【コラム】大原雄の『流儀』
私論・マイ「メディア史」(8)
★★ 私論・マイ・「メディア史」(8)
大反響! 吉田修一監督作品映画「国宝」以後の歌舞伎の楽しみ方。
それは、映画を観て歌舞伎を学ぶのか、歌舞伎を観て映画を学ぶのか。
いや、そもそも、発想を変えたのは、原作者の小説家・吉田修一であり、
吉田が書いたという原作小説だろう。原作の小説を忘れてはならない。
オルタ広場は、阿国が踊った四条河原から続く代々の歌舞伎役者たちの河原道。
広場に続く永久(とわ)の道。
第一部、私論・マイ「メディア史」シリーズ。
連載回数を10回連載と公言し、「瓢箪の中括り」ということで、一旦、終了。
第二部は、いずれ、再開したい。
幕間のざわめきは、役者の余韻でもあり、観客のため息でもある。
映画は、記録を残して、老いるか?
いやいや、歌舞伎は、歴史を逆流して、若返り続けるだろう。
今、役者たちの世代交代は、歌舞伎人気の秘密。
人は代われど、歌舞伎の様式美は変わらず。
誰が、トラの尾を踏んだのか。
高市発言は、日中問題のトラの尾を踏んだのだ。この状況は、厄介だ。
大きなニュースになったので、メディアは、連日大見出しで報道した。目の前にあるのに、見えないことになっているトラの尾。小さな世辞を深掘りすることが好きな私にも見えた。
さて、どうするか?
先の見えない階段を上っていて、標題のような、つまり、瓢箪の中括(なかくく)りのような「踊り場」(中間段階)にたどり着けるのは、いつになるのか。メディアによると、与党、つまり、政権側の幹部の中には、「日中の対立は数年単位で続く可能性はある」という。首相になったばかりの高市早苗氏が、首相の立場を忘れて、私見ながら国会の場で日中関係の「公」の根幹部分に関わる価値観の本音を不用意にも述べてしまい、その結果、中国の逆鱗に触れてしまった。「レッドラインを超えた」(中国側の高官である王毅共産党政治局員兼外相)。中国側の怒りは、ご尤も、というシーンであろう。本当の標題は、「台湾有事についての高市首相国会答弁」問題であろうか。
「瓢箪の中括り」とは、私の勝手な解釈では、人生に於いて一休みをし、充電する時間と場所を表現している、つもりである。さて、日本の憲政史上、初の女性首相になり、有権者からも高い支持率を与えられたのに、油断か、慢心か、女性首相周辺は、首相本人の、独りよがりか。保守的強硬派は、口が軽い。その上、思慮が浅い。さあ、大変な人が首相になってしまった、と私は思う。民主主義の劣化の兆し。高市政権、その命運は、ズバリ、後、1年か、2年か。舌禍が、政治家としての命取りになるかも知れない。
★★ :逆コース?
日中間に、あっという間に余計な蟠りを作ってしまった高市政権は、今後、どうなるのか?
話は、先日の南ア(南アフリカ)のG20サミットの会議の場から、再開される。記事は、メディア各紙を参照して、まとめた。
「11月23日、主要20ヶ国・地域首脳会議(G20サミット)出席のため南アを訪問した高市早苗首相は、同じく出席した中国の李強首相と会話をしないまま、全ての日程を終えた」(前掲同紙参照)という。日本との外交は、今回のサミットでは、予定外とされた、と、伝えられた。22日に各国首脳らと集合写真に納まる際には李氏と高市氏は数メートルほど離れたポイントにいて、立っていたようであるがたが、写真撮影後、李氏はすぐに立ち去り、両首脳が言葉を交わす機会はなかった」という(政治家の動静、発言など朝日新聞ほかメディアの情報を総合的にまとめて、参照)日中の両首相は、「日中接触せずG20閉幕」というメディアの見出しのまま終わってしまったという次第である。
★ 正面から、懐中に入るか?
