、どこで着地するやら、どこへ不時着するやら、判らない。
 まず、手掛りがわりに、朝日の社説を引用してみよう。
 
 サブタイトルは、「週刊新潮コラム」。私は、老舗の週刊誌「週刊新潮」のコラム」だからと言っても、長い間ほとんど私は読んだことのない週刊誌であり、保守的な論調の週刊誌だろうという「偏見」のままに無視し続けてきた。改めて読もうと意図する意欲も、まだ湧いてこない。朝日のコラムニストは、本人が付けたか、別の校閲などの専門編集者がつけたかどうかは、不知で申し訳ないが、「再び『名前』を奪うのか」というタイトルを見て、「創始改名」の問題に関心があるようにお見受けした、という次第。
 担当者たちが、どういう光の当て方をしてくれるか、興味が湧いてきたということを白状して、朝日の社説を読み始めた。名前とは、人間の尊厳を象徴する基本的な人権問題であるからだ。
 
 問題の所在:在日コリアンの作家らを名指しして、『日本名を使うな」』と、差別をあおるコラムが伝統ある文芸出版社の看板雑誌に掲載されてきた。あるいは、適当に、口が悪い、老練なコラムニストの、「年功」染みた味がする。だからこそ、個人の存在や尊厳と深く結びつく「名前」を差別の手段とし、人権を踏みにじる行いを許してはならない。私は、社説記事を読んで、そういう思いを余計、重くせざるをえないと思った。
 
 私も、支援の掛け声をかけたいと思った。声を掛けるべきだ、と思った。
 正しく、正論であるので、実際、「その通り」と声を掛けてみた。自分に向かって、もちろん小声であるが、声に出してみた。
 
 そもそも、未読の雑誌を読みもしないのに批判するというのは、フェアではないと思うのでここでは、取り敢えず批判はしないが、取り上げはしたい。文学好きの私は、新潮社の文芸単行本として刊行されたさまざまな作家の文芸書は若い頃からそれなりに読んできたつもりではある。
 
 ★★ 贅言ながら
 
 新潮社の文藝書など単行本では、新刊が出ると注目作や話題作は、読む前に買い求めてきた。本の香りが、よその出版物より、心地良かった。校正の匂いが、爽やかだった。しかしながら、週刊誌は、買ったことはほとんどない。
 
 新潮社を出入りしたことがある人の話によれば、新潮社は、会社の建物は二つあって、単行本の編集部と週刊誌の編集部では、別の会社のようだ、ということであった。
 どう違うのか?
 
 新潮社の週刊誌は、その面構えから見ても、年寄向きな、つまり、保守的な、皮肉な、とっつきにくさを感じてしまい、敬遠してきた。敬遠しているうちに、こちらが高齢者の年齢に近づいてきた。そして、その隙間を埋めるように紡がれた文章の中に、こういう反左翼的な、つまり保守的な文章群があり、老成した大人の週刊誌読者に一定の評価をされてきた長い「雑文」の歴史があるということなのだろう。最近は、読者の、高齢化、老成化などとともに、この週刊誌も、病気や健康情報の記事が目立つようになってきたようである。
 
 ジジたちが好むものは、病気と孫の話というではないか。
 
 ★★ 朝日のコラム
 
 朝日社説の筆者によると、新潮社の「週刊新潮」は、7月31日号に、元産経新聞記者、高山正之氏の連載コラムを掲載した。「創始改名2・0」と題し、朝鮮半島にルーツを持つ作家の深沢潮さんらに、日本を批判するなら、自分の名前を変えろ、「外人名で語れ」などと攻撃する内容だった(略)」という。「外人」という言葉も使われなくなって、久しいのではないか。「外国人」なら、使用可能だろうが、「外人」では、使用不可と、私は認識している。私には、「外人」は、「人外境」が連想される。荒涼とした荒野。人影は、ない。
 
 コラムニストには、深沢さんのルーツが伏せられていたとする記述などに「事実誤認もあった」という。「深沢さんは会見で同社へ抗議を表明。作家や学者らから多数の抗議文が寄せられている。」という。
 
