【コラム】大原雄の『流儀』

私論・マイ「メディア史」(7)

大原 雄

★初めに。念のため、自分の略歴メモをスケッチ風に、簡単に書き留めておく。

1971年(NHK入局〜、初任地:NHK 大阪 放送局勤務。〜1975年)
6月半ば、研修最終日、赴任先の発表(NHK大阪中央放送局赴任、大阪では、大都会勤務だったので地方記者という感じが乏しいが、我が人生、初めての親元を離れての独立生活がスタートした。
父・母・未婚だった妹2人、そして妻、実家の家族総出で、東京駅新幹線ホームまで見送りに来てくれた。我が家で家族全員から見送りを受けたのは、この場面が最初で最後であった。
大阪では、子どもたちまでが、大阪の方言で会話しているのが、私にはおもしろかった。ある時、私がマイクを持って、住民にインタビューをしようと動き回っていると、物怖じせずに、私に声をかけて来た少年がいた。
「おっちゃん! なにしとんねん?」これには、驚いた。

 また、在勤中、大阪放送局が、途中で、NHK「近畿本部」へと組織の名称が変更されたことがある。これも、驚いた。判らないのは、学生気分が抜けぬ、私の若造故の浅知恵か? この改名や意味合いにどういう効用があったのか、なかったのか。職員の意向調査でもあったのか、なかったのか。「官僚的な経営判断」では、なかったのか。新人時代ながら私は不思議な印象を持ったのを覚えている。新たに所属した組織ながら、NHK は、時折り、ジャーナリストとして違和感を感じる組織でもあった。しかし、この違和感は、ジャーナリストとして生きて行く上で大事な違和感であった、と今も思っている。パブリックに根が繋がったジャーナリストこそ、国民のためのジャーナリストでは無いか?
違和感の共有だ。

★ ジャーナリストとして、違和感か?

 公共放送局は、やはり、国家よりも、公共(パブリック:国民)に寄り添い、寄与すべきであろうと、改めて思い、実際、残りのジャーナリスト人生をその道にかけて、真っ直ぐ生きてきた、と思う。

 先にちょっと触れたが、1970年8月。私的には、就職試験で採用内定した後、私は、大学の同級生と婚約・結婚をした。将来に向けて人生を同伴する決意を込めて・・・。そして、2025年7月。私は大事な道連れを失った。私たちは結婚55年、「エメラルド婚式」を1ヶ月後に控えていた。

★★ 「瓢箪の中括り」・マイ「メディア史」について

 メールマガジン「オルタ広場」連載のマイ「メディア史」も、今回で連載7回目となる。ジャーナリストとして立つ。ちょっと書いておこうか。少年、15歳の立志は、ざっと60年も前、昔のことだ。当時、我が家では、モノクロ・ブラウン管テレビを見ていた。NHKのテレビドラマ「事件記者」。警察官を主人公としたシリーズもののテレビドラマは、私も観たことがあったが、初めて見る「事件記者」は、リアリティがあり、おもしろかった。警察の記者クラブ内部の描写。メディアの職場が活写される。さらに、民放で始まったのが、「地方記者」という聞きなれないタイトルの、地味なテレビドラマの記者ものは珍しかった。主役の小山田宗徳が奮闘していた。

 実は、そういうシリーズものの記者ドラマに刺激されて、私も新聞記者になりたいと思ったのだ。地方の田舎町で、一人勤務(あるいは、若い夫婦で、勤務)の取材記者たちが、地域社会の住民たちと一緒に古い社会の慣習と闘ったり、新しい社会秩序構築に向けて、協力したり、する姿を映し取って行く、という笑いあり、涙ありの、ヒューマン・ドキュメンタリードラマだった。生まれも育ちも、東京育ち、という少年には、地方暮らしが珍しかったのだ。

 その後、大阪での一人ぽっちの休日など、映画館に入り、映画「男はつらいよ」(その後、長いシリーズものとなる、寅さん映画の第一作)を見ていると、東京では、行ったこともなかった葛飾・柴又や江戸川が、画面のバックとして、映し出されると懐かしさのために涙が浮かんできた。渥美清が歌う主題歌も素晴らしい。

 「ああ、これが、郷愁か」という思いで胸がいっぱいになったものだ。

 実際、赴任するまで、縁もゆかりもない地方都市で、知り合いもいない中で、NHK や新聞社の看板だけを背負って生きる。他人と新たに社会的な、あるいは、個人的な人間関係を作りながら仕事を広げて行くということは、興味深く、おもしろかった。

 普通の企業人となり、経営者になる気は、サラサラなく、就職先も選択には、悩んでいた。
 ドラマ「地方記者」は、格好の就職ガイドであった。
 地方記者の原作は、朝日新聞社。一人勤務の通信局記者から社内募集した複数の記者体験手記を選び出した単行本であった。珍しい世界だったせいか、増刷された上、続巻も出版された。その上、後に、日本テレビでシリーズものとして、テレビドラマ化もされた。先にも触れたように主人公役は、真面目男が似合う小山田宗徳が演じた。一人勤務の地方記者を助けるのは、妻役は、水木麗子であった。高校・大学時代は、この二人に憧れて、ジャーナリストを夢見て暮らしていた。そして、希望通り、ジャーナリスト・.NHKの記者になり、大阪の地方記者勤務になった。さまざまな任地で先輩記者やデスクに鍛えられて、記者らしく成長して行ったと思う。