朝日新聞などメディアの日中関係記事の見出し。
「中国、国際社会で対日批判」「香港政府トップ高市氏答弁批判」「首相『我が国はオープン』」など。日本のお店は、開店休業のようだが、他(ほか)の店は、早仕舞いやら、とか。
中国側の関係者は、それこそ、習近平国家主席の判断をベースにトップらの判断は、一枚岩の判断になっていることだろうが、日本側は、この問題について、これまでの段階では、そこまで迷いのない判断になっていなかったような気がする。対立の出鼻で遅れを取ってしまったような状況ではないのか。敗北感のみ、厳しくて。
サミットの首脳の集合写真を見ると、高市首相と中国の李強首相は、2人とも最前列の左右の端に立っている。2人の間には、3人が立っているが、最前列ということもあり、高市は思い切って、立ち位置を離れて最前列脇の李強首相に近づき、お天気の話でも、サミットの話でも、次回の会議の都合でも、なんでも良いから、声を掛けてしまえば、良かったのではないか。政権幹部が言うように、何もせずに「淡々としていればよい」というのなら、「今回は、ごめんなさい、慣れていないので、今回は、近づかずにいますね」が、ハッキリ判るような態度で示せば良かったのではないか、と思う。中途半端な態度を取りつづければ、「日本側は真剣に考えていないのではないかと、邪推されるだけでは、ないのか。却って、誤解を助長するだけで、事態の解決を遅らせると思う。高市政権の側近の中にも、人物、識見などで、首相を助けられる器量のある人物は居ないのか。きっと、居ないのだろうな。いたら、もっとうまくやっているよ。
★「首相/動静」
現地時間22日午後の「首相/動静」を見ると、高市首相の写真撮影の後の行動は、次のようなものであった。以下の通り。記事参照、一部引用。
い
22日午後、英首相と会談。宿泊先のホテル(南ア)。
23日午前、サミット出席。独首相と会談。午後、仏大統領と懇談。閉幕セッション。印首相と会談。南ア大統領と会談。宿泊先のホテルで、同行記者団のインタビュー。
サミットの裏では、中国の李首相との対応を想定していたのだろうなあ。
時間が、余ってしまったので、というような会談や「懇談(失礼!)の予定を入れたわけではないよね。そういう読者の疑問を朝日新記者も同行記者団も読者の代わりに解き明かしてはくれていないね。メディアの自己認識の薄弱さ。
朝日新聞、(11月)24日付朝刊1面「座標軸」では、論説主幹が高市早苗首相の発言を批判しているが、私も同感である。
曰く:首相は、「自らの持論をつい口に出したものか。対中強硬のタカ派色を出そうと国内向けに発信したのか。いずれにせよ、首相自身が『反省』したように、軽率きわまりない」(前掲同紙参照、一部引用)の、一言だったことは、間違い無いだろう。
私は、論説主幹が推測する後者の見解を支持する。初日は、慎重に土俵に上った首相は、有権者の支持率も高くて油断して、自分のカラーをもっと出しても大丈夫、と思い込んでしまったのではないか。自己顕示欲が、強すぎないか。
外交の常識、大局観を欠いた高市首相発言は、まだまだ、続いているのではないか。
高市さんに対するパブリックな見守りは、国民の目による継続観察としてますます必要のようだが、高市さん、大丈夫だろうか。
★★:さまざまな◯◯年
戦後◯◯年、という言い回しが、流行っている。戦後というゾーンは、限定的だ。防衛費の増額など本音を隠して、非核三原則の見直しなども絡めて権力の地位を利用した「前倒し、急げ!新しい目標値設定」などが国会の焦点へと切り替わったり、していないか。高市発言については、「前倒し」から「前のめり」への危惧、懸念を感じた国民も多かったものと推察される。有権者は、騙せない。
★ 1975年〜。何が起きたか
東京・報道局(社会部)へ転勤の内示があった。この年は、私にとっても、エポックメイキングな年だったことが後に判る。学生時代と別れを告げて、テレビでお馴染みになり始めた「上方漫才」の世界へ。リアルに世界が大回転したようだ。「リアル」という言葉は、未だなかった。現代日本語では、リアルという、この言葉は、当時の大阪弁、あるいは、関西弁で、言い換えれば、「マジで?」「マジか?」という辺りの言葉に翻訳されるか。テレビで見聞きしたか、週末の大阪の新喜劇の中継もののコメディで馴染まされてきたのか、瞬く間に、関西の世界へ、私の言葉も、語尾や目付き、手つきも、おかしくなっていったらしい。大阪の大ニュータウン・千里で、暮らした生活の跡は、言葉に残ってしまったらしい。
久しぶりに東京の実家に帰ると、その頃、まだ未婚だった上の妹が、
「あら、お兄ちゃん、大阪弁を喋ってる。」って、言われてしまった。東京でしか暮らしたことが無いのに、ニュアンスやイントネーションは、変化するものなのか?