 その後、抗議発覚以降「週刊新潮」には、このコラムの連載原稿は、◯回掲載されたが、コラムの筆者側の声は、当初、一向に聞こえてこなかったのではないか。
 
 新聞などのメディアの方は、断片的ながら、被害を訴える作家側の弁護士活動にあわせて、記事が出てくるようである。
 
 例えば、(8・16付)朝日新聞第二社会面などである。二段の見出し「コラム問題 新潮社が謝罪/作家側、改めて認識問う」では、続報が掲載されている。
 
 それによると、「作家の(略)らが名指しで差別を受けた問題で、発売元の新潮社は(略)『厳しいご批判を受ける事態に至った」などと書面で謝罪した。文書は12(日付)。と明記されている。
 
 ★★ 差別された作家や学者側は、差別されたことを怒っているが、新潮社側は、こういう「事態」に至ったこと(注ーー対応の不味さ)を謝罪しているだけなのではないか。皆さんに叱られるような「事態」を引き起こして、済みません、とは謝っているが、その根本にあるはずの人間の根源にある名前の人格権に対する認識については、全く答えようとしていないように思える。
 
 そこが、作家の深沢潮さんの抗議のポイントではないのか。
 
 差別したか、していないかは、ここに至っても明らかにしていないのではないか。つまり、私には、出版社から作家側に見せられたという文書は、差別したとされる出版社の真意が、意図的に曖昧にされている、ように思えるのである。抗議の声を上げた作家側は、こういう、「狡猾な」出版社の曖昧な事態認識を怒っているのではないか。
 
 これに対して、作家は、コラムニストの差別感はもう一つの課題としてさておき、出版社としては、「厳しいご批判を受ける事態に至った」ことだけを、「監督不十分」として、作家に謝っているが、編集部はコラムニストと一緒に差別したのか、していないのかについては、「明言せず」逃げ回っているように見える。
 
 ここまでが、マスメディアの記事でいうところの、「本記」原稿だろうか。
 
 高山・元記者が時に、「外人(ガイジン)名」などという古い日本語の用語を今の時代になっても、頑なに平気で使っているところを見ると、やはり、現代的な人権感覚に持つべき配慮をしていない、いや、意識化できない、旧型(タイプ)の記者なのだろうと思う。やはり、朝日型(タイプ)の、批判的な、擬似左翼的な記者育ちの記者ではなく、保守的な、「擬似右翼的な」育ちの、いかにもサンケイの記者らしいタイプだなと思わざるを得ない。
 私も現役時代、いくつかの記者クラブに所属したことがあり、多くの産経新聞の先輩記者や同輩、若手などの記者たちともお付き合いしてきたが、穏やかな人も、厳しい人もいた。それは、各社も同じで、マス・メディアの世界で、皆さん、国民から負託された知る権利を守るために、報道の自由、表現の自由、言論の自由を日々行使していた点では、同じだったと思っている。
 しかし、今回の場合、週刊新潮の連載コラムの最終回の原稿でも、そういう頑なさは、変えていないようであった。コラムニストも新潮社の編集部も、コラムのページに今回の問題のきっかけ、その後の認識、経緯、解決策へ向けての提案の表明などは、全くなかったのか。外部から、短い期間ながら、この問題を注視してきたメディアの人間には、残念でならなにもなかった、というしかない。
 
 新潮社は、メディアの一環を占める大出版社であろう。
 言論の府の、一つであろう。それなのに、一般読者に判りやすく「事態」(トラブル)発生の説明も充分にしないまま、内容の乏しい「謝罪」(言いわけ)、「真意」(黙秘)という戦術に終始、したのではないか。これで、仕舞いには、させられねい。では?
 
 ★★ 報道局の記者群像
 
 ここで、初歩的な説明をしておこう。
 私たち、メディアの社会部系の記者は、主に本社の報道セクションを拠点として、仕事をする、いわゆる「遊軍記者」と官庁、自治体、企業など、「出先」の中に記者クラブスペースを借りて各社共通、あるいは、各社共同の、いわゆる、記者クラブ「拠点」を賃借しているというケースが一般的ではないか。だから、記者クラブで、各社の記者たちが繰り広げる取材合戦を見ていると、各社育ちの記者の型の、「見本市」のように見える時があるから、興味深い。
 