大阪時代:1971年〜75年

 大阪中央放送局での研修の後、1971年、私は大阪・豊中地区(地域駐在・大阪空港専任)を担当した。新聞社の航空担当記者は、経験10年の専任記者たち。地域駐在が、地方記者勤務。豊中は、商都・大阪で働く人々のベッドタウンのひとつ。

 豊中は大阪の密集地の中にある。大阪空港の着陸コースの直下であった。機体を安定させながら、併せて、ゆっくり高度を下げながら真っ直ぐ降りて来る。一方、兵庫県の伊丹地区は、離陸コースの直下であった。伊丹の酒で知られる。こちらは、離陸後、グイグイ、急な角度で、機首を持ち上げながらも、左へ旋回しながら遠い目的地に向かって飛び去って行く。

 特に、大阪空港へのエアバス(大型ジェット機乗り入れ)問題、その裏側にある、空港公害問題、NHKの難視聴・受信料問題)など、今後とも、社会が直面する問題が待ち構えている。

 1975年、4年間の大阪勤務終了。東京・報道局へ転勤。大阪では、泊まり勤務の時に遭遇した千日前デパートの火災事故くらいか。メモを見ても思い出せ無いほど、穏やかな日々であった。その分、私は大阪空港公害問題をほかの記者らとともに、チームを組み、連携して取材を継続した。

 地方記者から、遊軍記者へ。私の記者志望が、明確になる。特に、公害記者へ。私の記者としての主軸は、公害記者と決める。大阪空港(豊中側)、伊丹空港(伊丹側)の航空公害が、それぞれ周辺住民から提訴され、大阪空港は、世界的にも、空港という公害として、社会問題化して行く。

1975年〜東京・報道局(社会部)へ転勤の内示があった。

 大阪在勤時代に体験した地方記者の仕事ぶり、晴れて東京で体験することになる大都会・取材体験などは、私の小史を踏まえて、具体的には後述したい。
 中括りを終えた私の人生は、記者人生後半は、どう生きるか?が、新たなテーマであった。

★ 報道局・社会部時代:1975年〜1982年

 東京報道局(社会部)では、警視庁(2方面所轄署廻り)、都庁担当(当時は、話題のマルクス経済学者・美濃部都政時代)を経て社会部・遊軍記者(プロジェクトや企画)担当のという取材ポイントを得意としたし、当時各地で訴訟になっていた公害問題を取材チームとしていくつも担当していた。全国を飛び廻り始めた。それまで、公害問題は、マスメディアからは地域の問題として理解されていたところがある。

 地域の問題も、住民たちの健康被害の発症などは、いわば、風土病として理解されてきた。
 そういう「誤解」を利用して、社会や、企業、行政、メディアなどの高い壁の後ろに逃げ込んでいた嫌いがあった。それが、例えば、NHK社会部なども、日々のニュース取材をする記者などと連携して、報道番組、社会番組などのPD(プログラム・ディレクター)なども参加して、番組自体が社会へ向けて問題提起をするようになった。

 私の立ち位置は、このようにスタンスが変わるターニングポイントに差し掛かっていたと言えるのではないかと思われる。「発生もの対応取材」から、戦略を練って、ターゲットを打ち負かす、「遊軍対応取材」へ。超多忙だったが、やり甲斐があった。

★ 私が関わった公害問題取材。

 取り敢えず、思いつくままに、メモを思い浮かべてみる。

 大阪勤務2年目から4年目までは、大阪空港駐在取材担当で、発生もの(事件事故)警戒、航空機の騒音や排気ガスなど空港周辺生活環境問題を取材した。特に空港問題は、大型ジェット機就航は、どういう公害かを争う新しいテーマだけに、全国から注目されていた。大阪・豊中や兵庫県・伊丹にまたがる大阪国際空港は、いわば、空港という社会システムを巡る現代都市の構造的な問題を総点検する意味でも、興味深く感じたので、私は残りの大阪在勤期間を空港問題に全身でぶつかっていくことになる。空港と市民生活、ジェット機の大型化など、私にとって、ジェット機は、社会が見せつけてくる、さまざまなニュース・ソースの発信地であった。

 そのほか、後の社会部・公害記者として取り組んだ公害問題では、名古屋の新幹線問題、水俣病問題、東京の六価クロム汚染問題、富山県・神通川のカドミウム被害によるイタイイタイ病なども取材した。風土病認識という厚い殻を破り、風土病を近代化させた。薬害問題、地域の障害者・.福祉問題では、国際障害者年キャンペーンなど。公害問題取材に燃える先輩たちの背中を見ながら取材を続ける若手の新人記者なのに、NHKの公害報道の火を消さないように私も情熱を燃やし続けたが、結局、私の記者人生の太い柱になったのは「公害問題」であった、と言える。公害問題は、パブリック(国民)の人権、生活、社会的権利、性などあらゆる領域に忍び込んで行く。私にとっては、社会部・遊軍記者への挑戦であった。

 日本列島の公害問題を取材して、北は、北海道の栗山町から、南は九州、宮崎県延岡の土呂久(とろく)まで、現地取材に駆け回った。

 今になって考えてみると、公害列島と化した日本列島の将来像を予告していた、のではないか。大きく括れば、1975年から2025年(退職後、理事などを務めた日本ペンクラブ活動を含む)までの私の記者としての使命は、そういう情報を未来の私に伝えて来ていたか、ということだろうか。

了)
(2025.11.20)
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