せっかく馴染んだ、なにわ喜劇の世界に別れを告げて、生まれ育った、東京の街へ引き戻されてしまった。4年間、馴染んだ大阪の街。さよなら。
大阪在勤時代に体験した地方記者の仕事ぶり、晴れて東京で体験することになる大都会・取材体験などは、私の小史を踏まえて、具体的には後述したい。
中括りを終えた私の人生は、公害記者であった。つまり、公害問題とガップリ組んだ私の記者人生後半を私はどう生きたか?
それが、新たなテーマであった。
★ 報道局・社会部:私の社会部記者時代
1975年〜1982年、私は、中学生時代から大学生・大学院生時代まで、地方記者に憧れ、東京のジャーナリストには成らずに、頑張ってみたいと思っていたのに、私は目の前に開けてきた新しい道にがむしゃらなまま飛び込んでいった。
私は、警視庁記者が花形だった社会部記者には、余り、関心が向かなかった。デスクには、いじめられなかったと思うが、先輩記者の中には、露骨に顔を背ける人もいたようだ。誰もがなりたがる華のサツ(警察)記者になりたがらない社会部記者なんて、社会部記者の風上にも置けない奴だと、陰では言っていたらしい。大阪放送局を4年間で通過し、東京・社会部に戻って7年間、公害記者を継続的に務めた。「おう、攻め上って来たな」と、私を激励してくださった先輩記者もいた。考えてみれば、学生から、新米記者になり、更に、新人記者になり。私たちの世界では、「米」がやっと、「人」になったと、揶揄われた新人記者の成長振りを祝ってくれたものだ。先輩の皆さん、お世話になりました。きょうからは、先輩の皆さんも、ライバルです。
東京報道局(社会部)では、警視庁(2方面所轄署廻り)、都庁担当(当時は、話題のマルクス経済学者・美濃部都政時代)を経て社会部・遊軍記者(プロジェクトや企画)担当のという取材ポイントを得意としたし、当時各地で訴訟になっていた公害問題を取材チームとしていくつも担当していた。3年間は、公害問題を追って、全国の被害地を飛び廻り始めた。それまで、公害問題は、マスメディアからは地域の問題として理解されていたところがある。
地域の問題も、住民たちの健康被害の発症などは、いわば、風土病として理解されてきた。
そういう「誤解」を利用して、経済至上主義の社会や、企業、行政、メディアなどの高い壁の後ろに逃げ込んでいた嫌いがあった。それが、例えば、NHK社会部なども、日々のニュース取材をする記者などと連携して、報道番組、社会番組などのPD(プログラム・ディレクター)なども参加して、番組自体が社会へ向けて問題提起をするようになった。
中堅記者から新人デスクへ。私たちの世代の記者たちの立ち位置は、このようにスタンスが変わるターニングポイントに差し掛かっていたと言えるのではないかと思われる。「発生もの対応取材」から、事前に戦略を練って、ターゲットを打ち負かす、「遊軍対応取材」へ。超多忙だったが、私には、やり甲斐があった。「発生もの対応」とは、突発的な事件、事故などの取材を言う。「遊軍対応」は、社会に対する問題意識を持ち、社会構造の解明に知恵を巡らす取材を言う。
★ 社会部遊軍記者という記者像
社会部遊軍記者として、私がが関わった公害問題取材報道については、まず、地方から取材が始まった。
初心から関わった取材も多く、手探りで取材を始めた。
取り敢えず、大雑把ながら思いつくままに、メモを思い浮かべてみる。今回のコラム執筆は、恥ずかしながら、スケッチ調だ。いずれ、きちんと書いてみたいテーマなのだ。
まずは、水中に足を入れて、「瀬踏み」をする。