 今回の元・産経新聞記者は、どうであったか。
 記者として特に大事な、相手の人権、尊厳への配慮は、十分ではなかったのではないか、特に、名前を差別の手段として使った点は、弁解できないのではないか。取材不足が引き起こしたと見られる事実誤認も、貴重な紙面を奪う「訂正して、おわび」という記事の候補となる可能性があり、記者としては、避けるべき課題であろう。名前を悪用した威嚇は、相手の心の内側まで萎縮させる。戦時中の日本なら、警察など直接的な国家権力が、国民を名前であからさまに統制していたのではないのか。私たちはそういう時代を再来させてはならない。
 国民的な大週刊誌の発行責任を負っているはずの新潮社の対応は、どうか。コラムの筆者を通じて、記事の中で著者に名前を日本名に変えろなどと迫るのは、物書きとして恥ずべき、人権侵害を犯しているのではないのか。それを見逃した新潮社の担当編集者の、曇った視線、日々のチェック、組織としての日々の対応も不十分ではないのか。
 しかし、出版社の対応ぶりを注意深く読み取れば、次のようなことが見えてくるように思える。
 新潮社のホームページには、この問題に対する[おわび」が掲載されたが、わかりやすく説明されているのか。長く続く、週刊新潮の辛口コラムだが、長年の掲載の経緯の説明もない。今回の掲載に対する現場の議論、トラブルの経緯、その検討の経緯。訂正も、不十分。今後の対応も不明確。コラム連載が続いた高山氏は、どんな人かは、知らないが。もし、むっつり、ダンマリ、しておれば、いずれ、誰かが事態を解決してくれる、か、あるいは、時間が解決してくれるか、とでも、思っているタイプの人ではないのか。
 
 特に、私が懸念するのは、記者会見のために用意してきた会社側の文章が、記者会見前に準備してきた、いわば「予定稿」(作文)の域を出ていないように聞こえたことである。世論の変化、社会の要請を伝えるなどという、他人行儀な文言で新潮社は逃げようとしていたことである。
 差別とは、何か。社会を差別から変化させないと、社会は変化していかない。社会の要請は、社会が変わって、こそ、やっと、差別は無くなるというものであろう。
 
 経営は、社会は、後ろからついて行く。結果論に乗る。安全運転宣言だけの世界。
 新潮社の会見の記事を読んでいると、響いてくるのは、「事態に至った結果責任への皮算用ばかり、ではないのか。
 
 ★★ 再び、事態、謝罪
 
 会社側からでてくる説明の言葉は、
 「事態」「事態」「事態」。
 「謝罪」「謝罪」「謝罪」の2種類ばかりが、目に付く。
 
 コラムの内容が世論に無難になるように書けと上役が口を出す。そういう上の方針に共感できるようなコラムを執筆・掲載できる執筆陣を一新させる、とでも、新潮社の上役が方針を
 打ち出してきたら、読者は、もちろんのこと、私のような不熱心な読者も、こういう内容の週刊誌コラムなど、読まなくなるのでは、ないだろうか。
 
 出版社の記者会見での回答:(コラムは)真意が極めて伝わりづらいものとなっており、それどころか、(作家をはじめ、略)「厳しいご批判を受ける事態に至ったことは申し訳ない」などと謝罪した。
 
 事態、謝罪、事態、謝罪の間に、「改めて文書で回答、という有り様の、なんとも情けない出版社の記者会見の対応ぶりとなったのでは、ないか?
 
 ★★ 突然ですが、閃いた!
 
 新潮社、週刊新潮、週刊誌連載コラム、朝日新聞、「訂正とおわび」参院選・参政党と、本来なら、連想しにくかったことがらが、私には繋がって見え始めた? 
 これらの言葉になにか、類似性でもあるのかな? いや、ある訳がないよ。さっきまで、無関係と思っていた言葉が、邪魔こそすれ、連想が繋がるとは、思えない。
 
 そこまで書いてきて、私が急に気付いて、気になったことがある。
 7月の参院選後半の街頭活動で、唐突に、盛り上がってきたように見えたことである。
 参政党が、現代日本の息苦しい閉息状況、将来への不安、生活の苦しさなどを在日外国人の増加問題にすり換えていたように聞こえたことである。「日本人 ファースト」の旗を打ち立てて、参政党の幹部たちが訴えていることと週刊誌の連載コラムで主張してることの類似性。
 
 なんだか、嫌な世の中になって、きたようだな。
 そんな、気がしませんか?

了)

ジャーナリスト

(2025.9.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