【コラム】八十路の影法師

続 宣教師 ヘボン

竹本 泰則 
 
 ローマ字のヘボン式つづり方を普及させた人、ジェームス・カーティス・ヘボンは幕末から明治にかけてわが国で活躍したキリスト教宣教師でした。
 1862年(文久二年)の年末、ヘボンは来日以来およそ2年間にわたって生活の拠点としてきた仏教寺院・成仏寺(現横浜市神奈川区)を離れ、居留地(幕府が外国人の居住・交易を行う区域として定めた地域、開港した各地に設けられた)に転居しています。そこには独立した施療院を設け、一時は中断していた無償の医療活動を再開し、以後十年間以上にわたって施療を継続しています。また、日本の医学生に対して医学の教育も行っています。
 居留地に移ってから、ヘボンは日本語研究を本格化します。宣教活動には聖書の日本語訳本は欠かせないものだけに、みずから聖書を翻訳する意欲を当初からもっていたようです。日本語を正確に習得しようと単語を蒐集し、それらを分類定義し、日本語の文法上の原則や慣用句になれるような努力を重ねたといっています。さらに、参考になる書籍にも目を通していたようです。
 単語の蒐集には医療など様々な機会をとらえて実行していたようですが、外出のときなどでも、行きかう人に「コレハナンデスカ」と何度も質問していたといいます。
 さらに日本語教師までも雇っていたようです。
 
 7年間の注力を経て、1867年に和英辞書『和英語林集成』をまとめあげ出版にこぎつけています。初版本は横浜とロンドンで発売され、5年後の1872年(明治5年)に再版が、1886年(明治19年)には第三版が刊行されています。第三版への予約部数は18000部にのぼったといいます。この辞書は明治のベストセラーといってもいいようです。宣教師にとってはもちろん、交易に携わる外国人にとっても役立ったはずです。さらには、日本人にとっても貴重な辞書であったようです。
 開国を機に日本には「英学」と呼ばれる学問の流れが台頭してきます。
 江戸時代には蘭学が学ばれていましたが、「英学」はこの延長にあるもので、英語を習得し、英語であらわされた書籍などによって欧米の最新の知識や情勢などを学び取ってゆくものです。
 五か国との通商条約が締結されてから外国との交易が増大し、税務を含めて外国・外国人にかかわる事務が増えたことから、幕府は吏員に対しての英語教育を急ぎます。江戸に洋書翻訳を担当する役所を設け、下田、箱館(函館)、長崎、横浜で英語教育を開始します。
 横浜には官舎を利用して英学所が設けられ、米国領事ハリスが推薦したヘボンとS.R.ブラウン(米国・オランダ改革派教会派遣の宣教師)の二人が採用されています。はじめのころ、ヘボンは担当する授業はなかったようですが、学生数の増加などによるのでしょう、英語で地理を教えることもあったようです。さらに、ヘボン夫人も教壇に立ったようです。
 長崎ではフルベッキ(米国・オランダ改革派教会派遣の宣教師)などが佐賀藩士・大隈重信などに教授しています。宣教師に英語教授を要請するというケースは多かったようです。
 諸藩でも英語教育を取り入れるところも出てきます(佐賀、中津、紀州、長州、土佐など)。さらに、その数はわかりませんが、私塾も林立したようです。宣教師の中にはヘボンのようにみずから私塾を立ち上げて英語を教えるという例が多く、現在「ミッションスクール」とよばれる学校も、源流はそうした私塾であったという例は珍しくありません。日本人の中にもペリー艦隊来航時に通訳を務めた森山栄之助(森山多吉郎)が、江戸・小石川に英語塾を開き、ここからは外交官や通訳として活躍する人材を多く輩出しています。
 こうした時流に呼応して「英学」を学ぶ学生にもヘボンの辞書は歓迎されたことだろうと思われます。
 
 話は少しそれますが、『和英語林集成』は初版、再版、三版と版を重ねるごとに収録する語数が増えています。初版は20,772語ですが、再版では22,949語に増え、三版に至っては35,618語と初版の1.7倍までになっています。この現象も「英学」の影響による部分が大きいと思われます。
 欧米の書物にはそれまで日本になかった概念や制度や事象などが出てきます。それらを解釈、あるいは、説明するには新しい日本語を作る以外にありません。つまりは英語の翻訳語が大量に生まれたのです。例えば第三版に収録されている言葉で、初版に無いものを少しばかり拾ってみますと、思想、宗教、哲学、分子、原子、時間、空間、主義といった熟語があります。近世から近代にかけての日本語語彙の変化を示すものでしょう。『和英語林集成』は日本語研究にも貴重な資料です。
 
 『和英語林集成』の初版刊行から5年後の1872年、各宗派の在日宣教師がヘボン邸に集合、5日間の話し合いの末、聖書の日本語訳に共同して当たることが決議されます。ヘボンやほかの宣教師の中にも独自に聖書翻訳を手掛けていた人もいたようですが、この話し合いによって委員と担当者を決めて組織的に翻訳作業をすることになったようです。
 1875年に「路加傳」(ルカ伝)が刊行されたのを皮切りに、1879年(明治12年)11月に新約聖書の翻訳が完了しています。1888年(明治21年)になって旧約聖書の翻訳も完了し、同年2月3日に聖書翻訳完成祝賀会が開催されています。ヘボンは唯一人、新約・旧約を通して関与しており、祝賀会のスピーチで登壇したときには両の手にそれぞれの本を乗せて見せたといいます。このときヘボンは一か月後には73歳を迎える年齢でした。
 
 聖書の日本語翻訳が完結してヘボンは記念碑的ともいえそうな仕事をしています。
 1874年に居留地の中に「横浜第一長老公会」を建てますが、その後転地していたこの教会を、元の居留地に戻し赤レンガ造りの美しい堂をもつ教会に再建しています。(現「横浜指路教会」……教会堂は関東大震災で倒壊してしまい、現存の堂は再建されたもの。教会内部も横浜大空襲による焼失などを経て現在に至っています)。
 1892年10月、教会再建を終えたヘボン夫妻は33年間に及ぶ日本滞在を終え、米国に帰国しています。
 
 ヘボンの日本における生き方、行跡を概見すると、これぞ「宣教師」と感じます。しかし、それは宗教にかかわりもなく生きている俗物からすると思いもよらぬ世界でもあります。自ら信仰する宗教を、それについてまだ知らぬ人々に説き、同じ信仰にいざなう、それを至上の務めとして、苦労を厭うことなく、文化が違い身の危険もありうるような異郷の地に赴く。利得や賞賛を狙うわけでもなく……。信仰心を核にした使命感といった程度の理解しかできません。
 ひるがえって、現代の我が国の神道、仏教における宣教(布教と言いかえてもいい)の活動をみると、まことに低調です。神社は縁日だ、七五三だ、何だ彼だといって宣伝はしても、宣教はしない。仏教寺院も同様に思えます。仏教の祖である釈迦の生涯を見ると後半生は布教が主であったように思います。釈迦の没後も弟子たちが布教を継続しインドだけにとどまらず、ついには世界宗教にまで育てています。それに引き換えわが国の僧侶は寺から出るとすれば檀家巡りくらいのもので、広く衆生に教えを説こうとする姿勢はあまり見えません。第一、お経を聞かされても何を言っているのかさっぱりわかりません。経典の日本語訳などほとんど無いのではと思われます。
 このような我が国とキリスト教、言い換えれば西洋との違い、これは何でありましょうか。

(2025.12.20)
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