大阪勤務2年目から4年目までは、大阪空港駐在取材担当で、発生もの(事件事故)警戒、航空機の騒音や排気ガスなど空港周辺生活環境問題を取材した。特に空港問題は、大型ジェット機就航は、どういう公害かを争う新しいテーマだけに、全国から注目されていた。大阪・豊中や兵庫県・伊丹にまたがる大阪国際空港は、いわば、空港という社会システムを巡る現代都市の構造的な問題を総点検する意味でも、興味深く感じたので、私は新人記者ながら、残りの大阪在勤期間を空港問題に全身でぶつかっていくことになる。空港と市民生活、ジェット機の大型化など、私にとって、ジェット機は、社会が見せつけてくる、さまざまなニュース・ソースの発信地であった。
そのほか、後の社会部・公害記者として取り組んだ公害問題では、名古屋の新幹線問題、水俣病問題、東京の六価クロム汚染問題、富山県・神通川のカドミウム被害によるイタイイタイ病なども取材した。風土病認識という厚い殻を破り、風土病に対する意識を近代化させた。先輩記者たちが切り拓いた薬害問題、地域の障害者・.福祉問題では、国際障害者年キャンペーンなど。公害問題取材に燃える先輩たちの背中を見ながら取材を続ける若手の新人記者なのに、NHKの公害報道の火を消さないように私も情熱を燃やし続けたが、結局、私の記者人生の太い柱になったのは「公害問題」であった、と言える。公害問題は、パブリック(国民)の人権、生活、社会的権利、性などあらゆる領域に忍び込んで行く。私にとっては、地方記者から東京の社会部・遊軍記者へと、変身する挑戦であった。
日本列島の公害問題を取材して、北は、北海道の栗山町から、南は九州、宮崎県の旧土呂久(とろく)鉱山のヒ素による環境汚染まで、現地取材に各地を駆け回った。地道な取材を続けて来た地方記者たちとの連携取材である。
特に、九州。土呂久鉱山跡は、初夏に取材に行ったせいか、谷や川を流れる水の透明度が素晴らしかった。見えない毒こそが、環境を穢す元凶だと学んだ。
今になって考えてみると、公害列島と化した日本列島の将来像を予告していた、のではないか。私の記者生活を大きく括れば、1975年から2025年(報道局社会部ほかNHKを退職した後、縁があって会員として入会し、理事などを6期12年役員を務めた日本ペンクラブのフリージャーナリスト活動を含む)までの私のフリーな記者としての使命は、そういう情報を未来の私自身にきちんと伝えて来ていたか、ということだろうか。記者時代から、日本ペンクラブ理事までの半世紀を超えるジャーナリスト生活は、今回、初めて書いた文章を超えて、まだ見ぬ大海へ向けて、流れ続けているものと思われる。
★ テレビの記者ものドラマ
既に触れたように、NHKTVでは、大都会・東京で警視庁の捜査陣が発生する難事件解決に取り組む姿を浮き彫りにした、タイトルもそのものズバリの「事件記者」が、人気を呼んでいた。確か、ドラマ「地方記者」は、日本テレビのプロ野球中継(巨人戦)が、雨で中止になった時の控え番組だったと思う。原作は、朝日新聞の通信局(局長)記者(一人勤務)たちの手記集。事件や事故の取材体験などをヒューマンドキュメンタリーの味わいが良く、単行本は売れたそうで、「続 地方記者」も刊行された。私は、地元の商店街の書店で、2冊とも買い求めて読んだものだ。これが暫くして、シリーズもののテレビドラマになったというわけだ。
ドラマの冒頭のナレーションが、多分、NHKの「事件記者」に対抗する気概をぶつけていた、と思われる。「華やかな大都会・.(東京)だけで特種を追いかける新聞記者だけが、新聞記者ではない」という意味のことを宣うのだ。文意は間違っていないと思うが、表現は違っているだろうと思う。そうだそうだ、と思い、格好の良い事件記者よりペーソスのある地方記者になりたいと思ったあたりが、私らしいということか。
この連載コラムでは、多層化する文脈次第で同じ時期のこともお構いなく、敢えて繰り返して書いている。重複ごめんで書いているから、お許し願いたい。
少年時代からの新聞記者志望は書いたが、前回、この連載での記述は、激動する現在の世相の変化を追うだけで私論が追えず、大学卒業までの記述で、一度、立ち消えになってしまった。読者の方には申し訳ない。また、意図的に書いていない時代もあるので、いずれ、機会を見て再開したいと思っている。
★★ ロッキード事件・.特別版
「およげ! たいやきくん」
という歌を知っていますか。
子門真人(しもん まさと)が、歌って、
大ヒットした、コミックソングである。
一番の歌詞だけ書いておこうか。
「まいにち まいにち
ぼくらは てっぱんのうえでやかれて
いやになっちゃうよ」
という歌詞が、マスメディアの最前線で、交代ながら毎日、毎日、張り番担当を強いられる記者たちの心象を鋭く描いていたと言えるだろうか。張り番仲間の誰かが「作詞」したのか、いつのまにか、この時代の警察取材担当の、替え歌・一種のコマーシャルソングとして歌われていた、というところだろう。
私も、このロッキード事件の張り番担当は、最後まで付き合わされたのだから貴重な体験者であったといえるだろう。
私のロッキード事件体験談にも、触れておきたい。
1975夏の定期移動で、正式にNHK東京の社会部記者となって、私も上京した。社会部1年生にとって、最初の1年間は、年次が若い順に8人の記者は、警視庁の8つの方面に分けられた所轄署の方面機能のある警察の記者クラブに張り付けられた。通称「方面」担当。メンバーは、全国紙の各社の新聞記者、通信社の記者、NHKの記者、という顔ぶれであった。各社の将来のエリート記者たちである。各記者とも、取材のライバルではあったが、地方の支局勤務を突破して、晴れて本社勤務に「出世」して来たばかりだから、皆張り切っていた。
私が張り付けられたのは、2方面。立正大学キャンパスの近く大崎警察署に記者クラブがあった。区役所で言えば、大田区、品川区。
当時人気歌手の一人であった克美しげるが、事件を起こした。付き合っていた女性を殺害して逃げたのである。女性の遺体を羽田空港の駐車場に駐めた車のトランクに入れたままであった。それが発覚した。克美しげるは、よく伸びる男性の美声で「さすらい」などという歌を唄って、ヒットさせていた。まあ、これはここでは余談としておこう。もっと大きな事件があった、からである。
そして、発覚したのがロッキード事件。私たち方面担当は、新聞記者で言えば、最前線の記者たちである。ロッキード事件では、どこの社も、管内に住む事件関係者の自宅や会社などの動静チェック担当である。児玉誉士夫邸などの門や玄関前付近に黒塗りのハイヤーを停めて、人の出入りをチェックする役目である。事件発覚以来、路上の臨時記者クラブ詰め、というところである。だが、相手は日本右翼の巨魁。言論の自由しか持たない、若き報道記者たち。児玉誉士夫邸の塀の外で警戒取材をしている我々に向かって、時折り、水道のホースを向けて塀の内から水を掛けにくる。児玉のところの若い衆たちのイタズラであった。取材妨害。ある日など、何処かから飛来して来た小型機は、操縦士を乗せたまま、児玉邸の屋敷内に、頭から突っ込んで行ったことがある。幸い近隣にも、塀の内外にいた右翼の若い連中も、報道陣の我々も無事だった。
★★ 「たいやきくん」の歌
雨の日も、雪の日も、張り番担当記者は、児玉誉士夫邸の門前から単独では動けない。張り番」と、呼ばれる担務であった。トイレ、食事、留守していた時に何か事件でもあれば、自分の社だけ、「とくオチ」(「とくダネ」の逆)になってしまうからである。
その頃流行っていた歌が、「およげ!たいやきくん」であった。この歌の歌詞の中に、こういう内容の文句があったから、いつのまにか、この歌の替え歌が、若い私たち、警察廻りの記者の愛唱歌になっていたのである。
「毎日、毎日、ぼくらは張り番で、水を掛けられ、イヤになっちゃうよ」というわけだ。
了)
(2025.12.20)
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